stand up for myself

marginalism2018-02-07


 記録的な大雪の後の東京周辺の家々の前には、道産子でも見たことがないほどたくさんの雪だるまが作られていて、ミームってこういうこと?など思いつつ横浜美術館石内都個展「肌理と写真」(http://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/)観てきました。1月最後の金曜日のことです。

 石内都ってとにかく怖くて見る側に挑んで煽る写真を投げつける人という印象があったのですが、今回の個展でオリジナルプリントを観ると、どこにもおどろおどろしいものはなくて全ての写真が静謐でした。怖いとか優しいとかいう次元ではなく、被写体にひたすら敬意を払ってその姿勢により自ずと浮き上がる物語を被写体が提起するまま写し取らせてもらっている人なんだとわかりました。
 彼女の粒子の出し方は素描のようで、写真と絵画の境界線を越えようとしているのか、曖昧にしようとしているのかは上手く掴めないのですが、その流儀が彼女の写真を「物語」にしているんだと思います。多分絵画との距離はどうでもよくて「物語」を忠実に表現するための手段なのでしょう。素描のように写し取っているだけだからそこに近づいてるだけなのでしょう。他意のないシンプルな写真です。

 被写体が人物だろうと建物だろうと有機物だろうと無機物だろうと、そこには膨大な情報があります。その膨大な情報の中から被写体が彼女に撮っても良いと許す物語だけを石内都は過不足なく撮ります。静かで繊細な距離感と関係性と緊張感が大人でとても格好良い。あえてセンチメンタルな要素は最低限に抑えて乾かして切り取る。それが大人に見えた。そしてとても女らしくも見えた。

 母性や男社会に押し付けられた「女子供」という役割から自由になっている剥き出しの女とはこういうものだ。ロマンに安く流されないリアリストであり、弱きものが目を背けるような真実を見据えるために強靭で冷静な精神を持つ。傷や痛みを得ることによって無垢をもまた得るということも知っているからこその気遣いだってできる。あれほどまでに純度の高いところへ到達して、そこから更に分け入って拒否されたり壊れたりしないのは、互いに嘘を徹底的に排除して真剣に格闘しているからだ。剥き出しの女というものはリアリストでありつつも妥協ができず徹底的にやり尽くす。

 彼女は被写体から手垢を落とす。徹底的に落とす。大衆に提供されてきた安い物語を落としきる。事実をわかりやすいセンチメンタリズムやロマンチシズムで貶めた汚れを落として、本来持っていた無垢な姿に戻す。その一連の作業が伝わって来る写真と向き合うとほっとする。涙は出ない。ただただ安堵する。この写真を見て泣くのは嘘だ。そんな安い物語の残骸は似合わない。そのままの姿というものはとても生々しくて、その生々しさに接して「怖い」という感情を抱く人もいるのだろうけど、私はこういう提示をしてくれたことに対して安心します。

 案外、傷跡だったりフリーダや彼女の実母や被爆者の遺品よりも蚕の写真の方が生々しかったりもして、蚕は過去ではなく現在が写し取られているのだからよく考えたら当たり前だなと、時間の距離というものにも石内都は嘘をつかない人なんだと息を呑みました。この写真家は蚕をまるで屠殺場にいる牛や豚のように撮ります。彼女はフェアな人間だから、そこにある事実をそのまま誠実に撮ります。命の痕跡や気配ではなくて命そのものにフォーカスを絞った写真って他になかったんじゃないのかな。絹をまとうことは木綿や麻とは意味が違うと今まで私は意識したことがなくて、意識しなかったことこそが残酷なのだと不意打ちで衝撃を受けました。忘れ去られたものや隠されたものに対する感性はそれなりには鍛えてきたつもりだったけど、命そのものに対する感性が鈍かった。残虐な行為が過去に行われたという被害者の側ではなく、これから行われようとしている、もしくは行われたばかりである現在進行形の加害者の側にしか身を置けない物語の写真が突然出現したことによって思わず立ち止まり、今まで見てきたはずなのに見えていなかったことが恥ずかしくなった。蚕やその写真は声高に何かを主張するわけではありません、静かに現実が忍び寄ります。だからこそ胸に迫る。

 大人の女性の剥き身の矜持に圧倒されてから同時開催のコレクション展の方に移動しますと、デビュー作「絶唱横須賀ストーリー」の展示があるのですが、こちらはこちらで先ほどまでの写真と全く様相が異なっていて驚きます。あちらでは抑制されていたはずの自分語りが全開で、横須賀の街にはためく星条旗への屈折した思いが横溢していて、泣きじゃくる少女の感受性そのままのパワーをぶつけられてこっちまで泣きそうになります。こっちの写真は泣きそうにならないと嘘だ。この人はどれだけもがいたのだろうと想像するだけで苦しくなる。でも写真を撮らなければもっと苦しかっただろうこともわかる。今でもコアな部分に少女がいる、その少女の目が見つけたものを大人がなだめすかして適切な距離を見極めて被写体と交渉している。常にそんな格闘をしている人のそんな姿が個展に行くまで伝わらなかったことが不思議でならない。家に帰って美術館で購入した図録を見ると、あの場で私が受け取ったものとは違ってやっぱり今までのように怖くて挑んで煽っているようにすら見えるのは何なのだろう。石内都と私の間に誰かが挟まってしまうと私たちがあの場で交わしたコミュニケーションはあっけなく消え去ってしまうのだ。間に挟まった誰かが一人でも「怖い」という感情を混入させてしまうと、私たちの交歓の結晶は手のひらに舞い降りた雪のように淡く溶けてどこかへ行ってしまうのだ。

石内都 肌理と写真

石内都 肌理と写真

巡礼の年

marginalism2017-12-30


 今年は1月にハイライトを迎えてしまいました。年の瀬に振り返ってみてもやはりあれを超えることはなかった。ということで「沈黙」に導かれた1年の道を改めて書き起こしてみます。

 1月:元日に引いたおみくじが大吉だ。近所のプロテスタント教会で『沈黙サイレンス』のチラシを拾って「エキュメニカルだなー」と期待と不安がない交ぜになりつつ、松浦理英子の新作長編が載った『文學界』を購入したけど『沈黙サイレンス』が駄作だった時の口直しのために読まずに取っておく。どちらも待ち望んだ作品ですが、今回はスコセッシ版映画の方がより長くできるのか疑いつつ待っていたものだった。途中でちょくちょく掃除をしているのは今思うとお清め気分だったんだろうか、ハタキを手に入れて浮かれている。日本公開直前に新潮文庫版『沈黙』が200万部突破と知り50年かけての記録に驚く。ハリウッドで映画化されるとこんなことになるんだね。23日ヘアドネーションのためバッサリボブにして身をスッキリさせた後、ついに鑑賞。公開週の月曜夜にロビーに自分しかいねえ!スクリーン独占!?そして忘れ物をして戻って来た親子連れが「次もあるの?」「1人?」「女の子1人?」「怖くないかしら?」とか言ってる。怖いの!?ねえ怖いの!?でも流石に始まる前には5、6人入ってきたよ。というか暗闇でわかりにくかったのかもしれませんが女の子ではなくて貧乏こじらせて服を買えない結果若作りになってしまっただけのアラフォーです。
  見たあとさー「なんかさー、窪塚洋介が出てくるまでキチジロー役粘った甲斐があったなと思ったわ。私が最初にこの映画化の話知った時にイッセー尾形がキチジロー役って聞いてて、イッセー尾形がキチジローをやれない年齢になって井上筑後守にスライドするほどの年月をかけても粘って良かったなーと思ったわ。」「原作でさらっと書かれてたことをしっかり描いてたり原作でしっかり書いてたところをさらっと描いてたりしてるんだけど、原作ありきで映画に最低限必要な部分だけ膨らませてもらいますよっていう謙虚さヤバい。年齢的に窪塚とキチジロー役争って最後まで残ってそうな加瀬亮も見せ場作ってもらってて良かったというか日本人キャストのそれなりな人とか英語喋れる人は脇でも見せ場作ってもらっててスコセッシの気遣いいたみいりますって感じでした。あの描写原作にあったっけとあやふやになる部分確かめてからあと3回くらいは劇場で観てもいいな。原作既読の人も観る前に読み返した方が良さげ。原作未読で映画観てる人に話し通じるのかな?っていうのはある。全然親切じゃなくて説明省略しまくってるから。」だそうです。直後の声をそのままコピペしました。窪塚洋介のインスタにコメントする程度に興奮しているそうです。鑑賞後「時は来た」と長崎市再訪・五島列島上陸を決意したことはとてもよく覚えています。鑑賞2日後には太川陽介蛭子能収の腐れ縁がロドリゴとキチジローそっくりということに気づいて「キチジローは原作イメージだと蛭子能収です!長崎弁喋るし!」と力説しております。私の2017年は「沈黙以前(22日間のみ)」「沈黙後」にパッキリ分かれているので、それ以後ずっと何かというとこの作品に結びつけてますね。聖地巡礼の旅のことを調べていたら、31日に日本橋で舞台あいさつがあると知り即予約。勢いで旅行プランも申し込んでしまっていた。31日は1年近いアレルギー検査たらい回しの挙句に仕事を休んでようやくたどり着いた大学病院という約束の地で私によく似たタイプのADHDみあふれる医者に出会った後、日本橋の映画館近くの長崎アンテナショップまでちょっとリサーチしに行ったら職員の人の五島列島キリシタンクルーズ写真を見て盛り上がってしまった。舞台あいさつの窪塚洋介の立ち振る舞いの良い家の長男っぷりがイメージと違って感動しつつ2回目鑑賞。窪塚さん、やたら終電を気にしてくださっていたんですけど、きっと本人が横須賀育ちだからレイトショーなんかだと中座する羽目になる実家暮らし時代だったのかなと推察しました。なんだかきちんとしていて、きちんとしすぎてしまうからこそ大変だったんだろうなと長女として同調しちゃう感じの人だった。
 ちなみにこの頃世間では清水富美加の出家騒動が勃発しておりまして、清水富美加のボブカットが可愛らしかったので影響されてみた私には味わい深いものがありました。

