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marginalism2018-02-07


 記録的な大雪の後の東京周辺の家々の前には、道産子でも見たことがないほどたくさんの雪だるまが作られていて、ミームってこういうこと?など思いつつ横浜美術館石内都個展「肌理と写真」(http://yokohama.art.museum/special/2017/ishiuchimiyako/)観てきました。1月最後の金曜日のことです。

 石内都ってとにかく怖くて見る側に挑んで煽る写真を投げつける人という印象があったのですが、今回の個展でオリジナルプリントを観ると、どこにもおどろおどろしいものはなくて全ての写真が静謐でした。怖いとか優しいとかいう次元ではなく、被写体にひたすら敬意を払ってその姿勢により自ずと浮き上がる物語を被写体が提起するまま写し取らせてもらっている人なんだとわかりました。
 彼女の粒子の出し方は素描のようで、写真と絵画の境界線を越えようとしているのか、曖昧にしようとしているのかは上手く掴めないのですが、その流儀が彼女の写真を「物語」にしているんだと思います。多分絵画との距離はどうでもよくて「物語」を忠実に表現するための手段なのでしょう。素描のように写し取っているだけだからそこに近づいてるだけなのでしょう。他意のないシンプルな写真です。

 被写体が人物だろうと建物だろうと有機物だろうと無機物だろうと、そこには膨大な情報があります。その膨大な情報の中から被写体が彼女に撮っても良いと許す物語だけを石内都は過不足なく撮ります。静かで繊細な距離感と関係性と緊張感が大人でとても格好良い。あえてセンチメンタルな要素は最低限に抑えて乾かして切り取る。それが大人に見えた。そしてとても女らしくも見えた。

 母性や男社会に押し付けられた「女子供」という役割から自由になっている剥き出しの女とはこういうものだ。ロマンに安く流されないリアリストであり、弱きものが目を背けるような真実を見据えるために強靭で冷静な精神を持つ。傷や痛みを得ることによって無垢をもまた得るということも知っているからこその気遣いだってできる。あれほどまでに純度の高いところへ到達して、そこから更に分け入って拒否されたり壊れたりしないのは、互いに嘘を徹底的に排除して真剣に格闘しているからだ。剥き出しの女というものはリアリストでありつつも妥協ができず徹底的にやり尽くす。

 彼女は被写体から手垢を落とす。徹底的に落とす。大衆に提供されてきた安い物語を落としきる。事実をわかりやすいセンチメンタリズムやロマンチシズムで貶めた汚れを落として、本来持っていた無垢な姿に戻す。その一連の作業が伝わって来る写真と向き合うとほっとする。涙は出ない。ただただ安堵する。この写真を見て泣くのは嘘だ。そんな安い物語の残骸は似合わない。そのままの姿というものはとても生々しくて、その生々しさに接して「怖い」という感情を抱く人もいるのだろうけど、私はこういう提示をしてくれたことに対して安心します。

 案外、傷跡だったりフリーダや彼女の実母や被爆者の遺品よりも蚕の写真の方が生々しかったりもして、蚕は過去ではなく現在が写し取られているのだからよく考えたら当たり前だなと、時間の距離というものにも石内都は嘘をつかない人なんだと息を呑みました。この写真家は蚕をまるで屠殺場にいる牛や豚のように撮ります。彼女はフェアな人間だから、そこにある事実をそのまま誠実に撮ります。命の痕跡や気配ではなくて命そのものにフォーカスを絞った写真って他になかったんじゃないのかな。絹をまとうことは木綿や麻とは意味が違うと今まで私は意識したことがなくて、意識しなかったことこそが残酷なのだと不意打ちで衝撃を受けました。忘れ去られたものや隠されたものに対する感性はそれなりには鍛えてきたつもりだったけど、命そのものに対する感性が鈍かった。残虐な行為が過去に行われたという被害者の側ではなく、これから行われようとしている、もしくは行われたばかりである現在進行形の加害者の側にしか身を置けない物語の写真が突然出現したことによって思わず立ち止まり、今まで見てきたはずなのに見えていなかったことが恥ずかしくなった。蚕やその写真は声高に何かを主張するわけではありません、静かに現実が忍び寄ります。だからこそ胸に迫る。

 大人の女性の剥き身の矜持に圧倒されてから同時開催のコレクション展の方に移動しますと、デビュー作「絶唱横須賀ストーリー」の展示があるのですが、こちらはこちらで先ほどまでの写真と全く様相が異なっていて驚きます。あちらでは抑制されていたはずの自分語りが全開で、横須賀の街にはためく星条旗への屈折した思いが横溢していて、泣きじゃくる少女の感受性そのままのパワーをぶつけられてこっちまで泣きそうになります。こっちの写真は泣きそうにならないと嘘だ。この人はどれだけもがいたのだろうと想像するだけで苦しくなる。でも写真を撮らなければもっと苦しかっただろうこともわかる。今でもコアな部分に少女がいる、その少女の目が見つけたものを大人がなだめすかして適切な距離を見極めて被写体と交渉している。常にそんな格闘をしている人のそんな姿が個展に行くまで伝わらなかったことが不思議でならない。家に帰って美術館で購入した図録を見ると、あの場で私が受け取ったものとは違ってやっぱり今までのように怖くて挑んで煽っているようにすら見えるのは何なのだろう。石内都と私の間に誰かが挟まってしまうと私たちがあの場で交わしたコミュニケーションはあっけなく消え去ってしまうのだ。間に挟まった誰かが一人でも「怖い」という感情を混入させてしまうと、私たちの交歓の結晶は手のひらに舞い降りた雪のように淡く溶けてどこかへ行ってしまうのだ。

石内都 肌理と写真

石内都 肌理と写真