ひとひらの誓い

marginalism2018-04-24


 「四月十五日 石牟礼道子さんを送る」(http://www.minamata-f.com/evt_180415.html)に、当日急遽、石牟礼さんと同学年の祖母に付き添う用事が飛んだので、急いで桜の花びら一枚を拾いあげて捧げるため馳せ参じました。ちょうど図書館で「花びら供養」を借りて読んでいたところでした。

 始まるまでロビーでうごめく人々を見ていて、海で生活しているさまざまな生類のようだなあと思いながら腹ごしらえをしつつiPhoneを触っていると、一人の老婦人から声をかけられました。スマホの音を消すにはどうすればよいのかわからないようでした。会場に溢れていたのは一緒に戦ってきたのであろうお年寄りが多かったので、石牟礼道子の孫世代、四十代の私でも充分に浮くほどに若く見えたのでしょう。彼女からすると魔法使いに見えたのでしょう。iPhoneユーザーでドコモのスマホなど触ったことがない、ということを伝えたところで困るだろうというか、恐縮しきって切羽詰まった悲しげな顔を突き放せるわけもなく、手間取りながらもなんとかサイレントモードに設定しました。Android端末ってiPhoneと違って、側面のスイッチ1つで切り替えられるわけではないんですね(音量キーで設定できるのは後から知った)。

 最後までずっと恐縮していた老婦人を見ていて、私はドコモに、携帯会社に腹が立って。
 こんなわかりにくいものを押し付けるように売りやがって、人の心はないのかと。やっと使い方を覚えたガラケーが壊れて、それで持たされたのがこんなガラクタかと。どれだけ機能詰め込んでアピールしようとも使いたい人が使えなければそれはガラクタです。水俣病よりはほんの些細なことなのかもしれないけれど、文明によって暴力的に切り捨てられた人を見ました。新しいものに適応できない人を馬鹿にして切り捨てる世の中の断面を見ました。
 「若い」ということは往々にしてそういう態度を取りがちで、とりわけ私はそういう側面の強い傲慢な若者でしたが、若さによる傲慢と企業の傲慢はやっぱりちょっと質が違う。若さを丸め込んで焚き付けて取り残された人びとを馬鹿にするように仕向けるのは、実は強者です。企業なり政府なりの強者が煽って弱者同士(この場合は情報についていける若者とついていけない老人)を対立させている。便利だけど優しくない社会へと突き進むうちに破綻が起こって、それでもなお強弁するシステムとそれに支配された人びとが傷ついたものを更に追い詰めて、一体それは何のため、誰のためになるんだろう。会場で音が鳴らないように気を配ろうとして困った人をけたたましい音で追いやる社会を誰が求めているんだろう。
 でもきっと、私は会場を離れると、企業の論理に絡め取られて、ノルマに追われて騙すようにおばあさんにガラクタを売りつける人間でもあります。生きるために仕方ないんだと。お給料もらわなきゃ暮らせないんだから仕事なんだからしょうがないんだと。騙される方が悪いんだと。

 「騙される方が悪い」「自己責任」こんな言葉に溢れた社会で私たちは生きています。
 お金を持っている人は、無意識のうちに持っていない人に対して傲慢な態度を取ってしまいます。親切のつもりで傷つけたりもします。裕福であることや貧乏であることは単なる運です。たまたま運が良かっただけの人がそうではない人を蔑みます。これはもう困っている人に寄り添う姿勢を明らかにしている人でさえそうなります。強者の論理を振りかざす人ではなく、力なきものに寄り添おうとしている人の暴力は辛い。それをやられると立ち直れないほど傷つきます。味方のつもりが傷つける側に回ってしまった人は、そのことをうまく受け止めきれずに八つ当たりをすることもままあります。「あなたのために」と押し付けてきます。自己弁護の言葉を羅列します。この人は何のために誰のために行動したのでしょう。

 石牟礼道子は徹底して「自分のために」戦ったんだと思います。「あなたのために」などという傲慢な言葉はついぞ吐かなかった人だと思います。最初から自覚的に「自分のために」動いている人に屈辱的なものごとを与え続けているのはきっと企業ではなくて、一見、良心を備えた普通の人です。それもハンナ・アーレントを読むような良識をも備えた人たちです。「凡庸な悪」に自覚的なのに絡め取られていく悲しい人です。社会を考えているうちに自分がどこかへと消えていく人たちです。
 システムに洗脳される前の自分に出会うことは現代社会ではとても難しいです。私たちがお金と呼んでいるものは狐や狸の葉っぱと大差ありません。1万円札は実際には1万円の価値もない紙です。その紙がただの紙ではない、というシステムは実は脆いです。脆いからその紙を「1万円である」と押し付ける側は強くあろうとします。でも、そのシステムを作った側は1万円札から1万円の価値がなくなったとしてもそれほど困らなかったりもします。新たなルールでまたゲームを作ればいいだけなので。困るのはそのシステムの中でゲームをさせられている人たちです。そのゲーム以外を知らない人が製作者と一緒になって、それ以上の強さでゲームを守ろうとします。ルールを破ったものを糾弾します。ゲームをやめようとする人を必死に引き止めます。

 石牟礼さんを送るために壇上へ赴いた人びとの振る舞いは多種多様で、大きく飾られた写真に敬礼する人、その写真を見ると「泣いてしまうから」と避けるようにこちらを向く人、詩を捧げる人、こらえきれないものがあるのか結果的に悲しみが怒ったように聞こえる人、前日に国会前で頑張って疲れてしまったために「お休み」となり壇上まで来られない人もいました。会場で語ることではなく、国会前で活動することを選んだ人の振る舞いも石牟礼道子の送り方としては正しく筋が通っているなと思います。壇上まで来られない人といえば皇后陛下もお忍びで花一輪捧げられたそうで、それもまた彼女の立場としてはそうするしかなく、誰もが自分にできるやり方で送るというところに、石牟礼道子がどう生きたのかは何よりも現れていたように思います。

 天井から吊るされた大きな写真の両脇には桜の鉢植えが置かれていて、向かって右側の桜からは石牟礼さんの心の動きが感じられるのに、左にはどうもそんな気配がなく、何かそうなる癖がある人だったのかな?など不思議に思って休憩時間に壇上に近寄ってみると、左側の桜は花びらが何枚も散っていました。右側は一枚も落ちていないのに。
 それでわかりました。右側には石牟礼さんの心、左側には長くパーキンソン病を患っておられた体が宿っていたのでした。枝という体を揺らして深く関わった人たちが語り終えて去ろうとするたびにいたわっておいでなのでした。

 私はその場に近所の桜の木から散った花びら一枚とゲームで使える葉っぱ数枚を置いて送ってきました。
 我を忘れてゲームに夢中になりがちな性質の人間なのですけれども、その割にまったくゲームがうまくならなくて、結局のところ今プレイしているゲームが向いてないのだと思います。向いてない人間がこれからどう振る舞えばいいのか、花びら一枚の重さを忘れず生きるために、下手くそなりにもぎ取った葉っぱと一緒に置いてきました。
 私は、花びらを拾ったり集めたりするのが得意でも評価されないゲームが好きではありません。ゲームとどう関わっていくのかはわかりませんが、好きなことを好きなようにできるよう、自分のために戦います。あの花びら一枚にかけて誓います。

花びら供養

花びら供養