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 
 2月:食物アレルギーは諦めてるけど花粉症とアトピーをどうにかしたくて油断ちに挑戦。効果はあったと思う。ローザンヌとかフィギュアスケート見つつネットで情報見かけた遠藤周作ゆかりの人々による『沈黙サイレンス』をめぐる対談を6日に拝聴しに行きました。鑑賞後2週間でこれだけ動き回るって私にとっては異例のことよ。そして私がその情報を見たのはキリスト教信者の新聞サイトだったから当たり前なんだけど、会場にはクリスチャンしかいないというか参加者全員クリスチャン前提。高山右近列福式が明日とかいう絡みのカトリックジョークで場が温まってる。まあでもこういうの慣れてるしクリスチャンに紛れてクリスチャンのふりをするのも得意なのでそんなに問題ないです。

 「信仰は持つものではなくあるもの、深めるものではなく深まるもの。12使徒は全員転んでいる、だからキリスト教は転んでから始まる。」(遠藤周作先生は聖書に書かれていないことを書こうとしていたのでしょうか?という質問に対して)「文学者がやることはそれでしょう、というよりも文学者がやることなんてそれしかないでしょう」というやりとりなどが心に深く刻まれた。「汝がなすことをなせ」が頭に響き渡る。『沈黙』に導かれてこの会に参加したのはこの後の私に大きな出来事となります。ついでに酢全般が嫌いで有名な私が何故か酢飯が食べたくなってしょうがないので帰途ダメモトでパックのお寿司を買ってみたら、食べたかったのこの味だと満足してびっくり。篠田正浩版『沈黙』をCS放送で捕獲して撮影が宮川一夫、音楽が武満徹なのに作品としては悪い意味でびっくり。珍品というかカルトムービーでしたね。
 このあたりでやっとはてなに感想まとめてる。対談行った後だったのな→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170208
 というかNoism1『マッチ売りの話』+『passacaglia』を観に行く前日にまとめてたのな。そして怒ってる。怒って『沈黙』みろって言ってる→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170222

 このあたりの私は随分元気だなと記録を掘って感心しているのですが、本人週3外出でも問題ない、調子良いと宣言してます。12月末の私が宣言しますがそれは一瞬だったよ。『沈黙』ハイだったんじゃないかな?このテンション、今読んでるだけで疲れるもの。ガンガン金突っ込んでってるからクレカ決済おかしなことになって「長崎から帰ってきたら、今年はもう地味に生きます」って、本当帳尻合わせるの大変だったよお前。何とか年を越せそうだからいいけどさぁ…旅に出る必然性はあったからいいんだけどさぁ……五島列島キリシタンクルーズ、おひとりさま旅行だと催行されなくて大変だったよねぇ………追い込まれて手配して更に金突っ込んで結果上陸できたからいいんだけどさぁ……………
 そして『沈黙サイレンス』観たいという声に応えて友人を映画館に引率しました。布教です。この映画は宗教用語がガチなので微妙なニュアンスに微妙に混乱します。3度目は障害者配慮の日本語字幕版で聞き取りが苦手な私も助かりました。私がわからないスター・ウォーズファンからの視点、なかなか興味深くてスコセッシの配慮の行き届き方にひたすら頭が下がります。リーアム・ニーソンクワイ=ガン・ジン)とアダム・ドライバー(カイロ・レン)の出演シーンを繋げてるので実は作品内では対面してないんだけど、パッと見では顔合わせてる感覚になる編集すごい。

 そんな日々の合間に小学校の時一緒に英語習っていた男子の作品が岸田戯曲賞の最終候補に残っていてクラクラしました。大学ならともかく、小学生の時に机を並べて学んだ人がそんなことになるとは思ってもみませんでした。マシオカみたいな賢さとバランスの良さを兼ね備えてる男子という印象が強かったので、そのまま育ってんだなと間の人生知らずに偉そうに知ったかぶりした。清水富美加のことはちょくちょく心配してます。


 3月:2日から4日まで長崎まで聖地巡礼に。食物アレルギーが増える中、寿司が食べられるようになったのは明るいニュースなんだけど、五島名物鯖寿司がイケるか不安で羽田空港で柿の葉寿司にチャレンジした。これを美味しいと食べられる日が私に訪れるとは…そして詳しくは別項に譲りますが、長崎旅行記を帰ってきて2日で書いてることに驚く→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170306
※ただ続きは長らく放置後12/27にようやく書き上げました。原稿用紙約58枚、インスタ映え写真が約200枚という超大作、読み応えしかないので有料設定になってますが是非ご堪能ください、めっちゃ重いけど。重いから分割も考えてるけど→https://note.mu/coyoly/n/n846e770bb125
 この旅行から帰ってきて睡眠薬が必要なくなった状態はキープ中です。これは本気で不思議。20年飲み続けた睡眠導入剤が突然コトンといらなくなった。旅行に行くと必ず体重増えるのにこの時だけは別だったし。そんで人生で初めて「奥様」と声をかけられたんですが、装備を厳重にした結果のマダムみが半端なくて納得。40代独身女一人旅、勝手に向田邦子感も醸し出してた。忘れた頃になりたいものになれます!そろそろ世の中は21世紀の向田邦子として私を発見した方がいい。
 帰ってきてすぐ五島帰りたい五島帰りたいばかりでセカンドハウス飛び越して墓を検索したら6万円で永代供養とか出て買える!墓買える!ってなってる。上五島に墓を買いに行きたい、墓立てれば長生きするっていうし墓買いたい願望が沸騰している。なぜ移住したい移住したいにならないかというと薬を処方してくれる医者や薬局が五島どころか長崎県内でも怪しいのであっさり挫折したからです。東京でしか生きられないと自他共に認める私めが初めて「東京なんか人の住むところじゃねえ!」と飛行機の中でキレてちょっと狼狽しました。人生を振り返る際に確実に入る旅でした。

 15日には2月に対談で話を聞いて興味を持った方の勉強会に参加しました。カトリックの人で初めて深いところで信頼できると思った人かもしれないです。16日にはピナ・バウシュの『カーネーション』を観に行って舞台で使われていた造花を1本500円でお持ち帰りしました。ピナのダンスを一緒に踊れたことに感動しました。手話を取り入れてこんな仕掛けをするピナの手法というか心意気を私も持ちたいです→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170321

 さっとんの骨折でワールド辞退で悲しくなったりとか文豪ゲームやってる人が赤旗の記事読んで「小林多喜二の政治利用」とか「公式に許可とってんの!?」とか怒ってるの見て爆笑してたのとかも3月でした。小林多喜二の公式は赤旗出してる日本共産党でゲームの運営はむしろ無断使用していると認識してないクラスタが多喜二に夢中になっているという現象は今年『沈黙』関連以外で相当心に刺さったんだけど、これ3月だったんだな。プロレタリア文学の敗北を見たのはもっと先かと思ってた。

遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)

遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)

島へ。 Vol.96 2017年 12月号 [雑誌]

島へ。 Vol.96 2017年 12月号 [雑誌]

向田邦子を旅する。 (Magazine House mook)

向田邦子を旅する。 (Magazine House mook)

さよならピナ、ピナバイバイ

さよならピナ、ピナバイバイ



 4月:『探検バクモン』に長崎でお会いした人たちが出ていた。長崎の人は全然と言えなくて「じぇんじぇん」になって可愛い。『やすらぎの郷』見たり浅田真央引退とか空回りしているイースター商戦とかでぐったりしている。久々に電車でパニック発作起こしたりして、今読むと明らかに3月までが躁転だとわかるぐったり加減。今読むまで気づかなかったのどうかしてる。4/26にプリックテストでラテックスフルーツ症候群確定してようやくエピペン処方されるも、薬局が手続きやりたくなさそうで心折れて泣いた。


 5月:原因不明で太って困ってるけどグルテンフリーチーズケーキを作って衆議院特別参観に馳せ参じました。速記で名前書いてもらったり衛士さんと記念撮影したりしてめっちゃはしゃいでます。大人の文化祭でした。第一委員室狭すぎて驚いた。衆院職員の人、籠池さんの証人喚問での堂々とした態度に謎の高評価だった。ついでに行った憲政記念館の片隅に民主くんがいて涙を誘いましたが、数ヶ月後の怒涛の展開予想できませんでしたよね。


