ポリフォニックな肉体/Spark/拓ける

f:id:marginalism:20190306031541p:plain
 Noism1の実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』吉祥寺シアターでの東京公演2019年2.21(木)19:30の回観に行ってきました。この公演知った時は吉祥寺シアターと同じブロックの辺りに習い事で通っていて徒歩圏内だったのに、まさか引っ越して片道2時間近くかけることになるとは思っても見なかった。東京から少し離れた所に住み始めると吉祥寺駅ですら人が多くて酔う。数ヶ月前、あんなにスイスイ歩いていたのが夢のようだ。そして早く海の近くに帰りたいと思ってしまう。久しぶりに行ったら懐かしくなるのかと思いきや全くそんなことなかった。あ、でも、吉祥寺シアターはちょっと懐かしかったです。

 今まで、私が観た作品では『ASU-不可視への献身』の『Training Piece 』や『NINA-物質化する生け贄(ver. 2017) 』がそれだと思うんですが、Noismメソッドを使った作品がどうもピンとこなかったのですね。うまくこなれてないというか、力みすぎというか、制作意図とそこにある身体がフィットしてないというか、頭でっかちで身体に落ちてなくて、ずっと消化不良だったんです。これ多分、金森穣が自分のカンパニーのダンサーを信用しきってないところから来てたんだと思うんです。任せるべき領分を任せないで自分で背負いすぎていた。そして特に女性ダンサーに対して悪しきパターナリズムで以って接しているようにも感じていた。

 そこがちょっと変わってきたのかな?と感じたのは劇的舞踊『ROMEO&JULIETS』 でローレンス神父として女性ダンサーの前に立っていた時で、あれ?女子校で生徒のパワーに圧倒されている男性教諭みたいな雰囲気になってると思ったんですよね。
 今まで女性ダンサーの前に各々の個性を認めず自分の理想の女性というか、一番よく知っている女性の身体性を押し付けるだけで厳然と壁として立ちはだかっていたんだけど、そこでやっと一人一人のパーソナリティを認め始めたように見えた。
 あのパターナリズム押し付けってなんかヘテロ男性特有なのかな?BBL観に行ってジル・ロマン振付の作品でも似たようなことを感じた。あっちはもっと露骨で、あ、私、この人の作品無理だ、と思った。ベジャール作品がいかに弱者とされる人々への配慮に満ち溢れていたのかも同時に感じた。ベジャール作品を観に行ってこんな仕打ちある?って、ダンサーとしては信用できてもコリオグラファーとしては別なの?って泣きそうになって帰ってきたから、本当にああいうの嫌で、金森穣はそういう臭いを極力排除しようとする人だとは思うんだけど、それでもやっぱり苦しくなることがあって、そこだけは嫌だなと思っていた部分だったので、ロミジュリの後はちょっと期待してたんですよね。

 それで今回の作品観たら、女性陣がやっと解放されて自由に各々の個性のままを尊重されて動いていたの、特定のわかりやすいロールを与えられていなくても。私それがとても嬉しくて。今までずっと男性陣に感じていた魅力が女性陣にはいまいち宿ってなくて、それってやっぱりダンサーの責任じゃなかったんだって。ダンサーは頑張っているように見えているのになんだか群舞ではぎこちなかったの、やっぱりコリオグラフの責任だったんじゃんって。変に女性陣に遠慮してその結果彼女たちの魅力が引き出せてなかったんじゃんって。彼女たちはもっとタフだよ、ズカズカ踏み込んでいきなよってもどかしく思っていた部分がやっと実践されたみたいで嬉しかった。やっと認めてくれたんだって。私自身が女だからって踏みつけられてきたのはまあ当然悔しくて悲しくて散々泣いてきた部分なんだけど、裏にパターナリズムが隠れた優しさで変に気を遣われて能力がうまく発揮できない経験も多くて、そっちは相手の無自覚な暴力をまず指摘しなきゃいけないのが面倒で疲弊してたから、Noism観ててやっとそこが解放されてストレスフリーになったのとっても喜ばしくて、心が飛び上がって跳ね回っていた。

 今回すごく風通し良くなったのは、当然新メンバー由来のところも多くて、カイ・トミオカもなぜか目で追わずにはいられないダンサーだったんですが、何を置いてもジョフォア・ポプラヴスキーの存在感には言及したい。
 彼、さすがのルードラ育ちで、BBLの西洋人男性ダンサーがボレロでメロディ(私が観たのはズアナバール)に襲いかかるのを初めて観た時の感覚が私忘れられないんですけど、あの特有の迸るセクシーさをしっかり備えてますね。あの体格だとリフトも安心して観てられる。そして何より、井関佐和子がとても楽そうだった。舞踊言語のマザーランゲージが一緒の人と組むとこの人こんなに気を遣わずにのびのびとできるんだ、金森穣だからじゃなくて、同郷の人間相手だとこうなるんだって、だとすると今までどれだけ窮屈だったんだろうって胸が詰まった。体格差もあるんだろうけど、今まで金森穣以外の男性ダンサー相手だと身を委ねることができず、リフトする側がちょっと気が引けている分むしろリフトされる側がリードしているように感じていたから、何も考えず飛び込んでいってもしっかり受け止めてくれる息の合い方、これ育ちが一緒だからだろう呼吸のタイミングで、遠慮せず任せられるし、実際やすやすとその要求クリアしていってるのを観てて、彼女も肩の荷を下ろしたんだなと思って、ちょっとそこに非常に感動して泣きそうになった。実際涙こぼしてたかもしれない。

 なんだか全員が全員、変な肩の力が抜けてて、指導を押し付ける側と押し付けられる側という関係性から、それぞれが役目を果たす大人の集団になったようで、それがとにかく嬉しかった。信頼してくれた、っていうのが嬉しかった。客席を信頼できてないから上からダンサーを押し付けるような形を取っていたところもあるはずなので、その頑なさが溶けたのが嬉しかった。今、私たちを信頼しなければカンパニー存続できるかわからない非常に厳しいところにいるんだろうけど、そこから生まれたものも確かにあって、私はその信頼に応えなければならないと思った。やっと信頼してくれたから。

