ポリフォニックな肉体/Spark/拓ける

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 Noism1の実験舞踊vol.1『R.O.O.M.』/『鏡の中の鏡』吉祥寺シアターでの東京公演2019年2.21(木)19:30の回観に行ってきました。この公演知った時は吉祥寺シアターと同じブロックの辺りに習い事で通っていて徒歩圏内だったのに、まさか引っ越して片道2時間近くかけることになるとは思っても見なかった。東京から少し離れた所に住み始めると吉祥寺駅ですら人が多くて酔う。数ヶ月前、あんなにスイスイ歩いていたのが夢のようだ。そして早く海の近くに帰りたいと思ってしまう。久しぶりに行ったら懐かしくなるのかと思いきや全くそんなことなかった。あ、でも、吉祥寺シアターはちょっと懐かしかったです。

 今まで、私が観た作品では『ASU-不可視への献身』の『Training Piece 』や『NINA-物質化する生け贄(ver. 2017) 』がそれだと思うんですが、Noismメソッドを使った作品がどうもピンとこなかったのですね。うまくこなれてないというか、力みすぎというか、制作意図とそこにある身体がフィットしてないというか、頭でっかちで身体に落ちてなくて、ずっと消化不良だったんです。これ多分、金森穣が自分のカンパニーのダンサーを信用しきってないところから来てたんだと思うんです。任せるべき領分を任せないで自分で背負いすぎていた。そして特に女性ダンサーに対して悪しきパターナリズムで以って接しているようにも感じていた。

 そこがちょっと変わってきたのかな?と感じたのは劇的舞踊『ROMEO&JULIETS』 でローレンス神父として女性ダンサーの前に立っていた時で、あれ?女子校で生徒のパワーに圧倒されている男性教諭みたいな雰囲気になってると思ったんですよね。
 今まで女性ダンサーの前に各々の個性を認めず自分の理想の女性というか、一番よく知っている女性の身体性を押し付けるだけで厳然と壁として立ちはだかっていたんだけど、そこでやっと一人一人のパーソナリティを認め始めたように見えた。
 あのパターナリズム押し付けってなんかヘテロ男性特有なのかな?BBL観に行ってジル・ロマン振付の作品でも似たようなことを感じた。あっちはもっと露骨で、あ、私、この人の作品無理だ、と思った。ベジャール作品がいかに弱者とされる人々への配慮に満ち溢れていたのかも同時に感じた。ベジャール作品を観に行ってこんな仕打ちある?って、ダンサーとしては信用できてもコリオグラファーとしては別なの?って泣きそうになって帰ってきたから、本当にああいうの嫌で、金森穣はそういう臭いを極力排除しようとする人だとは思うんだけど、それでもやっぱり苦しくなることがあって、そこだけは嫌だなと思っていた部分だったので、ロミジュリの後はちょっと期待してたんですよね。

 それで今回の作品観たら、女性陣がやっと解放されて自由に各々の個性のままを尊重されて動いていたの、特定のわかりやすいロールを与えられていなくても。私それがとても嬉しくて。今までずっと男性陣に感じていた魅力が女性陣にはいまいち宿ってなくて、それってやっぱりダンサーの責任じゃなかったんだって。ダンサーは頑張っているように見えているのになんだか群舞ではぎこちなかったの、やっぱりコリオグラフの責任だったんじゃんって。変に女性陣に遠慮してその結果彼女たちの魅力が引き出せてなかったんじゃんって。彼女たちはもっとタフだよ、ズカズカ踏み込んでいきなよってもどかしく思っていた部分がやっと実践されたみたいで嬉しかった。やっと認めてくれたんだって。私自身が女だからって踏みつけられてきたのはまあ当然悔しくて悲しくて散々泣いてきた部分なんだけど、裏にパターナリズムが隠れた優しさで変に気を遣われて能力がうまく発揮できない経験も多くて、そっちは相手の無自覚な暴力をまず指摘しなきゃいけないのが面倒で疲弊してたから、Noism観ててやっとそこが解放されてストレスフリーになったのとっても喜ばしくて、心が飛び上がって跳ね回っていた。