 6月:Noism1『Liebestod−愛の死』レパートリー『Painted Desert』観に行ったら目の前にモギケンがいる。しかも落ち着きがない。こいつ絶対ADHDだ、だって私もあんな感じになったりするもん、なんつうか感情の出し方が極端、というようなこともあったりしましたがそんなことは今初めてこういうところに書きました。なぜなら当時書いた感想のテンションに盛り込めなかったからです→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170609
 干し野菜ブームも到来していた。雨が少ない6月でした。松浦理英子の新作を保険にしたまま読んでいないことに単行本が出たと知って気づいたので慌てて読みました。読んでたら『ハクソー・リッジ』が日本公開で、アンドリュー・ガーフィールドはまた敬虔なクリスチャンとして日本に派遣されて酷い目に遭っているようでした。


 7月:2日都議選投開票日。都民ファーストの会旋風吹き荒れる。選挙ヲタは当然沸き立つ。開票速報中に眼鏡割る。ティク・ナット・ハンの番組を見て、やっとマインドフルネスのコツがわかってきたような気になってる。松浦理英子『最愛の子ども」を読み終わるのが嫌でちびちびとスローペースで読んでるけど28日についに読了。

ものすごくスピード落として読んでいた「最愛の子ども」を「裏ヴァージョン」と一晩かけて行ったり来たりしながらもついに読了してしまい満たされつつも寂しいです。私はあと何回、松浦理英子の新作をこうやって読むことができるのだろう?
「道なき道を踏みにじりに行くステップ」ってWalk on the Wildsideだよなーと思ってトリスティーンの話のどこでこれ使ってたっけ?と読み直したらラストだったとか、日夏の後日譚としても成立していたりするし、美織の母は「ナチュラル・ウーマン」や「セバスチャン」で描かれた主人公造形を踏襲してるんだけど、美織は主人公になれない、彼女は主人公の娘であり、次世代の主人公の友人でしかいられないのだ、ということについて思いを馳せたり、「裏ヴァージョン」の第15話に「最愛の子ども」のあらすじそのまま出てて、こんなに前にこんなにしっかり構成できてて骨組みが揺らがないのすげえ、20世紀に思いついたふわっとした構想を忘れた頃にきっちり仕上げてくるとか律儀というより体力もたないんだろうなということもわかってきて「裏ヴァージョン」の設定の家賃がわりの小説毎月20枚って鬼畜の所業だということもまた骨身に染みてわかるようになりました。20年近くかけて構想を現実の作品にする人に対して毎月20枚ってものすごい搾取。それを量産型作家と一緒にして枚数設定しちゃうの酷い!せめて半年で20枚とかにしてあげてほしい…こんな取り立て毎月されてたらそら逃げるわ!と私が今心と喉から血を流しながら叫んでる。
あと真汐の設定ってワセジョワセジョになる前の前日譚だよね、多分。そんで空穂の志望校は横市だよね。(高校自体はフェリスがモデルになってるとどこかで見かけた)

だそうです。『最愛の子ども』読んでて私はつくづく松浦理英子の子どもなんだと良くも悪くも刺さります。
 30日、祖父97歳で死去。

ティク・ナット・ハンの抱擁

ティク・ナット・ハンの抱擁

最愛の子ども

最愛の子ども



 8月:1日に祖父の葬儀のため青森に。長らく身内の葬儀に出ていないため新鮮。霊柩車とか都会では珍しくなった宮型で写真撮ろうとしたら叔母も全く同じ理由で外に出てきた。この2人、誕生日と血液型と干支が一緒で今年は祖父の四十九日に一緒に年を取る羽目になりました。施主の父から受付を仰せつかりまして、一番後ろから葬儀を見るの面白かったけど、若干蛭子さん状態で肩震わせて声出さないようにこらえて笑ってたので一緒に仕事した従妹にたしなめられました。「見て見て涙出てきたから結果オーライ!」とか必死に言い訳してたけど根本的なところでダメだよね。でもうちの親が忙しかったので、私がやらかしてるの気付かれなくてよかった。叔父さん叔母さんと一緒にゆるく写真撮りまくってた。私だけなら絶対怒られてたけど自由人の叔父さんが私を凌駕してて助かった。伊丹十三が映画撮りたくなる気持ちもよくわかった。そして親戚一同が青森に緊急招集されている同時刻に友人が私の故郷を旅している。奇遇だなと思ってよくよく見てたら青森に近づいてきてる。どうやら青森の山奥の親戚一同が強化合宿に励んでる町に住んでる知人がいるらしい。というかじいちゃんの葬式にその知人から電報きてた。世間狭すぎ笑う。3月に豪遊してきたので本当にお金がなくて泣き暮らしていたんですが、祖父の葬儀のドサクサで親戚から小遣い巻き上げて一瞬生活が楽になって当日思い立って小金井薪能行きました→http://d.hatena.ne.jp/marginalism/20170907
 このエントリの前が小金井薪能ってことはお金と体力がなさすぎてその後ひたすら引きこもってます。体が動かなくて1月以来掃除を先延ばしにしてます。部屋が埃っぽくてむせてます。

お葬式<Blu-ray>

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 9月:それにしても金がなさすぎだろうと医療費を計算したら平均月2万円かかっていると発覚。そりゃ金ないわ。医療費それだけかかるってことはそれだけ体調悪いってことだし、動けませんわ。動けないから働くのもしんどくて少ししかできなくて金ないわ。生活保護の意味理解した。うんあれ必要。その悪循環に陥ってる人放置したら死ぬもの。見殺しにするよりしばらく保護して生活させた方が経済にいいんだわ。わかった。そう噛み締めながらやせおか本を電子書籍で買って実践し始めた。小麦粉食べられないからレシピが楽で。
 後半は選挙ヲタフルスロットルです。


10月:引き続き選挙ヲタフルスロットルです。カズオ・イシグロノーベル文学賞受賞により今年は長崎の年と決定づけられました。アンドリュー・ガーフィールドは日本に派遣されては迫害されて、日系人原作の映画に出て体切り刻まれて内臓いくつも取り出されて、なんか日本嫌いになるなという方が無理な役ばかりというかなんでこんなに日本に縁がある作品ばかり出てるのかな。日本人向けの繊細な演技できるからかな。イエズス会士として日本に布教しにきたら弾圧→敬虔なクリスチャンが沖縄戦でボロボロ→日系人が設定したなんだかどこかよくわからない場所で緩やかに内臓抜かれる→(スパイダーマン)で合ってる?
 とにかく選挙で忙しいが、合間にネイサン・チェンのフリー見てマジ泣きしてる。ついに!『春の祭典』でステップ踏むスケーターが現れた!!しかも出来が素晴らしい!!!惜しむらくは1曲まるまるじゃなかったことですが、カロリーナの牧神とネイサンのハルサイのバレエリュスシリーズ作ってくれてありがとうローリー。

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 11月:選挙の後始末で、参加している講座の遠足に行けませんでした。本当に本当にきつかった夏を乗り切って嬉しいのに珍しく鬱の波に掬われそうに。この時期は6年ぶりくらい?高校から送られてきた同窓会名簿作成のお知らせに「修道女名」という項目がありファッ!?ってなった。11月最後の1週間でようやく掃除再開。お待たせしました。動けるようになりました。サンプルをもらったプロテインを飲んだら調子が上向きになってきて、どうやら私、人より相当タンパク質を必要とする体だったみたい。ほぼ同時にチョコアレルギーを引き起こしたけどココア味のプロテインで戦えます。

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12月:自律訓練法に取り組んでは低血糖を起こすという状況が不思議で調べてたら低血糖症状起こす患者には自律訓練法禁忌らしくて、どうやら私、ヨガも体質に合わないようだとここで知った。低血糖症状を改善してからじゃないと再開できない。ビックリ。10年取り組んできてヨガが合わない体質があるのとか初めて知った。でも何事も副作用がないことなんてないよね。そのためプロテインの重要性を痛感、いっぱい摂取してたら少し体力作りのための踏み台昇降運動ができるようになりました。10分踏み台昇降運動ができて、その後10回スクワットができる。これだけの運動ができずに息切れしてた。数年地味に悩んでた陰毛の円形脱毛症にも芽生えの兆しが。人並みには摂ってたと思うんだけど、私の体質にはタンパク質が足りなかったのか……
 少しずつ掃除を進めているうちに、床が見えてしまう場所がわかると私でも片付けができると判明。如何せん物が多すぎた。自分が管理できるだけの分まで減らせばいいんだとわかった。管理能力低いから減らして減らしてやっとわかった。私のちまちまやってるペースに世間様の大掃除の季節が追いつき、ムードに影響されラストスパートかけたらついに昨日(29日)、すべての引き出しから物を出していらないものは捨てているものはしまい直して部屋からブラックボックスをなくすことに成功。生まれて初めて!気持ち良い!
 あ、掃除の合間にはフィギュアスケート見てましたよ。フィギュアスケートの合間に掃除と言った方がいいのかこの季節毎年よくわからなくなるけど、みんなが頑張ってるから私も頑張れた。長崎沈黙巡礼記もここの今年のまとめも大掃除の一環として頑張った!生まれて初めて自分でしめ飾りを買って飾っても見た!季節イベントの意味わかった!でも先週そばアレルギーも発症したから年越しそばは諦めた。