 ということで、確定申告の還付金が入ったらここに申し込みます。
noism.jp

 後半、金森穣と井関佐和子のデュオ『鏡の中の鏡』は、私現在、ユング心理学河合隼雄を読み解く講座に通っているのでアニマとアニムスがテーマだと知った瞬間から楽しみしかなかったんですけど、まず音楽が懐かしかったんですよね。こういう曲、私演奏したことあるなって。あとちょっと音の重なり方がNoismの前作でも使ったプロコのロメジュリに似てるところあった。
www.youtube.com
これとちょっと似てない?
www.youtube.com

 ずっと私は自分のアニムスが男性ではなくて例えば市川房枝のような女闘士のように感じていて、自分の中に男性がいないことが気になっていたんですけど、最近やっとそれを見つけて*1、井関佐和子と金森穣というアニマとアニムスが触れ合った瞬間に身体中を電流が駆け巡ったりしてたんですけど、それよりもとにかくラストなんです。
 ラスト、あそこにああやっているアニムスを、あ、助けに行かなきゃって。私のアニムスがあそこにいる、ああやっている、早く助けに行かなきゃって。もうずっとそこに気を取られて、カーテンコールやってるところに反応したいのにどうしてもそこに、金森穣が、アニムスが作品中で最後にいた場所ばかり目が行ってしまって、劇場から出てもずっとぽかーんとしてて、なんだろうこれ。私の中のゲルダが、「雪の女王」のゲルダが、あの子助けに行かなきゃって、カイを助けに行かなきゃって。私のアニムスがカイってわけでもないような気もするんだけど、でも、もしかしたらそうなのかもしれないけど、今もゲルダがずっとやきもきしているのです。
www.amazon.co.jp



 

*1:別に誰も気にしてないんでしょうけど書き記しておくと映画『ボヘミアン・ラプソディ』鑑賞きっかけで調べまくって掘り下げまくった結果、色々重なっていたことが判明して、私のアニムスがロジャー・テイラーと発見した

原城の幻影/ふたりのみっちん

marginalism2018-11-26


 新作能「沖宮」(https://www.okinomiya.jp/)11/18東京公演を観てきました。元々はそういう予定ではなかったはずですが、石牟礼道子追悼公演となっており、私がこの企画を知った時はまだ存命中だったのですけど、後からパンフレットを読み返すと、これは思っていた以上に石牟礼道子が亡くなったことで余計作品との格闘が大変になったのだろうなと感じたので、なんとか完成まで漕ぎ着けた人たちをしっかり労いたいです。

 原作の「沖宮」を読んだ時、これどうやって能にするんだ……?と、素人の私でさえ思いました。登場人物が多くて、場面転換が多くて、シテになるのかワキになるのかよくわからないような語りがあって、でも、そのよくわからないようなところに石牟礼道子の思い入れが込められていて、想いはわかるというか、それが過多で収拾がつかないところがあるような印象でした。作者自身の体調を考えると、これを整理しろとはとても言えないのもわかるので、彼女の気迫だけが乗っているような作品にどれだけ手を入れられるのだろうか想像もつきませんし、当然仕上がりに関しては見当もつきませんでした。

 それで実際、観能してみますと、まあよくここまで能として仕上げたものだと感服いたしました。石牟礼道子の原作から「おもかさま」を消してしまうのは大変な勇気がいることです。よく決断なさいました。おもかさまの要素を省いて竜神を加えたことで非常にすっきりと整理されて、なおかつ精神性は失わずにしっかりと落とし込まれていて、そしてまた新たに加えられた竜神というキャラクターが大変に魅力的で、これはもう本当に大した仕事をなされました。
 石牟礼道子を神聖視するような人だったらできないんですよ、これ。石牟礼道子の作品からおもかさまを抜くなんて恐れ多くて手をつけられないんです。だからそういう人がどう受け取ったのかはわからないんですけど、能作品としての完成度を上げる方向で手を入れたことを私は最大限に評価したい。多分これ、能に仕上げることに関してはほぼ金剛流に丸投げしてるんですよね。評判は存じていても今までなかなか金剛流の芸に触れることがなくて、この機会を楽しみにしていたのですけど、期待以上に素晴らしくて、すっかり金剛流のファンになってしまいました。

 まず金剛の若宗家が出てきた瞬間にもう素晴らしい。美しい。天草四郎の水縹色というものは、着るべき人が着るとこんなにも映えるのかという美しさ。面は小面なのかなと思ったんですが、きちんと美少年のための面というものがあるのですね。志村ふくみ先生の能衣装というより、着物自体、やはり飾られているだけでは魅力が充分には活かされていなくて、誰かが纏ってこそなのですよね。この日のお客様には随分としむらの着物をお召しになった方がいらっしゃったのですが、その様子を見て、あ、本当に蝶々だ、と思いました。それも揚羽蝶ではなくて紋白蝶が集っているような奥ゆかしさで、着物の方がたくさんいるようなところなのに圧倒されることもなく場をやわらかく包んでくれるような優しさもあって、ふくみ先生のお人柄がそのまま織られてるのでしょう、ゆたかなものに包まれている人々は幸せそうに見えました。これ、包まれている人だけじゃなくて包んでいる着物の方も着られることが何より幸せなように見えました。

 金剛の若宗家が手を通すことによって、初めてあの水縹色の能衣装にも魂が宿ったように見えたのです。私いつもふくみ先生の恭しく飾られている着物を前にすると少し悲しくなっていて。蝶の採集標本のように見せられて、本来持っている命を押さえつけられ奪われているように感じて、確かにそれだけでも美しいのだけれど抑圧されている魂も感じて、なのに私はそこから解放する力がなくて、早くここから動けるようになればいいと願うばかりでした。