 今回すごく風通し良くなったのは、当然新メンバー由来のところも多くて、カイ・トミオカもなぜか目で追わずにはいられないダンサーだったんですが、何を置いてもジョフォア・ポプラヴスキーの存在感には言及したい。
 彼、さすがのルードラ育ちで、BBLの西洋人男性ダンサーがボレロでメロディ(私が観たのはズアナバール)に襲いかかるのを初めて観た時の感覚が私忘れられないんですけど、あの特有の迸るセクシーさをしっかり備えてますね。あの体格だとリフトも安心して観てられる。そして何より、井関佐和子がとても楽そうだった。舞踊言語のマザーランゲージが一緒の人と組むとこの人こんなに気を遣わずにのびのびとできるんだ、金森穣だからじゃなくて、同郷の人間相手だとこうなるんだって、だとすると今までどれだけ窮屈だったんだろうって胸が詰まった。体格差もあるんだろうけど、今まで金森穣以外の男性ダンサー相手だと身を委ねることができず、リフトする側がちょっと気が引けている分むしろリフトされる側がリードしているように感じていたから、何も考えず飛び込んでいってもしっかり受け止めてくれる息の合い方、これ育ちが一緒だからだろう呼吸のタイミングで、遠慮せず任せられるし、実際やすやすとその要求クリアしていってるのを観てて、彼女も肩の荷を下ろしたんだなと思って、ちょっとそこに非常に感動して泣きそうになった。実際涙こぼしてたかもしれない。

 なんだか全員が全員、変な肩の力が抜けてて、指導を押し付ける側と押し付けられる側という関係性から、それぞれが役目を果たす大人の集団になったようで、それがとにかく嬉しかった。信頼してくれた、っていうのが嬉しかった。客席を信頼できてないから上からダンサーを押し付けるような形を取っていたところもあるはずなので、その頑なさが溶けたのが嬉しかった。今、私たちを信頼しなければカンパニー存続できるかわからない非常に厳しいところにいるんだろうけど、そこから生まれたものも確かにあって、私はその信頼に応えなければならないと思った。やっと信頼してくれたから。

 ということで、確定申告の還付金が入ったらここに申し込みます。
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 後半、金森穣と井関佐和子のデュオ『鏡の中の鏡』は、私現在、ユング心理学河合隼雄を読み解く講座に通っているのでアニマとアニムスがテーマだと知った瞬間から楽しみしかなかったんですけど、まず音楽が懐かしかったんですよね。こういう曲、私演奏したことあるなって。あとちょっと音の重なり方がNoismの前作でも使ったプロコのロメジュリに似てるところあった。
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これとちょっと似てない?
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 ずっと私は自分のアニムスが男性ではなくて例えば市川房枝のような女闘士のように感じていて、自分の中に男性がいないことが気になっていたんですけど、最近やっとそれを見つけて*1、井関佐和子と金森穣というアニマとアニムスが触れ合った瞬間に身体中を電流が駆け巡ったりしてたんですけど、それよりもとにかくラストなんです。
 ラスト、あそこにああやっているアニムスを、あ、助けに行かなきゃって。私のアニムスがあそこにいる、ああやっている、早く助けに行かなきゃって。もうずっとそこに気を取られて、カーテンコールやってるところに反応したいのにどうしてもそこに、金森穣が、アニムスが作品中で最後にいた場所ばかり目が行ってしまって、劇場から出てもずっとぽかーんとしてて、なんだろうこれ。私の中のゲルダが、「雪の女王」のゲルダが、あの子助けに行かなきゃって、カイを助けに行かなきゃって。私のアニムスがカイってわけでもないような気もするんだけど、でも、もしかしたらそうなのかもしれないけど、今もゲルダがずっとやきもきしているのです。
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*1:別に誰も気にしてないんでしょうけど書き記しておくと映画『ボヘミアン・ラプソディ』鑑賞きっかけで調べまくって掘り下げまくった結果、色々重なっていたことが判明して、私のアニムスがロジャー・テイラーと発見した