 こんな感じでざっと振り返ってみたんですが、3月までに記憶に残ってることをやりすぎて後半屍のようになっていたことが想像していた以上に明白になってました。『沈黙サイレンス』を見て、遠藤周作ゆかりの人の対談を聞きに行って、長崎まで聖地巡礼に行って、ここには詳しく書きませんでしたが勉強会に参加し始めたのが今年の中心になっています。講座に参加後にエッセイのようなものを書いて提出して添削されて返ってくるのですが、そのやりとりに深く感動しているのと同時に、私は自分が書いた文章を今までこういう風に読まれたことがなくて、そのことに深くひどく傷ついていたのもわかりました。受け止めてくれる人ができて初めて自分が感じていた痛みに気付くというのは私のパターンなのですが、今回はとりわけ酷かったです。今までどれだけ酷い目に遭ってきてたのだろう、意識したら生きてこれないくらい酷い目だったんだと初めて理解しました。文章を書くことをしっかり誠実に丁寧に自分と感性が通じ合う人に受け止めてもらうことでしばらくリハビリしたいです。このことはとても重要な気づきでした。私の傷はどこまで深いのか正直まだつかみあぐねるほどなのですが、年末になって回復の兆しが出てきて体調を整えるコツも見つけ始めたので、来年も引き続きこの調子を崩さず少しずつでも確実に足場を固めていきたいです。文章を書く体力や筋力も少しずつでいいので焦らずゆっくりときちんとしたものをつけていきたいです。それではみなさま良いお年をお迎えください。私は鬼に笑われようとも来年が楽しみです。

緋の舟

緋の舟

忽然

marginalism2017-09-07


 10日ほど前、24時間テレビのランナーが誰だとか騒いでいた頃、「あれ?今年の小金井薪能は明日なんだ」と気づきました。5年ほど前から毎年気にはなっていたけども夏の屋外は私には過酷すぎると見送っていたのですが、今年の天気は曇り、最高気温は27度という予報を見て「いけるかも」と自分の体に期待せず、当日券入手方法を調べて寝ました。
http://koganeitakiginou.sakura.ne.jp/01.html
 翌日起きたら、天気も体調もなんとかなりそうな気配だったので、仕事を終えた後急いで小金井公園に向かいました。武蔵小金井駅を出たらすぐ案内の人がいてバス停の乗り場を教えてくれて、公園の売店目指したら普通に当日券を買えた。前売りと同じ料金で。スタッフがたくさんいて入場のために並んでいると帰りの貸切バスのチケットを売りに来てくれたりして、非常によくオーガナイズされているイベントという印象。プロじゃないからこそ一生懸命お客さんをもてなすぞ、という気概に溢れていて、慣れていない人も結構いてまごついていたりもしますがその近くにちゃんとベテランの人がいてフォローをしていて、イベントもスタッフも育てる意識が強い。素人だということに悪い意味での甘えがないので、長く続く街の名物行事がなぜ長く続くのかという理由が見えた気がします。

 私が能楽に興味を持った時にはすでに紫外線アレルギーを発症していたので、こういう場に来ることができるとは思ってもみませんでした。奇跡的に好条件が重なり合って参加できたことがまず嬉しい。演目も夏フェスらしい一見さんにもわかりやすい派手なところ持ってきているので能楽に興味無い人も誘いやすい。ここは賛否分かれるところかもしれませんが、小金井薪能PAもしっかりしていて演者の声はマイクで拾っているので聞き取りはしやすい。

 そして何よりも自然が真の主役だということをその場で体験したからこそ思い知らされた。
 まだ明るいうちに行われた火入れの儀式、刻一刻と移り変わるマジックアワー、後シテの平知盛の場面になった途端一斉に飛び立つ鳥、漆黒の中でのコンテンポラリーダンス、飛び散る火の粉、照らし出される草月流の竹、忽然と現れまた忽然と消える能舞台。目の前にあるものが全てこの時間しか体験し得ないものと思うとクラクラしました。白洲正子が見たものはこれかと思った。日本人が古来から育んできた感性はこれかと思った。凛々しさとあどけなさが混在している子方の義経が出てくるや否や近くの席のご婦人方が皆一様に目尻を下げて自分の孫を見守るような態勢に入ることも古来から繰り返されてきたものなのだろう。子方に目尻を下げて、狂言で笑って、コンテンポラリーダンスで圧倒されるという反応が、素直で擦れてなくて自然でいいなと思った。

 山本東次郎家の鷹揚で懐が深いけれども品格は保つ明るい芸、どの演者もしっかりしているので安心して笑えるのが良い。ただ、鶏聟(にわとりむこ)という演目、日本語で耳で聞いてもピンとこなかったところ、英語アナウンスで「Rooster groom」と言われるとおかしみが伝わってくるあたり奇妙なものです。室町時代の日本語より英語が近い距離にあったのかと。私は能の言葉を聞き取ることは諦めているのですが、狂言の言葉は聞き取れるので、成立年代の言葉がそのまま残されていることにいつも感心してしまう。この演目でいうと鶏の鳴き声などが今と微妙に違う。今より本物に近い。本物に近い鳴き声がいつしか記号となり簡略化されて行く過程を想像して演目に埋め込まれた時間を噛みしめる。言葉が少しずつ変わってきても、ずっとこの演目で日本人は笑ってきたのだと思うと少し感動してしまう。それと同時に英語アナウンスも入る小金井薪能という場では日本語がわからない外国人も一緒に笑っていることに更に感動する。こういう芸は流れ流れて常に過渡期なんだなと実感する。

 私は総合芸術が成り立つ最小限度まで削ったことによる柔軟さが能楽の一番の長所だと思っているので、案外と他のジャンルとのコラボレーションが小回りがきいてやりやすい風通しの良さを気に入ってます。もともと森山開次とのコラボレーションで能楽堂に足を運んで能楽のフォーマットにガツンとやられたので、今回また彼のダンスをこのフォーマットで観られたのも嬉しかった。森山開次能楽のフォーマットを使うのが上手い。ただ今回は宝満直也の伸びやかさがより一層印象に残った。
 森山開次は多分、舞踊のネイティヴ言語を持たないんです、だから音楽を一音一音丁寧に拾うんだけど、崩せなくてちょっと合わせすぎるところもある。その点、宝満直也は自分の中にしっかりとした舞踊言語が息づいているんですね、だから音楽は最低限の合わせるところだけ合わせて行けば問題ないと、ある程度は自由になる。合わせるところがわかるからそうする必要がないところは無理に合わせないで自分が好きなようにやっている。余白がある。方眼紙の升目に収まるようにきっちり書き取りするのではなくて、全然はみ出てる。そこがいい。升目は気にしないけど方眼紙自体からははみ出さずに収まっているから問題ない。あれは従者のダンスではなく王子のダンスだ。この時は猩々がモチーフだったのだからはみ出したっていいくらいだ。いい意味でのベジャールダンサーぽい野性味が出ていたので、この人逆にクラシックバレエはどう踊っているのかと興味を持った。クラシックバレエを観るのはコンテンポラリーに比べてあまり得意ではないのだけれど、この人のは観てみたい。なんというか、津村禮次郎のスタンドとしての森山開次と宝満直也という感じで理屈抜きに楽しいダンスでした。

 今あの広場に行ってもあの舞台がないことが信じられない。夢だったのかとも思う。けれど、紫外線アレルギー持ちが防御を怠った部分にあの場の名残があるので、現実だったのだなと腕をさする。

金色喜女

marginalism2017-06-09


 Noism1『Liebestod−愛の死』レパートリー『Painted Desert』埼玉公演初日に行ってきました。
 http://noism.jp/npe/n1_liebestod_pd_saitama/
 私は特に日程の都合に問題がない時は初日のチケットを取るようにしています。
 以前、たまたま初日のチケットしか取れなかった公演に行ったら、翌日から病気休演でそのまま死ぬんじゃないかという空気に居合わせてしまったこともあるんですが(その後復帰され、今も無事生きて活動してらして何よりです)、楽日のテンションではなくて、通常のテンションでどこまで魅せてくれるのか知りたいからというのもあります。楽日には何か起こりやすい、その何かを目撃したり共有する醍醐味も知ってはいるんですが、何らかの表現をするプロの人たちがそういった特別なモチベーションの働かない日にどこまで出せるか地力を知った方がその人の表現者としてのポテンシャルをきちんと見極められそうだから、という理由もあります。