 形を変えた命を紡いで作られた着物なのですから、自由に移動して欲しいのです。ある場所に留まっていた命が、形を変えて移動の自由を手に入れたのですから、殺された虫のような扱いはして欲しくないのです。金剛流に多分元からあっただろう黄金に青海波の袴と志村ふくみ先生の作品が融合して天草四郎の格調と同時に人となりが伝わってくるような合わせ方も良かったです。あやの子方の女の子もしっかりと彼女の役割を演じられていて、私は今まで男子の子方しか実際に観たことはなくて、これ女の子がやるしかないんだろうけど、どんなことになるんだろうと気に掛かるところでしたが、あ、この子いいな、とすぐ思って、気をもむことなく彼女に任せて世界観をたゆたうことができました。ピナ・バウシュの「春の祭典」で、生贄に赤いドレスを渡すシークエンスがあるのですが、あやに緋の着物を渡すのって全く同じだなと、そこで世界が二重写しになって私には見えました。ダンスの文法としては全く違いますが精神性は似ているんですよね。ただ、孤独を突き詰めるピナと違ってこちらの方が全体的に優しい。シテ方天草四郎ワキ方の村長のみならず囃子方地謡も後見も皆あやに優しい。それどころか竜神まで優しい。

 実は金剛の宗家演じる竜神が何よりも良かったです。舞がおおらかで大きい。「謡宝生、舞金剛」ってこういうことか!と即座に腑に落ちるほどの説得力がある。いい、金剛流いい。私、あやが緋色の衣装を着せられている時にしつけ糸をぱちん、と鋏で切る音が鳴った瞬間、舞台のモードが変わったと思って、その瞬間にあやはこの世から違う場所に居を移したんだと思って。途端にあの衣装が婚礼衣装にも見えてきて、天草四郎というのが花嫁の父兄に見えてきて、それで竜神が登場すると、先ほどまであんなにも魅力的に見えていた天草四郎の水縹色の水衣が途端に色褪せたんです。自分でも驚いたんだけど、竜神の狩衣の強さの前で色褪せてしまったの。どう見ても何の手も加えていないから、単に私の主観がそうしてしまっただけなんだけど、あやが生贄という自覚と意志を持った瞬間にそうなってしまってた。異世界に嫁ぐということは苦労が絶えないだろうけども、この竜神は彼女を愛し優しく守り包んでくれると確かに感じられて、原作よりだいぶハッピーエンドになった印象です。

 ところで、この作品は美智子さまがいらして一緒に観能することになったのですが、終演後、私たち観客は美智子さまにも拍手をしていたんです。私なぜかそこに感極まって涙がこぼれそうになったんです。それが不思議で不思議で。私、天皇制に特に思い入れがあるわけでもないんです。否定するわけでもないけど熱狂的に支持するわけでもなくて、ただなんとなくあってなんとなく尊重するもの以上に考えたことないんです。皇后陛下というよりは美智子さま個人に対してなんとなく親しみのようなものは抱いたりしていますけど、深く知っているわけでも掘り下げたいわけでもなく、全てにおいてふわっと茫洋としたものしかないはずなんです。

 あれは一体なんだったのだろうな、と考えつつ外に出ますと、そこに皆立ち止まっているんです。え?国立能楽堂の外に出ちゃいけないの?と困惑してたら美智子さまがお帰りになられるからということで警備がすごかったみたいなんです。私そこにびっくりして。皇室の人って何か鑑賞に出向いても、最後までその場にいないで立ち去る印象があって、たとえそれが最後の一音と余韻に全てがあるようなマーラーの9番であっても途中で退席(させられてる)イメージがあって、特に美智子さまはできるだけ迷惑をかけないように配慮されているイメージがとりわけあったので、あ、そういえば最後までいたわ、と、ここでそれがどういうことか気づいてびっくりして。

 あの美智子さまが、それでもあえてわがままを通して、警備にも観客にも迷惑をかけているのは重々承知だけれども、それでも今回だけはと強い想いがあって、それで警察やSPや私たちを待たせているって、どれだけの気持ちでこの舞台に駆けつけたのだろうと思って。

 警備の人が私たちに何度も言うんです、「もうすぐ来られます」って。でも、名残惜しいのか随分と待たされてやっぱり来なくてもう来るかなってまた繰り返して、最終的には警備の人苦笑して私たちも笑って。だって、私たちも美智子さまのお気持ちわかるから。同じもの観たのだからわかるから、気が済むまでいればいいと思って国立能楽堂の玄関口と門の間で皆待ってて。その間になんだか私は原城に籠城するモブのキリシタン農民と同化してしまって、だって美智子さまってあやなんです。私たちの中から生贄として差し出された女の子なんです。生贄が束の間の里帰りをしてきたようなものなんです。珍しく長居をしていることだって、私たちを信頼しているからできることなんです。この人たちだったらちょっと甘えてもいいかなって常に周囲に気を遣って生活している人が思ってくれたわけでしょう。だからもうありがたくてありがたくて。それはその場にいた全員がそうです。その場が原城になっているんです。立てこもっているキリシタンも生贄を捕まえにきている役人も一緒に同じ気持ちを共有して待ってるんです。もうこの場にいる間だけは皇后陛下でも美智子さまでもなくてみっちんでいていいよってそういう構えなんです。キリシタンのあやが小舟に乗って竜神の所へ参ったように、彼女もキリシタンみたいなところから違う神の元へ嫁いだ人です。あの車に乗った瞬間に彼女はもうみっちんではなくて皇后陛下にならざるを得ないのだから、もう少し羽を伸ばさせてあげたいと思って、彼女を見送るまでがこの作品なんだと、皆で出迎えて、皆でお見送りして、彼女と皆で手を振り合って、彼女がみっちんから美智子さまになって、皇后陛下になるところまでを見届けて、皆でため息をつくまでが天にいる方のみっちんが仕組んだものだったんじゃないかなと、そこに追悼というか、追悼という一方通行のものではなくて、それじゃつまらないとちゃんと対話しにくる石牟礼道子の魂を感じました。

