冤罪

marginalism2018-03-04


 平昌五輪が終わった直後にテレビが壊れた。意識高い系の人ならそのままテレビを卒業して丁寧な暮らしをするのでしょうが、私は残念なので、意識高い系の人が日本に税金払ってないからと使わないAmazonで聞いたことのないようなメーカーの安いテレビを即座に注文、あまつさえお急ぎ便までプラスした始末ですが、初期不良に当たってしまいなかなか設定できずお急ぎ便の意味がなくなってしまい日々の残念な行いを反省しております。そんなどうでもいい近況は置いておきまして、多分日にちの計算を間違えたために平昌五輪フィギュアスケート男子フリーの日になぜかチケットを取ってしまっていたNoism1『NINA – 物質化する生け贄』のお話をします。

 この日の私は怒って怒って疲れ果てていました。平昌五輪で最も楽しみにしていたネイサン・チェンの『春の祭典』を使ったステップがネイサンの気持ちがジャンプにしか注意が向いてなかったせいで、ただ要素をこなしただけのつまらないものになっていたからです。私は、私は、このステップかっこいいから見てって見てって誰にも聞かれてないのに二言目には見てって、ネイサンすごいから見てってシーズン始まった時から言ってたのになんだよこれって。私が見て欲しかったのはこんなんじゃないって、ジャンプの犠牲になった哀れなステップのことを思って半べそかきながらあくびのふりしてごまかしつつ電車に乗っていました。私10年以上ハルサイをフィギュアスケートで見たいってなんで火の鳥はポピュラーなのにハルサイやらないんだって一人でずっと主張してたのに、やっと日の目を見たハルサイがこんな仕打ちってそんなんないだろって。仕事をしながら怒って、電車に乗りながら怒って、怒りすぎてスティーヴ・ライヒ風にバグってついでにパニック発作誘発しかけたぞ。4年に一度の男子フリーの日に仕事休まずダンス公演のチケットまで取ってた自分が一番悪いんだけどさ。

 そしてコンディション最悪のままNoism1の『NINA』観たんですけど。数時間前にテレビで見たものと似たようなことが目の前で起こっている気がしたんです。最初は自分のコンディションがひどすぎるからなのかな、とも思ったんですが、そこは目の前のものが素晴らしければそちらに敬意を払おうとする人間だから違う。特に女性群舞が見劣りしてしまう、Noismでたまにこの感覚味わうんだけど、違う時もあって、何が問題なんだろうとしばらく考えてました。『カルメン』や『ラ・バヤデール』の女性群舞ではこんな気持ちにならなかった、『Painted desert』も特に気にならなかった、『PLAY 2 PLAY』の時は同じことを感じた。で、わかった。ダンサーは悪くない、金森穣が悪いんだと。

 Noismのダンサー個々の肉体に頼る演目の時って、男性ダンサーは生き生きと見えても女性ダンサーの魅力が殺されている印象を抱くことがしばしばあります。これ、ずっと私、女性ダンサーの力量不足かなと単純に考えていましたが、本当に申し訳ないことにそうではなかった。金森穣が女性特有の個性を活かしきれてないんです。男性に対してはフィルターなしに男性ならではの魅力とダンサー個々の特性をすり合わせることができてるんですけど、女性に対してはそれができない。彼にとっての女性は井関佐和子の存在が強すぎるので、全員を井関佐和子の雛型にはめようとしてしまう。井関佐和子は素晴らしいダンサーだけど、その肉体の特性と違うものを持っている女性までそう振舞うことを強制している。ダンサーの個性を認められないんです。一人一人の女性のパワーに向き合えていないんです。そして常に井関佐和子と比べられてしまうような動きを強制されているからみんながみんな井関佐和子の出来損ないみたいに見えてしまうんです。それはもうしょうがない、彼女たちのせいじゃない。ネイサンみたいに気持ちが入ってないわけではなくて、気持ちを入れたところで器の形が合っていなければベストを尽くしたとしても手の打ちようがない。山田勇気振り付けの時の彼女たちはもっと伸び伸びと自分の個性を取り入れてもらって踊れていたように見えました。コレオグラファーが一人一人と直接向き合える目を持っていたからだと思います。その点で金森穣は女性に距離があるというか、接し方がよくわからない人に見える。実際の所は知りませんが、姉や妹がいる男性と男兄弟だけの男性の違いに似ている。欲望から切り離された時の女性の肉体の扱い方がぎこちない。等身大の私たちが見えていない。ベジャールのように興味がないわけじゃない、興味があるからこそ変に気を使って割り切れていない。身近な知っている肉体と妄想の間にある私たちの等身大は忘れ去られて見つけてもらえていない。

 この人、女性がわからないから怖いんだ。怯えているんだ。だから自分を受け入れてくれる女性を通してしか向き合えないんだ。自分がわかってないということを知られたくないから威嚇しようとするんだ。

 これ、誰かにも似たようなことを感じた記憶があって、掘り下げたところ思い当たったのは三島由紀夫でした。ベジャールの『M』は美しかったけど、三島由紀夫自体のマチズモの鎧で固めた息苦しさは好きになれなくて、金森穣が鎧を身につけなければならない理由も推察はできるんですけど、でもそれ舞台上にまで必要?というのは率直な感想としてあります。

 『春の祭典』の生け贄はあんなに豊かなはずなのに粗末にされたことで私は怒りました。『NINA』の生け贄は元から粗末な扱いをされているのに健気に頑張っていることに対して同情する他ありませんでした。どうせ生け贄になるのでしたら見すぼらしい哀れなものではなく、豊かで美しいものになりたいです。