 今回のNoism公演はかなり意欲的で心意気に好感を持ちました。

 山田勇気演出振付の『Painted Desert』は、私が初めて観る金森穣と井関佐和子が直接関わっていないNoism作品だったのですが、その二人がいなくとも50分(だったかな?)充分及第点で成立させることが可能だとわかったのは観客として収穫がありました。
 石原悠子が化けたな、と思ったのは『カルメン』再演でミカエラを演じていた時なんですけど、彼女はいつも作品に対して献身的で健気なんですよね。こういう作品で与えられた役割はもっと中心に入ることかなとも思ったんですけど、それはもう場数を踏めば身につきそうだし、それしかなさそうなので、もっとこういった役割に慣れたらいいなと思いました。そうしたらもう一段階化ける。今回は池ヶ谷奏がそういう意味で化けたというか、ステージ上がったんではないかと目を引きました。中川賢も含めてこの辺りのダンサーがしっかりするとカンバニーとしては安定すると思うので、この作品は大切な機会だったんじゃないかなと。芸術監督と副芸術監督が彼ら彼女ら(山田勇気含め)に安心して任せることができるようになれば色々楽になるんじゃないかなと。Noismは「間がない団体」という印象も強かったので、彼ら彼女らの成長によってカンパニーもまた成熟に近づいた兆しが見えました。
 作品自体に関しては女装男性ダンサーと男装男性ダンサーのリフトが優雅で迫力があって良かったです。いつか男装女性ダンサーと女装女性ダンサーのリフトも入るといいな。アイスダンサーで男性をリフトする女性もいるので、タイミングをうまく取れればできそうだと思ってるんですけど、フロアダンサーだと私が思っている以上に難しいんですかね?男性をリフトする女性の姿が格好よくて大好きなんですよ。仏リヨンに独創的なリフトを次々と考え出すアイスダンスコーチ兼コリオグラファーの先生がいるので、もし気になるようでしたら、ミュリエル・ザズーイという名を覚えておいてください。ミュリエル先生の作るリフト大好きです。女性に男性をリフトさせるというアイディアを実行させてそのカップルを五輪金メダルに導いたのも素晴らしいです。今リヨンのリンクが改修中らしいので、余裕ありそうなので是非。
 それにしても、スカートを履いた男性ダンサーは可愛らしい。ピナ・バウシュカーネーション』の時も思ったけれども、女性よりずっとたおやかで可愛らしい。成人男性の可愛らしさが剥き出しになる機会を普段なかなか見られないので貴重だ。女性ダンサーが男装をすることにおいてはそのような意味合いは帯びない。マニッシュもしくはボーイッシュなファッションが市民権を獲得している時代において男装のショートカット女性は舞台での異化装置にはなり得ない。この場合は女性が既に獲得しており、男性が未だ獲得していないジェンダーの非対称性によって異性装の意味合いが異なってしまう。そして男性が生きる不自由な世界のことを思う。逃れられない視線から自由になる舞台空間を私は愛する。そこで繰り広げられたことが遅れて普遍性を帯びる世界のことも思う。
 Noism作品でたまにフェリーニ的だという印象を受けることがあるのですが、『8 1/2』の「人生はお祭りだ」に象徴される不思議ながらも楽天的で解放されたラストの大団円のことが念頭にあるんですよね、きっと。
 『Painted Desert』はまさにフェリーニ的で、だからこそNoism的でもあるなと。だからこうやって金森穣以外の作品の上演機会が増えることはNoismの幅が広がっていいなと感じました。思っていたよりNoismって強度のある集団なんじゃないかなとなぜか安堵しました。今やっと芽が出てきたところでもある感じなので、焦らず少しずつみんなで見守って育てて拡張できればいい部分が見えて嬉しかったです。

 新作『Liebestod−愛の死』は、タイトルとポスタービジュアル見た瞬間に沸き立ちましたよね。おおついにワーグナーきたかと。いや音源明記されてないけどこのタイトルでこのビジュアルならワーグナーだろと直感で。これクリムトでしょ?じゃあワーグナーじゃん!と。「イゾルデの愛の死」ならベジャールの『M』だ、あそこに挑戦してきたかと直感で沸き立ちましたよね。その直感が当たっていたことが判明して、しかもめちゃくちゃ金森穣に強い影響を与えてきたことを知って武者震いを起こしましたが、その時点ではただただ興奮してました。
 私、ベジャール作品の『M』の「イゾルデの愛の死」使用シーンがとてつもなく印象深かったんです。音楽が聞こえないくらいに。音楽が聞こえないどころか作品中最大のクライマックスであろう切腹シーンも見逃すほどにただただ緑色の海と楯の会の持つ桜の美しさに見とれてよだれ垂らすし、首も固定していたみたいで痛めるし、そこで「イゾルデの愛の死」が流れていたことにすら気づかないし。聴覚優位の私が視覚的に取り込まれて他の感覚を忘れたのは後にも先にもあれ1回きりなんですよ。あとでパンフレット読んで、あそこで使われていた音楽を知ってなんでそれが聴こえてなかったのかと崩れ落ちたという。でもあまりにもそこでそれが流れるのが適切すぎて視覚からその曲を見たんだなともまた思ったんですよね。そして金森穣が『M』について語るまでベジャールの弟子だということをうっかり失念していたんです。なので点と点が繋がった瞬間に震えました。私と金森穣は同じ作品の同じ場所で感動を共有していたんです。同じ魅力に取り憑かれた人間があの曲で勝負するんです。これで金森穣と共有できるものがなければ私もう彼の作品を観なくていいと覚悟して作品に臨みました。
 
 吉崎裕哉は『カルメン』の闘牛士役を観た時に、街の人気者のものすごい陽のオーラを撒き散らしていたことが印象に残っていて、あの華やかさが持ち味のダンサーのキャスト名が「末期の男」ってどういうことかな?と気にしていたのですが、多分彼はとても素直な人なんですね。緊張や固さが客席のこちらにも伝わってくる。求められた役割を果たしているかどうかは私にはわからないところがありますが、素直さは長所なのでこのまま濁らずに舞台に立ち続けて欲しいです。だって今回ひどい。舞台上には金森穣の気配が濃厚で、井関佐和子は「穣さん!穣さん!穣さーーーん!!!」という気持ちをぶつけてくるし、こんなシチュエーション誰だって戸惑うわ。こんな身代わりですみませんってなるわ。夫婦でひどいわ。ひどい夫婦相手に目の前の女の視界に本当は自分がいないのにそれでも相手をし続ける報われない男の心情を表現していて、そういうものとしては成立していたので偉かったわ。金森穣が繰り返して扱う「人形」というモチーフを意図的には託しているわけじゃないんだろうけど、そういうものとしてそこに立つしかできないし、そこに寄りすがるしかないし、彼なりのベストは尽くしていたと感じました。誰もが思うよ「夫婦でやれ」と。夫婦でやらないから倒錯的な世界観になってて、それはそれで面白かったからいいんですけどね。

 そんなこんなで可哀想な当て馬が退場して井関佐和子の独壇場になったらすごかった。

 「ラブレター」というキーワードを見かけて、二人から客席への「ラブレター」なのかなとてっきり思い込んでいたんですが、客席無視の正真正銘振付家である夫から舞踏家である妻へのラブレターだった。そして舞踏家である妻から振付家である夫へのラブレターでもあった。愛する人にしか見せない可愛らしい表情を湛えてなぜか客の前で井関佐和子が踊る。そんな楽しそうで嬉しそうな顔を客席にまで惜しみなく見せていいの?と彼女とその表情を一身に受けるはずの彼の尊さに涙する。こんなにデリケートな部分をさらけ出す勇気に感動する。
 『M』は緑色と桜色が蠢く様子に見とれていたけれども、今回は金だ。金森穣の「金」、井関佐和子の「金」髪、二人の愛の象徴は「金」だ。金の幕が燃え盛る。自分を、相手を燃え上がらせる行為を象徴する金の表現・黄金の愛が素敵だった。ずっと声を漏らさないように口元に手ぬぐいを押し当てながらむせび泣いていた。人を愛していることを表現するのは脆くて怖くて、でも強くて、ありったけの臆病さをありったけの勇気で乗り越えた人だけがたどり着ける境地で、傷つきすぎて、これ以上傷つきたくなくて、それを見せられない人間にはただひたすら眩しい。死で終わる物語を私たちの世界では「悲劇」と分類することになっている。しかしそれは当人にとっては悲劇なのだろうか?
 「あこがれのために死ぬのではない、死にながらあこがれるのだ」という言葉への説得力を与えた振付家と舞踏家が表現したのは死によって結ばれる、死によってしか結ばれない二人のそれは幸福への扉なのではないかということ。イゾルデ=歓喜の女は喜びの絶頂でその瞬間を迎える。それは悲劇ではないし、正しい行為だと信じきっている。三島由紀夫=Mの時もそうだった。この曲はそういう使われ方をした。愛に殉じるものたちの死、もしくは死によって愛が成就するものたちの生、愛の行為としての死を選ぶものたちのその瞬間に流れる音楽は歓喜の歌以外の何者でもない。純度の高い無垢な喜びしかそこにはない。


 その様子を見てむせび泣く私は、度重なるdisasterにより男性不信、人間不信を抱えてしまっているため、誰かといるより一人でいることの方が気楽だ。あまりにも傷が深いため心療内科認知行動療法も追加されてしまい、この日もカウンセリングを受けてから会場に向かった。でも、一人でいることで何も残らないのは寂しいとも思う。死ぬ時に誰かと取っ組み合って築いたものが何もないことはきっと寂しいだろうなと思う。崩壊した世界をずっと歩いてきたせいで、心を許せる人がどこにもいない人生が寂しい。「人を愛する」という感情を忘れているのか、もともと知らないのかもわからない。「愛の世界」の住人は違う世界の人たちだと思ってきたのに、そこにあこがれる私がいる。その世界に移住できるかもしれないとかすかな希望を抱く私がいる。「愛の世界」の言葉を知りたいと思う。奪われた言葉なのか教えてもらえなかった言葉なのかわからないけれど、習いたいと思う私がいる。逃げるより格闘したい私がいる。