わたし(たち)がジュリエット(たち)だったころ

marginalism2018-10-03

 いつもより一際強い緊張感と共に9月14日にNoism1×SPAC 劇的舞踊vol.4『ROMEO&JULIETS』埼玉公演(http://noism.jp/npe/n1_spac_romeo_juliets_saitama/)行ってまいりました。この曲は人生で一番聴いたクラシック音楽というか、人生で一番聴いて演奏した音楽です。演奏している期間の終わり頃には、自分が演奏家として長くないと気づき、最後まで心身が持つか引退までの期間を逆算するようになった曲でもあります。心身の限界を超えて頑張りぬいたのが正解だったのかどうか今でも良くわかりませんが、そうしなければ生きて来られなかったのは確かです。クラシックバレエロミオとジュリエットを観る時は、音楽の特定の箇所で手首と顎の古傷が痛むくらいで済むのですけど、今回はNoismですから何が起こるのかわからないというか、何も起こらなかったらどうしようということを心配しました。これだけ強く生きた曲を、生き抜いた曲を使って腑抜けた世界観が描かれていたらどうしようと恐れました。わたしは、ジュリエットとしてのわたしは成仏しているのだろうか、いや成仏っておかしいんだけどそういうほかない感覚をもって幕が上がるのを待ちました。

 その頃の私のささやかな夢はバレエの伴奏をすることでした。バレエ音楽を演奏しているのに自分たちが主役になっているのが解せませんでした。バレエのための音楽なのだから、バレエのために演奏したいと思っていました。結局想像で踊らせている人がいて、密かにその人のために演奏するしかありませんでした。私がジュリエットなのではなくて、踊るひとがジュリエットなんだと、自分の中で区分けしていたように思うのです。いつも悪目立ちする自分を持て余して、ひっそりとした伴奏者になりたいと願っていました。

 幕が上がると、よく知っているフレーズが飛び込んできました。それと同時に踊るひとが登場しました。踊るひとは私でした。踊るひとと音楽が一緒にわたしでした。一気にないはずのオーケストラボックスに、いるはずのない舞台にわたしは引き上げられました。

 そこからは冷静に観客席に座っていられないのです。観客席に座っている肉体の私はいるのですけど、意識は舞台のあちら側にいるのです。舞台がわたしなのです。舞台のわたしの中でジュリエットたちが踊っているのです。目の前で展開している踊りと人生で一番濃厚にこの曲と過ごした時代が混沌としているのです。舞台が進むのと共にあの1年を追体験しているのです。そこにわたしの意志はなく、ひたすら流れに身を任せるしかないのです。

 わたしはあの頃のわたしを初めて客席から見ています。そして、あの頃のわたしを切なく、愛おしく思います。なぜ自分が言葉を、声を持たないパフォーマーに魅かれるのかやっとわかります。楽器の演奏というのは、言葉や声に頼らず全て自分が出す音で表現するしかないからです。ピアノ教室で場面緘黙になっているわたしは声を出せずに踊るしかないジュリエットです。親はピアノ教師をしがない田舎の教育大出風情が、という扱いをしますし、ピアノ教師はそんな親を憐れみます。親とピアノ教師の関係は、私とわたしのまったく違う顔しか見ていないのでどんどん悪くなっていきましたが、自分でもなぜそうなるのか理由がわからないのでどうにもできなかった、あの頃のわたしが踊っています。
 楽器を手にしていない時の私はよく喋っていました。クラリネットを吹くときのわたしは物理的に喋れませんでした。ピアノ教室には入った途端、理由もわからず心理的に喋れませんでした。舞台が丸ごとわたしでした。練習場の隅っこで白水Uブックスの「ロミオとジュリエット」を読んでいるわたしがいました。ほかのジュリエットがソロに差し掛かると心の中で「頑張れ」とエールを送るわたしがいました。毎日のように追加・修正されるロメジュリスコアを授業中に必死に写譜してパート譜を練習までに間に合わせるわたしがいました。やってもやっても宿題が終わらなくて夜中に窓を開けてぼんやりしているわたしがいました。眼下に広がる夜景のわたしがいました。寝不足で全校朝礼中に立ちくらみを起こすわたしがいました。お前は弁論部か、と言いたいくらいディベートで立て板に水で相手を論破する私もいました。

 山岸凉子先生がBSの番組でキエフを再訪し「アラベスク」の登場人物のモデルになったプリマと再会する、という番組を見たことがあります。その時、すでに引退してバレエ学校の校長となった元プリマが劇場の上に立って、そこからの風景を見渡すというシーンがありました。山岸凉子先生は膨大な感情が押し寄せているだろう隣人に何も声をかけられず、「私にはわかりませんが、わかった気になっちゃいけないんです」というようなことをおっしゃっていました。彼女の厳粛さに打たれた私も山岸凉子先生と同じような姿勢を取り、保つように心がけました。

 今なら彼女がそこから何を見たのかわかります。でもそれは、やっぱり簡単に説明できるようなことではなくて、説明とは違う位相の表現によって描き出すしかないのです。
 ジュリエットだったわたしは成仏したのかもしれませんが、かつてわたしがジュリエットだったことは変えようがないのです。

はかなくて過ぎにし方を思ふにも

marginalism2018-05-08


 私がNoismや金森穣を追い続けている一つの理由はモーリス・ベジャールです。TV放送でたまたま初めて見かけた時に、その作品を作った人が教え子だとは知らなかったのですがベジャールを思い出しました。気になって調べたらルードラ出身者とわかり納得しました。ベジャールの精神を受け継いで咀嚼しつつ、そしてまたベジャールエピゴーネンにはなり得ない極東の島国育ちの感性も見出し、この人これからどうなるんだろうと目が離せなくなりました。西洋と東洋の違いもありますけど、「愛や包摂」が勝る表現する人と「孤独や分断」が勝る表現する人という違いがあるのに、それが生まれる場所自体は同じところに見えるのも面白くて。
 金森穣に対していつもここで色々書いてますけども、同時代で同世代を生きる芸術家としては最も注目していますし、間違いなく尊敬しています。

