原城の幻影/ふたりのみっちん

marginalism2018-11-26


 新作能「沖宮」(https://www.okinomiya.jp/)11/18東京公演を観てきました。元々はそういう予定ではなかったはずですが、石牟礼道子追悼公演となっており、私がこの企画を知った時はまだ存命中だったのですけど、後からパンフレットを読み返すと、これは思っていた以上に石牟礼道子が亡くなったことで余計作品との格闘が大変になったのだろうなと感じたので、なんとか完成まで漕ぎ着けた人たちをしっかり労いたいです。

 原作の「沖宮」を読んだ時、これどうやって能にするんだ……?と、素人の私でさえ思いました。登場人物が多くて、場面転換が多くて、シテになるのかワキになるのかよくわからないような語りがあって、でも、そのよくわからないようなところに石牟礼道子の思い入れが込められていて、想いはわかるというか、それが過多で収拾がつかないところがあるような印象でした。作者自身の体調を考えると、これを整理しろとはとても言えないのもわかるので、彼女の気迫だけが乗っているような作品にどれだけ手を入れられるのだろうか想像もつきませんし、当然仕上がりに関しては見当もつきませんでした。

 それで実際、観能してみますと、まあよくここまで能として仕上げたものだと感服いたしました。石牟礼道子の原作から「おもかさま」を消してしまうのは大変な勇気がいることです。よく決断なさいました。おもかさまの要素を省いて竜神を加えたことで非常にすっきりと整理されて、なおかつ精神性は失わずにしっかりと落とし込まれていて、そしてまた新たに加えられた竜神というキャラクターが大変に魅力的で、これはもう本当に大した仕事をなされました。
 石牟礼道子を神聖視するような人だったらできないんですよ、これ。石牟礼道子の作品からおもかさまを抜くなんて恐れ多くて手をつけられないんです。だからそういう人がどう受け取ったのかはわからないんですけど、能作品としての完成度を上げる方向で手を入れたことを私は最大限に評価したい。多分これ、能に仕上げることに関してはほぼ金剛流に丸投げしてるんですよね。評判は存じていても今までなかなか金剛流の芸に触れることがなくて、この機会を楽しみにしていたのですけど、期待以上に素晴らしくて、すっかり金剛流のファンになってしまいました。

 まず金剛の若宗家が出てきた瞬間にもう素晴らしい。美しい。天草四郎の水縹色というものは、着るべき人が着るとこんなにも映えるのかという美しさ。面は小面なのかなと思ったんですが、きちんと美少年のための面というものがあるのですね。志村ふくみ先生の能衣装というより、着物自体、やはり飾られているだけでは魅力が充分には活かされていなくて、誰かが纏ってこそなのですよね。この日のお客様には随分としむらの着物をお召しになった方がいらっしゃったのですが、その様子を見て、あ、本当に蝶々だ、と思いました。それも揚羽蝶ではなくて紋白蝶が集っているような奥ゆかしさで、着物の方がたくさんいるようなところなのに圧倒されることもなく場をやわらかく包んでくれるような優しさもあって、ふくみ先生のお人柄がそのまま織られてるのでしょう、ゆたかなものに包まれている人々は幸せそうに見えました。これ、包まれている人だけじゃなくて包んでいる着物の方も着られることが何より幸せなように見えました。

 金剛の若宗家が手を通すことによって、初めてあの水縹色の能衣装にも魂が宿ったように見えたのです。私いつもふくみ先生の恭しく飾られている着物を前にすると少し悲しくなっていて。蝶の採集標本のように見せられて、本来持っている命を押さえつけられ奪われているように感じて、確かにそれだけでも美しいのだけれど抑圧されている魂も感じて、なのに私はそこから解放する力がなくて、早くここから動けるようになればいいと願うばかりでした。

 形を変えた命を紡いで作られた着物なのですから、自由に移動して欲しいのです。ある場所に留まっていた命が、形を変えて移動の自由を手に入れたのですから、殺された虫のような扱いはして欲しくないのです。金剛流に多分元からあっただろう黄金に青海波の袴と志村ふくみ先生の作品が融合して天草四郎の格調と同時に人となりが伝わってくるような合わせ方も良かったです。あやの子方の女の子もしっかりと彼女の役割を演じられていて、私は今まで男子の子方しか実際に観たことはなくて、これ女の子がやるしかないんだろうけど、どんなことになるんだろうと気に掛かるところでしたが、あ、この子いいな、とすぐ思って、気をもむことなく彼女に任せて世界観をたゆたうことができました。ピナ・バウシュの「春の祭典」で、生贄に赤いドレスを渡すシークエンスがあるのですが、あやに緋の着物を渡すのって全く同じだなと、そこで世界が二重写しになって私には見えました。ダンスの文法としては全く違いますが精神性は似ているんですよね。ただ、孤独を突き詰めるピナと違ってこちらの方が全体的に優しい。シテ方天草四郎ワキ方の村長のみならず囃子方地謡も後見も皆あやに優しい。それどころか竜神まで優しい。