 外海で会った方が明日4/5の「探検バクモン」に出るみたいです。お会いした時にこれから枯松神社取材に来る人案内するんだよ、この前は爆笑問題が来たよ、とおっしゃってたのですが、やっぱりこの番組でした。
http://www4.nhk.or.jp/bakumon/x/2017-04-05/21/10863/1665196/
 なので、長崎沈黙聖地巡礼記の続き書き出してみたんですが、写真をふんだんに入れてダラダラ書いててこれ興味ある人いるの…?という気分になってきたので、noteで雑記部分を有料にするというハードルを上げてみました。まだ1日目しか完成してませんが、とりあえず完成までは課金という壁を作ってSNS限定公開気分で締まりなくダラダラ書き連ねるというだらしないスタイルでお送りします。サグラダファミリアの制作過程の様相を呈してますが、物好きな方がもしいましたら。ヴォリュームだけはたっぷりあるでよ。

長崎沈黙聖地巡礼記 https://note.mu/coyoly/n/n846e770bb125

男性解放宣言

marginalism2017-03-21

  先月今月と私にしては動き回ってまして、ピナ・バウシュ ヴッパタール舞踊団『カーネーション−NELKEN』3/16埼玉公演を観に行きました。

 創作当時や日本初演当時に立ち会った人々が受けた衝撃というのはある程度は想像できても、きっと言い当てることはできません。舞台というものが一回性のものである限り、言い換えると舞台が舞台である限り、それはどうしようもないことです。時代背景も変わればダンサーも変わります。ダンサーを変えることを拒み封印される作品というものもありますが、この作品はそうではなかった。1982年のドイツはまだ東西分裂していた頃で、1989年の日本は昭和と平成が混在していた年だと思うと、そして私がまだ幼稚園児であったり小学校から中学校へ上がる年だったと思うと、当時既に大人だった人々とは感じるものも違うのは当然のことです。男性の女性装に対して「女装子」や「男の娘」という概念が定着している2017年の日本において感じるものと同じではむしろいけないんです。初演当時に受けたインパクトを得る代わりに2017年の3月の日本ではチャーミングという美点が増していたと思うんです。それはどちらが良いとか悪いとかの次元の問題ではなくて、ただそういうこと。

 ピナ作品を観ていていつも気になっていたのは「ここの男性ダンサー精神的に参りそう」ということでした。私は女性で、2017年でも依然抑圧されている側で、その立場からはピナ作品に向かい合うというより重なってしまう、ということが多く、ステージ上で常に私たちが漠然と感じているようなものを可視化して観客に突きつけるためにはどうしても抑圧を強いる側の表現も必要で、そのペルソナを与えられるのはだいたい男性ダンサーで、そういった加害者の役割を意識させられ続けるのは非常に辛いと思うんです。社会はそうだとしても、ダンサー個人はそうではないかもしれない「加害者意識」を背負い続けるというか背負わされ続けてしまうというのもまた暴力です。カンパニーの拠点となっている国が周辺国から常に「ナチス」という加害者を投影されてしまうお国柄もあるのかもしれませんが、国として、あるいは所属している母体が集団として帯びている性質の「加害者」を個人がどれだけ背負うべきかは戦争責任の所在を曖昧にして生き長らえてきた国の国民からすると実感が湧かないんですよね。でも、ピナはとても「加害者」に重きを置いていると感じていました。権力を象徴するのはいつもスーツを着た男性で、やりたくもない暴力を(女性の)コリオグラファーによって強制されるという多重構造があって、残酷なことにその描写が真実としての重みを伴っているからこそ切実さが増す作品となっていて、たかが性が違うくらいでどうしてこんなに目の前に広がる風景が違うのだろうと、作品観賞後はいつも悲しくなっていました。

 『カーネーション』最初の方から笑顔になってしまったのは、男性がスーツからもそしてコルセットやハイヒールからも解放された、空気を纏うようなドレス姿で、そして素足で登場したからです。薄くて風を孕むドレスを着て片言の日本語を話す人は性別を問わず愛らしい。他の国でピナ作品を観るような人相手には英語使えば伝わるんでしょうけど日本は例外なので、ものすごく頑張って日本語しか解さない私にも通じるような言葉を語りかけてくれることも嬉しかったです。ピナ作品で舞台からわかる言葉が降り続けるという事態は想定していなかったので思いがけない感動がありました。2017年現在の表現はこうなります、というものを体験できて、フレッシュな人材をフレッシュなまま提供します、というヴッパタール舞踊団の姿勢も好感が持てました。ピナ作品の強度を信じているからできることで、こうやってピナ・バウシュという人間を失ったことを抱えつつピナ作品に命を吹き込み続けることを選択した人たちの勇気ある決断を讃えたいです。
 前回来日公演の『コンタクトホーフ』まではピナと一緒に闘ってきたダンサーもかなりステージ上にいました。そのことが却ってピナの喪失を深く印象付けていたんだなと今回わかりました。作品の悲しさとカンパニーの悲しさが相まって暗闇に追い詰められてた部分もあったんだなと。フレッシュなピナを直接知らないダンサーたちの軽やかさと直接知らないダンサーたちを包み込む世界観の優しさに触れて涙の代わりに笑顔がこぼれてしょうがなかったのも今回限りの貴重な体験かもしれないです。犬は吠えるが舞台は続きますし、この作品、ずっと男性ダンサーが主役なんですよね。今まで暴力装置や加害者のペルソナしか与えられていなかった男性ダンサーが個人としてユング言うところのペルソナではなくアニマを表現している。彼らの中にいる女性像がこんなに可愛らしいなんて思ってもみなかった。男性の表現する女性に対する違和感もありませんでした。性別を超えて花園で楽しそうにしている人々を追うのが楽しくて、世の中からスーツを剥奪して男性も女性もドレスを着て歩けばこんなに呼吸がしやすくなるのにとすら思っていたところ、男性はドレスを剥奪されスーツに磔にされ、つまらない暴力装置に呼び戻されて、柔軟な感性も剥奪されて飛び降りちゃうような社会に引き戻されると痛みがひどい。女性にもスーツを強要されるような社会の痛みがひどい。早く私たちの楽しい可愛い服を返してとその辺りのシークエンスはずっと堪えていた。1枚の布を切り刻んだスーツという存在の痛ましさがそれを着用するものにも分断することを強要しているようで、私がスーツを象徴するようなものをおしなべて嫌う理由がわかった気がした。スーツを着る時は常に社会的な生き物として振る舞うことを強制されている時だ。冠婚葬祭のような儀式で着るのはやぶさかではないけれども、それはいざという時さえ決めておけば普段は自由になるからという担保があるからこそで、日常的に着用するというかさせられると病んでしまうものだともやはり思う。スーツが象徴しているものに人格を乗っ取られてしまうことがとても怖い。あんなに魅力的だった男性ダンサー陣がいつものピナの男性ダンサーに戻ってしまわないかとても怖かった。女性ダンサーにもスーツを押し付けられたらどうしようと怯えていた。だから男性がドレスを取り戻して、女性もずっとそれを着用することを許されていたことがわかった時に安堵した。

 私は『カーネーション』がピナの代表作だというくらいの知識しかなかったので、ラストに関しては何も知らなかったんです。ハグされるような席にいたわけでもないので、ハグをするダンサーとされる観客を微笑ましく見守っていただけでしたし、それで充分満足していたし、観客全員立たされるとも思っていなかったんですね。でも観客への呼びかけが片言ながらもさりげなかったから自然に体が動きましたし、その場で振り付けを踊ることも抵抗なかったです。強制じゃなくてうまく乗せられた感じで楽しくて。元が手話として使われている動作だから難しい動きはないんですよね。そしてその手話が「愛しています」という意味だということも作中でずっと伝えられていたわけですから嫌なわけがないんです。今、私、ピナ・バウシュ振り付けの踊りを踊っている!という感動が舞台と観客を一体化させ、そのまま違う手話を用いた振り付けも「怖がらずに踊ってごらん」という言葉を思い出して一緒に踊ってみたら楽しくて楽しくて。その場にいる誰もを融合して終わるという感動が待っているとは思わなくてただひたすら笑っていて。なぜこの時代にこの演目を上演するかの意味が押し付けがましくなく伝わってきてニコニコしながらロビーに出たら踏みしだかれた後のカーネーションを売っていて。暴力的に踏みしだかれたものがこうやって再生されていく循環構造にも深く感じ入りました。ベルリンの壁の破片を売るのと同じ意味のような気がして、一回性の舞台の体験の思い出を形として持ち帰ることができるという豊かさが至れり尽くせりでピナのこういう感性本当好きですし、それが受け継がれていることにやっぱり感動して、家に帰ってからもしばらく春夏秋冬の振り付けをあやふやながら鼻歌を歌うように己の体で再生したりしています。ダンサーの肉体を持たない人間に手話をダンスとして与えるというアイディアが素晴らしい。

 芸術家が今やるべきことを漏らすことなく伝えてくれた人々に感謝します。力を抜くことが何より大事な気がするので、気負わず導いてくれたラストの後を私の場所でそのまま踊り続けられたらいいなと思います。

ピナ・バウシュ―怖がらずに踊ってごらん (Art edge)

ピナ・バウシュ―怖がらずに踊ってごらん (Art edge)