 なので、東京文化会館で、恩師への想いを胸に創作した作品の公演があるなら行かないという選択肢はないでしょう、とNoism1特別公演『Mirroring Memories―それは尊き光のごとく』初日に駆けつけました。
http://noism.jp/npe/noism1_ueno_balletholiday2018_mm/
https://balletholiday.com/2018/news/noism1mirroring-memories.html

 東京文化会館の小ホールって残響の評判は各所から聞いていて、このクラスのピアニストが大ホールじゃなくて小ホール?と思うような公演をたまに見かけてもいて(気になるからその度にチケット争奪戦に参戦するも全敗)、まさか音楽ではなくNoismの公演で東京文化会館小ホール初体験とは思ってもみなかったのですけど、足を踏み入れて一呼吸すると、あえての小ホール公演の意味がわかりました。柔らかい残響に長く包まれる感覚が確かに独特。もともと音響考えずに設計されたと聞いているのにこれは確かに奇跡。でも、音響よすぎて隣の人の鼻息がすごく聞こえて辛かった、音楽公演じゃないからこそあんまり注意もできなくて集中しにくくて辛かった。

 とにもかくにも、あのような神秘的な場所でお披露目されるのが必然であるように思えた文字通り特別な公演でした。
 金森穣本人も「東京文化、ベジャール…」と思ったみたいなんですけど、というより私たちがその深く痛切で濃厚な思い入れのおこぼれを頂戴しているだけなんですけども、結局その言葉に収斂されてゆくプリズムがひたすら尊かったです。金森穣が昨今のBBLダンサーよりよっぽどベジャールダンサーとして登場して、ベジャール作品で見かけたような衣装で恩師に踊りを、祈りを捧げている姿を目の当たりにしているだけで、あとからあとから込み上げてくるものでいっぱいで、いっぱい過ぎて涙としてあふれ続けるほかなくて、愛と孤独が、モーリス・ベジャールと金森穣が一緒に踊っているようにしか見えなくて、いつも金森穣のダンスは大樹のようだと思ってきたそれはきっと菩提樹なんだな、菩提樹というものは愛に満ち溢れてもいるけど、誰にも、何にも寄りかかれなくて孤独でもあるということなんだと、表裏一体なんだと、金森穣がベジャールの写真を指差した時に多分悟ったんです。
 
 愛と孤独の混沌とした対話の中から、漏れ出る全てがいとおしかった。

 ラストの『Träume―それは尊き光のごとく』で示されていたものが、パラレルワールドなのか、それともまだ間に合う未来なのか、カンパニーのメタファーなのか、でもこれは切り分けるより渾然一体のままとしておきたいので受け取った形を崩さないように気をつけていますが、金森穣と井関佐和子がデュオで踊った後*1、手を引かれた浅海侑加に象徴として託された純粋なたましいが、対話の行き着いた先だと思うと、朝顔の露を覗き込むようにずっと見ていた向こうの世界がこちらとつながったように思えて、見ていたはずの露が私からポロポロこぼれて、客席の他の人からも、金森穣からもこぼれて、最初はちらほらだったスタンディングオベーションの数がカーテンコールの回数重ねるたびにさざ波のように増えて、最終的に大波になって皆立ってしまっていたという現場は初めてで、ものすごく感動しました。

 あと、ダンサーとしての井本星那に惹きつけられました。彼女のしっとりと翳りのあるたおやかな存在感に目が行って離れなくなってしまう。井関佐和子は薔薇や百合や向日葵のような線のはっきりした強い華を持つんですけど、井本星那は桜やコスモスやネモフィラのように儚く揺れて震えているような華で、油彩画と水彩画のような違いで、それが共存すると微妙な陰影のニュアンスや余韻の色のトーンが深まって出るのでいいなと思います。どちらがいい悪いではなくて、かつてのBBLにエリザベット・ロスがいて、クリスティーヌ・ブランがいた、みたいなことです。今回は『カルメン』より「ミカエラの孤独」を本来カルメンのはずの井関佐和子が踊って、それはドッペルゲンガーとして効果的だったので面白かったんですが、井本星那のミカエラも見てみたいです。

 このような演目で金森穣が踊ったパートに「ブラボー!」の声がかかるのは当然とも言えるのですけど、金森穣が登場しない『ASU』より「生贄」のパートが終わった後にもその声が飛んでいたのがなんだかとても嬉しかった、そして私『ZAZA』本当大好きなんだな、ということを書き留めて、こんなまとまらない悪文を締めることにします。

ベジャール、そしてバレエはつづく [DVD]

ベジャール、そしてバレエはつづく [DVD]

西行全歌集 (岩波文庫)

西行全歌集 (岩波文庫)

*1:『Liebestod−愛の死』の振り付けが使われていたような気もしたけど私こういうの覚えるの極端に苦手なので本当のところはわからない

ひとひらの誓い

marginalism2018-04-24


 「四月十五日 石牟礼道子さんを送る」(http://www.minamata-f.com/evt_180415.html)に、当日急遽、石牟礼さんと同学年の祖母に付き添う用事が飛んだので、急いで桜の花びら一枚を拾いあげて捧げるため馳せ参じました。ちょうど図書館で「花びら供養」を借りて読んでいたところでした。