 実は金剛の宗家演じる竜神が何よりも良かったです。舞がおおらかで大きい。「謡宝生、舞金剛」ってこういうことか!と即座に腑に落ちるほどの説得力がある。いい、金剛流いい。私、あやが緋色の衣装を着せられている時にしつけ糸をぱちん、と鋏で切る音が鳴った瞬間、舞台のモードが変わったと思って、その瞬間にあやはこの世から違う場所に居を移したんだと思って。途端にあの衣装が婚礼衣装にも見えてきて、天草四郎というのが花嫁の父兄に見えてきて、それで竜神が登場すると、先ほどまであんなにも魅力的に見えていた天草四郎の水縹色の水衣が途端に色褪せたんです。自分でも驚いたんだけど、竜神の狩衣の強さの前で色褪せてしまったの。どう見ても何の手も加えていないから、単に私の主観がそうしてしまっただけなんだけど、あやが生贄という自覚と意志を持った瞬間にそうなってしまってた。異世界に嫁ぐということは苦労が絶えないだろうけども、この竜神は彼女を愛し優しく守り包んでくれると確かに感じられて、原作よりだいぶハッピーエンドになった印象です。

 ところで、この作品は美智子さまがいらして一緒に観能することになったのですが、終演後、私たち観客は美智子さまにも拍手をしていたんです。私なぜかそこに感極まって涙がこぼれそうになったんです。それが不思議で不思議で。私、天皇制に特に思い入れがあるわけでもないんです。否定するわけでもないけど熱狂的に支持するわけでもなくて、ただなんとなくあってなんとなく尊重するもの以上に考えたことないんです。皇后陛下というよりは美智子さま個人に対してなんとなく親しみのようなものは抱いたりしていますけど、深く知っているわけでも掘り下げたいわけでもなく、全てにおいてふわっと茫洋としたものしかないはずなんです。

 あれは一体なんだったのだろうな、と考えつつ外に出ますと、そこに皆立ち止まっているんです。え?国立能楽堂の外に出ちゃいけないの?と困惑してたら美智子さまがお帰りになられるからということで警備がすごかったみたいなんです。私そこにびっくりして。皇室の人って何か鑑賞に出向いても、最後までその場にいないで立ち去る印象があって、たとえそれが最後の一音と余韻に全てがあるようなマーラーの9番であっても途中で退席(させられてる)イメージがあって、特に美智子さまはできるだけ迷惑をかけないように配慮されているイメージがとりわけあったので、あ、そういえば最後までいたわ、と、ここでそれがどういうことか気づいてびっくりして。

 あの美智子さまが、それでもあえてわがままを通して、警備にも観客にも迷惑をかけているのは重々承知だけれども、それでも今回だけはと強い想いがあって、それで警察やSPや私たちを待たせているって、どれだけの気持ちでこの舞台に駆けつけたのだろうと思って。

 警備の人が私たちに何度も言うんです、「もうすぐ来られます」って。でも、名残惜しいのか随分と待たされてやっぱり来なくてもう来るかなってまた繰り返して、最終的には警備の人苦笑して私たちも笑って。だって、私たちも美智子さまのお気持ちわかるから。同じもの観たのだからわかるから、気が済むまでいればいいと思って国立能楽堂の玄関口と門の間で皆待ってて。その間になんだか私は原城に籠城するモブのキリシタン農民と同化してしまって、だって美智子さまってあやなんです。私たちの中から生贄として差し出された女の子なんです。生贄が束の間の里帰りをしてきたようなものなんです。珍しく長居をしていることだって、私たちを信頼しているからできることなんです。この人たちだったらちょっと甘えてもいいかなって常に周囲に気を遣って生活している人が思ってくれたわけでしょう。だからもうありがたくてありがたくて。それはその場にいた全員がそうです。その場が原城になっているんです。立てこもっているキリシタンも生贄を捕まえにきている役人も一緒に同じ気持ちを共有して待ってるんです。もうこの場にいる間だけは皇后陛下でも美智子さまでもなくてみっちんでいていいよってそういう構えなんです。キリシタンのあやが小舟に乗って竜神の所へ参ったように、彼女もキリシタンみたいなところから違う神の元へ嫁いだ人です。あの車に乗った瞬間に彼女はもうみっちんではなくて皇后陛下にならざるを得ないのだから、もう少し羽を伸ばさせてあげたいと思って、彼女を見送るまでがこの作品なんだと、皆で出迎えて、皆でお見送りして、彼女と皆で手を振り合って、彼女がみっちんから美智子さまになって、皇后陛下になるところまでを見届けて、皆でため息をつくまでが天にいる方のみっちんが仕組んだものだったんじゃないかなと、そこに追悼というか、追悼という一方通行のものではなくて、それじゃつまらないとちゃんと対話しにくる石牟礼道子の魂を感じました。