長崎沈黙聖地巡礼記

3/2-4の二泊三日で長崎市五島列島『沈黙』聖地巡礼の旅に出ました。スコセッシ版の映画公開後に東京から巡礼した人の記事をまだ見かけないので、どなたかの参考になればと思い、ここに記しておきます。

 必読携帯書は『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)』なのですが、「歩き方」と説明している文では、ところどころアクセスが難しい方を紹介していたりするので、そこはおいおい注釈を入れていきます。遠方からの旅であってもレンタカーを運転できる人はそれなりになんとかなりそうですけども、私は運転免許を持たない女一人旅だったので、公共交通機関を駆使しています。

遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)

遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)

 自治体も力を入れているようで、HPは大変参考になります。
 映画『沈黙−サイレンス−』原作ゆかりの地 特設サイト https://www.nagasaki-tabinet.com/silence/
 ここはスコセッシ監督訪問地、制作関係者訪問地がそれぞれ示されているので、いわゆる最近のライトな意味での「聖地巡礼」チェックに役立ちます。

 映画「沈黙−サイレンス−」長崎ゆかりの地を巡る https://www.nagasaki-tabinet.com/course/60242/
 私はトモギ村のモデルとなった外海地区に関してはここを基本に旅程を組み立てました。そして、Spot4の外海歴史民俗資料館・Spot5の沈黙の碑・Spot6のド・ロ神父記念館・Spot7の旧出津救助院・Spot8の出津教会堂をカバーしてくれる長崎さるくのオーダーさるく『夕陽が美しいキリシタンの里』コースを10:00-12:00で申し込みました。参加料は1800円ですが、外海歴史民俗資料館&ド・ロ神父記念館共通入館料(大人300円)・旧出津救助院入館料(大人300円)込みなのでおひとりさまでなければお得ではあるかと。おひとりさまの場合はプラス1000円の計2800円ですが、私の場合はその価値は充分ありました。
http://www.saruku.info/course/Y030.html
 なぜ10:00-12:00にしたかというと、長崎駅近辺から6:30頃の始発のバスで黒崎教会前まで行くと到着が7:54なんですが、その次の9:34の黒崎教会前発のバスに乗るとちょうど長崎さるくの待ち合わせ時間10分前くらいに出津文化村バス停に着いて待ち合わせ場所の旧まちづくり記念館に行けるんです。なのでその1時間半の間にSpot3の枯松神社とSpot2の黒崎教会を回ることにしました。そしてさるくのコース終了後にまたバスか徒歩でSpot10の遠藤周作文学館を見学することにしました。(バスで向かう場合、長崎さるくの担当の方が目的地への時刻表をPDFで送って下さいますが、私はその前に勝手に旅程を加えているのでnavitimeで検索しました)

※参考までに私が使ったバス時間の検索結果貼っておきます。 https://www.navitime.co.jp/bustransit/search?orvArea=42&orvStationName=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%A7%85%E5%89%8D&dnvArea=42&dnvStationName=%E9%BB%92%E5%B4%8E%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%89%8D&month=2017%2F3&day=3&hour=8&minute=0&through=0&basis=0&orvStationCode=&dnvStationCode=

Spot1のバスチャン屋敷跡はバス移動だと限界があるのでさすがに諦めました。Spot9のド・ロ神父の墓は出津教会のあたりから眺めることはできます。Spot11の道の駅 夕陽が丘そとめは遠藤周作文学館のすぐそばというか、バス停と遠藤周作文学館の間なので簡単に寄れます。

キリシタンの里そとめ 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産 https://www.nagasaki-tabinet.com/tour/62503/
 こういうバスツアーも紹介されていますが、日程が合わなかったので利用できませんでした。土曜日に都合がつき、枯松神社にどうしても行きたい、とか、黒崎教会に入りたい、などこだわらなければ、これを利用するのが一番楽かと思います。(ただ、枯松神社は実際に沈黙巡礼をしてみると一番推したい所です)

 長崎市内中心部は観光地として確立されていて、交通の便も動き方もよく整備されているので、まずは外海地区を攻略するのが鍵になります。私の場合は行くなら五島列島は絶対外せなかったのでタイトなスケジュールになりましたが、五島列島に渡らなければ二泊三日で特設サイトで紹介されている分の沈黙聖地巡礼は余裕を持って回れると思います。


 五島列島はガイドブックでも『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』でもあまり詳しく紹介されていないので特にHPを頼りにしました。
五島列島キリシタンクルーズ
https://www.nagasaki-tabinet.com/tour/62490/
https://www.nagasaki-tabinet.com/course/c60885/
https://www.nagasaki-tabinet.com/course/60864/
このツアーがよくおすすめされていたので申し込みました。が、最小催行人数が2名で申込期限の運行日1週間前になっても私以外の申込がなくツアー中止に。とにかく昔からキリシタン洞窟に興味があって、キリシタン洞窟だけはどうしても行きたいどうしよう、とりあえずどうしよう、HPだけでも見るか。
キリシタン洞窟 https://www.nagasaki-tabinet.com/junrei/1098/
なんか電話番号書いてる。電話かけた。船出してくれることになった。キリシタン洞窟行けることになった。
※おひとりさまでなければこんなにドタバタせず五島列島キリシタンクルーズが問題なく催行されます。ただ、それだとキリシタン洞窟に上陸できないので結果オーライ。

 飛行機とホテルは楽天トラベルの楽パックが私が探した中では一番安いです。ANAでもJALでもできるんだとは思いますが私はANA楽パックで行きが羽田-長崎、帰りが五島福江-羽田で取りました。最初は長崎に戻らなきゃならないのかなと思い込んでたけど、五島の空港指定でも平気だった。ホテルも一泊目長崎市・二泊目五島市と違う宿を指定できた。五島から羽田へは直行便がないので私の日程では福岡乗り換えになりました。

 それではここからは私の実際の巡礼ルートを書いておきます。
 3月2日(木)
 1:羽田空港11:05発、長崎空港13:00着。確か定時。
 2:長崎空港から高速バスでココウォーク茂里町へ。なぜそこまで乗ったかというと、まず原爆落下中心地と浦上天主堂に行きたかったから。ここは『沈黙』自体には関係ないので、大浦天主堂を見学なさりたい方は長崎新地で降りられると良いです。大浦天主堂の拝観料を払った時にもらえるパンフレットとチケットを持っていると日本二十六聖人記念館が半額になるみたいです、あとクリアファイルもらえるらしいです。私は時間的に逆ルートを選択するしかなかったのですが(他の施設は17時閉館、大浦天主堂は18時閉館)、大浦天主堂以外はだいたい長崎市内中心部に固まっているので『沈黙』巡礼ならここを早めに片付けた方がいいです。信徒発見を『沈黙』と結びつけなければ削っても構いません。その場合は長崎駅前でバスを降りられるのが無難だと思います。
 3:路面電車の茂里町から松山町へ。『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』では浜口町を紹介していますが、最寄は松山町です。
 4:松山町で路面電車を降りるとすぐ看板が立っているのでそれに従い歩いて原爆落下中心地に。原爆資料館は高校の修学旅行で行ったのでパスしました。『沈黙』には関係ありませんが遠藤周作女の一生』と今日マチ子『ぱらいそ』で浦上は大事な場所になっているので足を運びました。ちなみに私がこの場所に着いた瞬間、雨が降り出してびっくりしました。
 5:原爆落下中心地碑で突然雨に降られてぼんやりしてたら後から来た人が手を合わせていたのでトモギ村でご飯もらったロドリゴやガルペのごとく急いで私も手を合わせた後、隣に立っている旧浦上天主堂遺壁で少しだけ雨宿り。この時は雹らしきものまでが降っていた。少し待つと弱まったので浦上天主堂を目指す。
 6:看板などの道順に従って浦上天主堂へ。被爆マリアのレプリカや原爆で吹き飛ばされた鐘楼など見る。
 7:日本二十六聖人記念館を目指し電車に乗ろうかと思ったら長崎駅前行きのバスを見かけたのでそちらに飛び乗る。いずれにせよ長崎駅前に出れば問題ないので。
 8:日本二十六聖人殉教地及び記念館見学。こちらはスコセッシ監督訪問地です。映画の中でモキチが歌っていたと思しきサクラメンタ提要の楽譜はここにあったので、ここで塚本晋也が当時歌われていた曲を見つけたのかなと、出発前日に再放送で見かけたBSの番組を思い出す。劇中に出てきた「雪のサンタマリア」の本物もありますが、お土産用に500円で雪のサンタマリア掛け軸も売ってます。スコセッシ監督サイン入り『沈黙』脚本も展示されてました。ついでに入り口あたりにもスコセッシ&塚本晋也サイン入り『沈黙』ポスターありますが、職員さんは塚本晋也サインの方は私が言うまで気づいてなかった。入り口近くのサイン入りポスターは撮影可だそうです。
 9:長崎駅前から路面電車に乗って築町で乗り換え(この時に運賃支払いと一緒に乗り換え証明書みたいなのをもらう)大浦天主堂下へ。大浦天主堂下に着いた時に運賃を払わず乗り換え証明書のようなものを入れればOKです。このあたりが地味に迷って、ファミマに駆け込んで「大浦天主堂ってどうやって行けばいいんですか」と聞いたらそのファミマのすぐ左横の坂を登ればいいだけだった。教えてもらったおかげでギリギリ拝観時間に間に合う。日本語通じて良かった。国内旅行楽だな。
 10:18時を大浦天主堂で迎えて、あとはご飯とホテルへ。食物アレルギー持ちで面倒なんでリンガーハット出島店で麺抜きの野菜たっぷりスープ食べました。小麦も卵も(あと私は反応しませんが乳製品も)入ってないのは事前に確かめてきたのでチェーン店は気楽でいいです。