 始まるまでロビーでうごめく人々を見ていて、海で生活しているさまざまな生類のようだなあと思いながら腹ごしらえをしつつiPhoneを触っていると、一人の老婦人から声をかけられました。スマホの音を消すにはどうすればよいのかわからないようでした。会場に溢れていたのは一緒に戦ってきたのであろうお年寄りが多かったので、石牟礼道子の孫世代、四十代の私でも充分に浮くほどに若く見えたのでしょう。彼女からすると魔法使いに見えたのでしょう。iPhoneユーザーでドコモのスマホなど触ったことがない、ということを伝えたところで困るだろうというか、恐縮しきって切羽詰まった悲しげな顔を突き放せるわけもなく、手間取りながらもなんとかサイレントモードに設定しました。Android端末ってiPhoneと違って、側面のスイッチ1つで切り替えられるわけではないんですね(音量キーで設定できるのは後から知った)。

 最後までずっと恐縮していた老婦人を見ていて、私はドコモに、携帯会社に腹が立って。
 こんなわかりにくいものを押し付けるように売りやがって、人の心はないのかと。やっと使い方を覚えたガラケーが壊れて、それで持たされたのがこんなガラクタかと。どれだけ機能詰め込んでアピールしようとも使いたい人が使えなければそれはガラクタです。水俣病よりはほんの些細なことなのかもしれないけれど、文明によって暴力的に切り捨てられた人を見ました。新しいものに適応できない人を馬鹿にして切り捨てる世の中の断面を見ました。
 「若い」ということは往々にしてそういう態度を取りがちで、とりわけ私はそういう側面の強い傲慢な若者でしたが、若さによる傲慢と企業の傲慢はやっぱりちょっと質が違う。若さを丸め込んで焚き付けて取り残された人びとを馬鹿にするように仕向けるのは、実は強者です。企業なり政府なりの強者が煽って弱者同士(この場合は情報についていける若者とついていけない老人)を対立させている。便利だけど優しくない社会へと突き進むうちに破綻が起こって、それでもなお強弁するシステムとそれに支配された人びとが傷ついたものを更に追い詰めて、一体それは何のため、誰のためになるんだろう。会場で音が鳴らないように気を配ろうとして困った人をけたたましい音で追いやる社会を誰が求めているんだろう。
 でもきっと、私は会場を離れると、企業の論理に絡め取られて、ノルマに追われて騙すようにおばあさんにガラクタを売りつける人間でもあります。生きるために仕方ないんだと。お給料もらわなきゃ暮らせないんだから仕事なんだからしょうがないんだと。騙される方が悪いんだと。

 「騙される方が悪い」「自己責任」こんな言葉に溢れた社会で私たちは生きています。
 お金を持っている人は、無意識のうちに持っていない人に対して傲慢な態度を取ってしまいます。親切のつもりで傷つけたりもします。裕福であることや貧乏であることは単なる運です。たまたま運が良かっただけの人がそうではない人を蔑みます。これはもう困っている人に寄り添う姿勢を明らかにしている人でさえそうなります。強者の論理を振りかざす人ではなく、力なきものに寄り添おうとしている人の暴力は辛い。それをやられると立ち直れないほど傷つきます。味方のつもりが傷つける側に回ってしまった人は、そのことをうまく受け止めきれずに八つ当たりをすることもままあります。「あなたのために」と押し付けてきます。自己弁護の言葉を羅列します。この人は何のために誰のために行動したのでしょう。

 石牟礼道子は徹底して「自分のために」戦ったんだと思います。「あなたのために」などという傲慢な言葉はついぞ吐かなかった人だと思います。最初から自覚的に「自分のために」動いている人に屈辱的なものごとを与え続けているのはきっと企業ではなくて、一見、良心を備えた普通の人です。それもハンナ・アーレントを読むような良識をも備えた人たちです。「凡庸な悪」に自覚的なのに絡め取られていく悲しい人です。社会を考えているうちに自分がどこかへと消えていく人たちです。
 システムに洗脳される前の自分に出会うことは現代社会ではとても難しいです。私たちがお金と呼んでいるものは狐や狸の葉っぱと大差ありません。1万円札は実際には1万円の価値もない紙です。その紙がただの紙ではない、というシステムは実は脆いです。脆いからその紙を「1万円である」と押し付ける側は強くあろうとします。でも、そのシステムを作った側は1万円札から1万円の価値がなくなったとしてもそれほど困らなかったりもします。新たなルールでまたゲームを作ればいいだけなので。困るのはそのシステムの中でゲームをさせられている人たちです。そのゲーム以外を知らない人が製作者と一緒になって、それ以上の強さでゲームを守ろうとします。ルールを破ったものを糾弾します。ゲームをやめようとする人を必死に引き止めます。

 石牟礼さんを送るために壇上へ赴いた人びとの振る舞いは多種多様で、大きく飾られた写真に敬礼する人、その写真を見ると「泣いてしまうから」と避けるようにこちらを向く人、詩を捧げる人、こらえきれないものがあるのか結果的に悲しみが怒ったように聞こえる人、前日に国会前で頑張って疲れてしまったために「お休み」となり壇上まで来られない人もいました。会場で語ることではなく、国会前で活動することを選んだ人の振る舞いも石牟礼道子の送り方としては正しく筋が通っているなと思います。壇上まで来られない人といえば皇后陛下もお忍びで花一輪捧げられたそうで、それもまた彼女の立場としてはそうするしかなく、誰もが自分にできるやり方で送るというところに、石牟礼道子がどう生きたのかは何よりも現れていたように思います。

 天井から吊るされた大きな写真の両脇には桜の鉢植えが置かれていて、向かって右側の桜からは石牟礼さんの心の動きが感じられるのに、左にはどうもそんな気配がなく、何かそうなる癖がある人だったのかな?など不思議に思って休憩時間に壇上に近寄ってみると、左側の桜は花びらが何枚も散っていました。右側は一枚も落ちていないのに。
 それでわかりました。右側には石牟礼さんの心、左側には長くパーキンソン病を患っておられた体が宿っていたのでした。枝という体を揺らして深く関わった人たちが語り終えて去ろうとするたびにいたわっておいでなのでした。