 3月3日(金)
 1:ホテルから一番近いバス停が五島町だったので6:35桜の里ターミナル行き乗車。桜の里ターミナル7:18着。その後7:40発の板の浦行き乗車。黒崎教会前7:54着。だいたい定時。
 2:黒崎教会を横目に枯松神社へ出発。『遠藤周作と歩く「長崎巡礼」』では永田浜下車となっていますが、黒崎教会前の方がわかりやすくて良いです。橋を渡ってバスで通らなかった曲がりくねった道をひたすら登ります。ここは海抜が低いバス停から歩いてこそ醍醐味があると思いました。枯松神社は制作関係者がロケハンしてるんですけど、トモギ村の村人がロドリゴとガルペをかくまい、コンヒサンをするために登った山道のイメージここだと思います。イチゾウやモキチが水磔にされているのをパードレ二人が見ていたのもこの辺りの茂みのイメージだと思いました。歩けばわかる。巡礼感高まる一方です。
 3:巡礼感を味わい尽くして登ったため、目安徒歩20分のところ、1時間近くかけて枯松神社に到着。祈りの岩や隠れキリシタンのお墓なども見つける。下りはキチジロー走り的に急いだら15分くらいで黒崎教会に着いた。黒崎教会は9時から開いているようなので、さっくり見学させていただきバス停に戻る。
 4:無事バスに乗り長崎さるくの待ち合わせ場所に到着すると、待ち合わせ場所の横に沈黙の碑が。長崎さるく『夕陽が美しいキリシタンの里』コース出発。内容的にはド・ロ神父様最強コースなんですけど面白いです。時代が違えばロドリゴやガルペもこうなっていたのだろうか、ド・ロ神父も時代が違えばロドリゴやガルペみたいになっていたのだろうか、などと考えたりもします。
 5:なんだかんだで盛り上がってしまい120分コースが180分くらいになってガイドさん「時間守れなかった怒られる…」とか言ってた。でもその後「私も今の展示見たいから」と遠藤周作文学館まで車で連れて行ってくれた。ただ、翌日にイベントがあるのでガイドさんそれに合わせて展示見るって帰って行った。本当にお世話になりました。
 6:遠藤周作文学館は展示物自体の見学はさっくり30分もあればだいたい済みますがロケーションが良いので何時間でも過ごそうと思えば過ごせそうです。ただ、私はさるくの時間が押してしまったのでさっくり見て14:30頃のバスに乗ります。長崎港16:30発のジェットフォイル五島列島に移動しなければならないからです。無事桜の里ターミナルに戻り、長崎新地ターミナル行きのバスに乗り込んだ、が、ここで痛恨のミステイク。最終目的地は一緒でも、私が乗るべきバスはその1本後のものだったようで、乗ったバスは大回りするバスだったみたいなんです。予定では16時には長崎港に着いていたはずなのにもう全然着かない。バス停から徒歩4分とか書いてたから最悪16:20に着けば何とかなるだろうと言い聞かせてても16:10時点で浦上だ。仕方ないのでバス車内から長崎港に電話する。ジェットフォイルは待ってくれないけど最終フェリーが16:50発だからそっち目指して頑張れと。16:40くらいにフェリー切符やっと買えたよ。頑張ったよ。
 7:なんだかんだで20時頃、福江港に到着。頑張った。でもお店がほとんど閉まってる。なんとかコンビニ的なものを見つけておにぎり買う。食物アレルギーだと安心安全なのがおにぎりしかない。おにぎりがライフライン。ホテル到着。

 3月4日(土)
 1:キリシタン洞窟を目指すために8:00のフェリーで福江港から奈良尾港に移動。最初から上五島に宿取れば良かったんですけど、てっきりキリシタンクルーズで動くものだと思っていたので、空港がある福江島のホテル押さえてクルーズキャンセルになった時点ではもう宿変更できないパッケージだったんですよね。
 2:キリシタン洞窟行く前にせめて少しでも五島の教会も見学したいなと思って、近めの福見教会と浜串教会とその横の希望の聖母像見たくてタクシー移動。上五島はさすがの私も断念するほどバスは期待できないです。レンタカーを借りれなければタクシーしか移動手段なし。
 3:タクシーに送ってもらってキリシタン洞窟クルーズへ10時過ぎに出航。釣り人の方と同乗。私が待ち合わせ時間に遅れてしまったため船頭さんと釣り人の皆様にご迷惑をおかけして申し訳ない限りです…
 4:キリシタン洞窟到着。上陸してみたら思ってた以上に足場が本気の探検モードだ。そこらへんにあった木の棒を拾ってみると格段に歩きやすくてキチジローがなんであれ握りしめてたのかよくわかった。
 5:キリシタン洞窟堪能しすぎてどうやらまた時間オーバーしてたみたい。本当に船頭さんすみませんでした…
 6:港に帰ってきてタクシー呼んでもらってまたすぐ福江港に戻る。タクシーの運転手さんが五島の石をくれた。ありがとうございます。ジェットフォイルが長崎でトラブッて引き返しとかで1時間くらい待ち、売店の方と話したりして上五島いい所だなと思いつつ福江港へ。他の予定を決めていなかったので、福江港に着いてからすぐ空港行きのバスに乗ります。すぐと言っても1時間後くらいだったけど。
 7:五島福江空港到着。15時過ぎ。飛行機19時出発。やることなさすぎて寝てました。
 8:18:30頃やっと保安所通過。キリシタン洞窟で拾ってなんとなくそのまま持ってきたキチジロー棒の空港職員に対する目立ち方半端ない。けど無事通過してプロペラ機に乗り込み福岡経由で無事東京に戻りました。

一部記事文中と重複がありますが、参考にしたサイトを貼っておきます。

長崎さるく http://www.saruku.info/

五島列島キリシタンクルーズ(上五島発)【五島うどんの里発/7:30、福江港着/11:45】 http://www.nagasaki-tabinet.com/course/60885/

五島列島キリシタンクルーズ http://www.nagasaki-tabinet.com/tour/62490/
pdf http://www.campanahotel.com/gotobus_top/_userdata/H28kirikuru.pdf

=五島定期観光バスモデルコース= http://www.campanahotel.com/gotobus_top/pg459.html

九州商船ジェットフォイル http://www.kyusho.co.jp/kouro/n-jf.php

五島列島バスタクシーなど交通機関 http://islands.chicappa.jp/goto-web/03traffic.htm

有川タクシー http://www.arikawataxi.net/access.html

「沈黙」ゆかりの地 http://www.nagasaki-tabinet.com/silence/

枯松神社 http://www.nagasaki-tabinet.com/junrei/1097/

枯松神社 http://www.city.nagasaki.lg.jp/shimin/190001/192001/p000609.html

長崎さるく夕陽が美しいキリシタンの里コース http://www.saruku.info/course/Y030.html
pdf http://www.saruku.info/coursemap/ai25.pdf

日本二十六聖人記念館 http://www.nagasaki-tabinet.com/guide/60788/

電車路線案内図 http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nagasnet/

バス乗換案内 長崎駅前 ⇒ 黒崎教会前(6:36長崎駅前出発) 長崎バス [1]長崎新地-大波止・板の浦接続-桜の里ターミナル 漁港通り経由桜の里ターミナル行 https://www.navitime.co.jp/bustransit/search?orvArea=42&orvStationName=%E9%95%B7%E5%B4%8E%E9%A7%85%E5%89%8D&dnvArea=42&dnvStationName=%E9%BB%92%E5%B4%8E%E6%95%99%E4%BC%9A%E5%89%8D&month=2017%2F3&day=3&hour=8&minute=0&through=0&basis=0&orvStationCode=&dnvStationCode=

遠藤周作記念館 http://www.city.nagasaki.lg.jp/endou/

五島交通ナビ http://www.goto-koutsu.jp/pctime/timetable.php?kbn=ship

五島旅客船 http://kogushi.cool.coocan.jp/goto-ryokyakusen.html

 東京の方は長崎県のアンテナショップに行かれるのも良いです。窪塚洋介イッセー尾形塚本晋也舞台挨拶が日本橋であった時に『沈黙』2回目鑑賞したのですがちょうど日本橋長崎館というアンテナショップがありまして、そこの職員の方にもお世話になりました。五島列島関係はこちらでもらったパンフレットが一番役に立ちました。教えてただいた「しまとく通貨」もまあまあ使いました。
日本橋長崎館 https://www.nagasakikan.jp/

 個人的な雑感や写真などは以下においおい追加して行きます。まずは実用的な記事のみにて失礼。

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

女の一生〈2部〉サチ子の場合 (新潮文庫)

女の一生〈2部〉サチ子の場合 (新潮文庫)

※続きはこちらで鋭意執筆中→https://note.mu/coyoly/n/n846e770bb125