 私はその場に近所の桜の木から散った花びら一枚とゲームで使える葉っぱ数枚を置いて送ってきました。
 我を忘れてゲームに夢中になりがちな性質の人間なのですけれども、その割にまったくゲームがうまくならなくて、結局のところ今プレイしているゲームが向いてないのだと思います。向いてない人間がこれからどう振る舞えばいいのか、花びら一枚の重さを忘れず生きるために、下手くそなりにもぎ取った葉っぱと一緒に置いてきました。
 私は、花びらを拾ったり集めたりするのが得意でも評価されないゲームが好きではありません。ゲームとどう関わっていくのかはわかりませんが、好きなことを好きなようにできるよう、自分のために戦います。あの花びら一枚にかけて誓います。

花びら供養

花びら供養

冤罪

marginalism2018-03-04


 平昌五輪が終わった直後にテレビが壊れた。意識高い系の人ならそのままテレビを卒業して丁寧な暮らしをするのでしょうが、私は残念なので、意識高い系の人が日本に税金払ってないからと使わないAmazonで聞いたことのないようなメーカーの安いテレビを即座に注文、あまつさえお急ぎ便までプラスした始末ですが、初期不良に当たってしまいなかなか設定できずお急ぎ便の意味がなくなってしまい日々の残念な行いを反省しております。そんなどうでもいい近況は置いておきまして、多分日にちの計算を間違えたために平昌五輪フィギュアスケート男子フリーの日になぜかチケットを取ってしまっていたNoism1『NINA – 物質化する生け贄』のお話をします。

 この日の私は怒って怒って疲れ果てていました。平昌五輪で最も楽しみにしていたネイサン・チェンの『春の祭典』を使ったステップがネイサンの気持ちがジャンプにしか注意が向いてなかったせいで、ただ要素をこなしただけのつまらないものになっていたからです。私は、私は、このステップかっこいいから見てって見てって誰にも聞かれてないのに二言目には見てって、ネイサンすごいから見てってシーズン始まった時から言ってたのになんだよこれって。私が見て欲しかったのはこんなんじゃないって、ジャンプの犠牲になった哀れなステップのことを思って半べそかきながらあくびのふりしてごまかしつつ電車に乗っていました。私10年以上ハルサイをフィギュアスケートで見たいってなんで火の鳥はポピュラーなのにハルサイやらないんだって一人でずっと主張してたのに、やっと日の目を見たハルサイがこんな仕打ちってそんなんないだろって。仕事をしながら怒って、電車に乗りながら怒って、怒りすぎてスティーヴ・ライヒ風にバグってついでにパニック発作誘発しかけたぞ。4年に一度の男子フリーの日に仕事休まずダンス公演のチケットまで取ってた自分が一番悪いんだけどさ。

 そしてコンディション最悪のままNoism1の『NINA』観たんですけど。数時間前にテレビで見たものと似たようなことが目の前で起こっている気がしたんです。最初は自分のコンディションがひどすぎるからなのかな、とも思ったんですが、そこは目の前のものが素晴らしければそちらに敬意を払おうとする人間だから違う。特に女性群舞が見劣りしてしまう、Noismでたまにこの感覚味わうんだけど、違う時もあって、何が問題なんだろうとしばらく考えてました。『カルメン』や『ラ・バヤデール』の女性群舞ではこんな気持ちにならなかった、『Painted desert』も特に気にならなかった、『PLAY 2 PLAY』の時は同じことを感じた。で、わかった。ダンサーは悪くない、金森穣が悪いんだと。

 Noismのダンサー個々の肉体に頼る演目の時って、男性ダンサーは生き生きと見えても女性ダンサーの魅力が殺されている印象を抱くことがしばしばあります。これ、ずっと私、女性ダンサーの力量不足かなと単純に考えていましたが、本当に申し訳ないことにそうではなかった。金森穣が女性特有の個性を活かしきれてないんです。男性に対してはフィルターなしに男性ならではの魅力とダンサー個々の特性をすり合わせることができてるんですけど、女性に対してはそれができない。彼にとっての女性は井関佐和子の存在が強すぎるので、全員を井関佐和子の雛型にはめようとしてしまう。井関佐和子は素晴らしいダンサーだけど、その肉体の特性と違うものを持っている女性までそう振舞うことを強制している。ダンサーの個性を認められないんです。一人一人の女性のパワーに向き合えていないんです。そして常に井関佐和子と比べられてしまうような動きを強制されているからみんながみんな井関佐和子の出来損ないみたいに見えてしまうんです。それはもうしょうがない、彼女たちのせいじゃない。ネイサンみたいに気持ちが入ってないわけではなくて、気持ちを入れたところで器の形が合っていなければベストを尽くしたとしても手の打ちようがない。山田勇気振り付けの時の彼女たちはもっと伸び伸びと自分の個性を取り入れてもらって踊れていたように見えました。コレオグラファーが一人一人と直接向き合える目を持っていたからだと思います。その点で金森穣は女性に距離があるというか、接し方がよくわからない人に見える。実際の所は知りませんが、姉や妹がいる男性と男兄弟だけの男性の違いに似ている。欲望から切り離された時の女性の肉体の扱い方がぎこちない。等身大の私たちが見えていない。ベジャールのように興味がないわけじゃない、興味があるからこそ変に気を使って割り切れていない。身近な知っている肉体と妄想の間にある私たちの等身大は忘れ去られて見つけてもらえていない。

 この人、女性がわからないから怖いんだ。怯えているんだ。だから自分を受け入れてくれる女性を通してしか向き合えないんだ。自分がわかってないということを知られたくないから威嚇しようとするんだ。

 これ、誰かにも似たようなことを感じた記憶があって、掘り下げたところ思い当たったのは三島由紀夫でした。ベジャールの『M』は美しかったけど、三島由紀夫自体のマチズモの鎧で固めた息苦しさは好きになれなくて、金森穣が鎧を身につけなければならない理由も推察はできるんですけど、でもそれ舞台上にまで必要?というのは率直な感想としてあります。

 『春の祭典』の生け贄はあんなに豊かなはずなのに粗末にされたことで私は怒りました。『NINA』の生け贄は元から粗末な扱いをされているのに健気に頑張っていることに対して同情する他ありませんでした。どうせ生け贄になるのでしたら見すぼらしい哀れなものではなく、豊かで美しいものになりたいです。

stand up for myself

marginalism2018-02-07


 記録的な大雪の後の東京周辺の家々の前には、道産子でも見たことがないほどたくさんの雪だるまが作られていて、ミームってこういうこと?など思いつつ横浜美術館石内都個展「肌理と写真」(http://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/)観てきました。1月最後の金曜日のことです。

 石内都ってとにかく怖くて見る側に挑んで煽る写真を投げつける人という印象があったのですが、今回の個展でオリジナルプリントを観ると、どこにもおどろおどろしいものはなくて全ての写真が静謐でした。怖いとか優しいとかいう次元ではなく、被写体にひたすら敬意を払ってその姿勢により自ずと浮き上がる物語を被写体が提起するまま写し取らせてもらっている人なんだとわかりました。
 彼女の粒子の出し方は素描のようで、写真と絵画の境界線を越えようとしているのか、曖昧にしようとしているのかは上手く掴めないのですが、その流儀が彼女の写真を「物語」にしているんだと思います。多分絵画との距離はどうでもよくて「物語」を忠実に表現するための手段なのでしょう。素描のように写し取っているだけだからそこに近づいてるだけなのでしょう。他意のないシンプルな写真です。

 被写体が人物だろうと建物だろうと有機物だろうと無機物だろうと、そこには膨大な情報があります。その膨大な情報の中から被写体が彼女に撮っても良いと許す物語だけを石内都は過不足なく撮ります。静かで繊細な距離感と関係性と緊張感が大人でとても格好良い。あえてセンチメンタルな要素は最低限に抑えて乾かして切り取る。それが大人に見えた。そしてとても女らしくも見えた。

 母性や男社会に押し付けられた「女子供」という役割から自由になっている剥き出しの女とはこういうものだ。ロマンに安く流されないリアリストであり、弱きものが目を背けるような真実を見据えるために強靭で冷静な精神を持つ。傷や痛みを得ることによって無垢をもまた得るということも知っているからこその気遣いだってできる。あれほどまでに純度の高いところへ到達して、そこから更に分け入って拒否されたり壊れたりしないのは、互いに嘘を徹底的に排除して真剣に格闘しているからだ。剥き出しの女というものはリアリストでありつつも妥協ができず徹底的にやり尽くす。

 彼女は被写体から手垢を落とす。徹底的に落とす。大衆に提供されてきた安い物語を落としきる。事実をわかりやすいセンチメンタリズムやロマンチシズムで貶めた汚れを落として、本来持っていた無垢な姿に戻す。その一連の作業が伝わって来る写真と向き合うとほっとする。涙は出ない。ただただ安堵する。この写真を見て泣くのは嘘だ。そんな安い物語の残骸は似合わない。そのままの姿というものはとても生々しくて、その生々しさに接して「怖い」という感情を抱く人もいるのだろうけど、私はこういう提示をしてくれたことに対して安心します。

 案外、傷跡だったりフリーダや彼女の実母や被爆者の遺品よりも蚕の写真の方が生々しかったりもして、蚕は過去ではなく現在が写し取られているのだからよく考えたら当たり前だなと、時間の距離というものにも石内都は嘘をつかない人なんだと息を呑みました。この写真家は蚕をまるで屠殺場にいる牛や豚のように撮ります。彼女はフェアな人間だから、そこにある事実をそのまま誠実に撮ります。命の痕跡や気配ではなくて命そのものにフォーカスを絞った写真って他になかったんじゃないのかな。絹をまとうことは木綿や麻とは意味が違うと今まで私は意識したことがなくて、意識しなかったことこそが残酷なのだと不意打ちで衝撃を受けました。忘れ去られたものや隠されたものに対する感性はそれなりには鍛えてきたつもりだったけど、命そのものに対する感性が鈍かった。残虐な行為が過去に行われたという被害者の側ではなく、これから行われようとしている、もしくは行われたばかりである現在進行形の加害者の側にしか身を置けない物語の写真が突然出現したことによって思わず立ち止まり、今まで見てきたはずなのに見えていなかったことが恥ずかしくなった。蚕やその写真は声高に何かを主張するわけではありません、静かに現実が忍び寄ります。だからこそ胸に迫る。

 大人の女性の剥き身の矜持に圧倒されてから同時開催のコレクション展の方に移動しますと、デビュー作「絶唱横須賀ストーリー」の展示があるのですが、こちらはこちらで先ほどまでの写真と全く様相が異なっていて驚きます。あちらでは抑制されていたはずの自分語りが全開で、横須賀の街にはためく星条旗への屈折した思いが横溢していて、泣きじゃくる少女の感受性そのままのパワーをぶつけられてこっちまで泣きそうになります。こっちの写真は泣きそうにならないと嘘だ。この人はどれだけもがいたのだろうと想像するだけで苦しくなる。でも写真を撮らなければもっと苦しかっただろうこともわかる。今でもコアな部分に少女がいる、その少女の目が見つけたものを大人がなだめすかして適切な距離を見極めて被写体と交渉している。常にそんな格闘をしている人のそんな姿が個展に行くまで伝わらなかったことが不思議でならない。家に帰って美術館で購入した図録を見ると、あの場で私が受け取ったものとは違ってやっぱり今までのように怖くて挑んで煽っているようにすら見えるのは何なのだろう。石内都と私の間に誰かが挟まってしまうと私たちがあの場で交わしたコミュニケーションはあっけなく消え去ってしまうのだ。間に挟まった誰かが一人でも「怖い」という感情を混入させてしまうと、私たちの交歓の結晶は手のひらに舞い降りた雪のように淡く溶けてどこかへ行ってしまうのだ。

石内都 肌理と写真

石内都 肌理と写真