忽然

marginalism2017-09-07


 10日ほど前、24時間テレビのランナーが誰だとか騒いでいた頃、「あれ?今年の小金井薪能は明日なんだ」と気づきました。5年ほど前から毎年気にはなっていたけども夏の屋外は私には過酷すぎると見送っていたのですが、今年の天気は曇り、最高気温は27度という予報を見て「いけるかも」と自分の体に期待せず、当日券入手方法を調べて寝ました。
http://koganeitakiginou.sakura.ne.jp/01.html
 翌日起きたら、天気も体調もなんとかなりそうな気配だったので、仕事を終えた後急いで小金井公園に向かいました。武蔵小金井駅を出たらすぐ案内の人がいてバス停の乗り場を教えてくれて、公園の売店目指したら普通に当日券を買えた。前売りと同じ料金で。スタッフがたくさんいて入場のために並んでいると帰りの貸切バスのチケットを売りに来てくれたりして、非常によくオーガナイズされているイベントという印象。プロじゃないからこそ一生懸命お客さんをもてなすぞ、という気概に溢れていて、慣れていない人も結構いてまごついていたりもしますがその近くにちゃんとベテランの人がいてフォローをしていて、イベントもスタッフも育てる意識が強い。素人だということに悪い意味での甘えがないので、長く続く街の名物行事がなぜ長く続くのかという理由が見えた気がします。

 私が能楽に興味を持った時にはすでに紫外線アレルギーを発症していたので、こういう場に来ることができるとは思ってもみませんでした。奇跡的に好条件が重なり合って参加できたことがまず嬉しい。演目も夏フェスらしい一見さんにもわかりやすい派手なところ持ってきているので能楽に興味無い人も誘いやすい。ここは賛否分かれるところかもしれませんが、小金井薪能PAもしっかりしていて演者の声はマイクで拾っているので聞き取りはしやすい。

 そして何よりも自然が真の主役だということをその場で体験したからこそ思い知らされた。
 まだ明るいうちに行われた火入れの儀式、刻一刻と移り変わるマジックアワー、後シテの平知盛の場面になった途端一斉に飛び立つ鳥、漆黒の中でのコンテンポラリーダンス、飛び散る火の粉、照らし出される草月流の竹、忽然と現れまた忽然と消える能舞台。目の前にあるものが全てこの時間しか体験し得ないものと思うとクラクラしました。白洲正子が見たものはこれかと思った。日本人が古来から育んできた感性はこれかと思った。凛々しさとあどけなさが混在している子方の義経が出てくるや否や近くの席のご婦人方が皆一様に目尻を下げて自分の孫を見守るような態勢に入ることも古来から繰り返されてきたものなのだろう。子方に目尻を下げて、狂言で笑って、コンテンポラリーダンスで圧倒されるという反応が、素直で擦れてなくて自然でいいなと思った。

 山本東次郎家の鷹揚で懐が深いけれども品格は保つ明るい芸、どの演者もしっかりしているので安心して笑えるのが良い。ただ、鶏聟(にわとりむこ)という演目、日本語で耳で聞いてもピンとこなかったところ、英語アナウンスで「Rooster groom」と言われるとおかしみが伝わってくるあたり奇妙なものです。室町時代の日本語より英語が近い距離にあったのかと。私は能の言葉を聞き取ることは諦めているのですが、狂言の言葉は聞き取れるので、成立年代の言葉がそのまま残されていることにいつも感心してしまう。この演目でいうと鶏の鳴き声などが今と微妙に違う。今より本物に近い。本物に近い鳴き声がいつしか記号となり簡略化されて行く過程を想像して演目に埋め込まれた時間を噛みしめる。言葉が少しずつ変わってきても、ずっとこの演目で日本人は笑ってきたのだと思うと少し感動してしまう。それと同時に英語アナウンスも入る小金井薪能という場では日本語がわからない外国人も一緒に笑っていることに更に感動する。こういう芸は流れ流れて常に過渡期なんだなと実感する。

 私は総合芸術が成り立つ最小限度まで削ったことによる柔軟さが能楽の一番の長所だと思っているので、案外と他のジャンルとのコラボレーションが小回りがきいてやりやすい風通しの良さを気に入ってます。もともと森山開次とのコラボレーションで能楽堂に足を運んで能楽のフォーマットにガツンとやられたので、今回また彼のダンスをこのフォーマットで観られたのも嬉しかった。森山開次能楽のフォーマットを使うのが上手い。ただ今回は宝満直也の伸びやかさがより一層印象に残った。
 森山開次は多分、舞踊のネイティヴ言語を持たないんです、だから音楽を一音一音丁寧に拾うんだけど、崩せなくてちょっと合わせすぎるところもある。その点、宝満直也は自分の中にしっかりとした舞踊言語が息づいているんですね、だから音楽は最低限の合わせるところだけ合わせて行けば問題ないと、ある程度は自由になる。合わせるところがわかるからそうする必要がないところは無理に合わせないで自分が好きなようにやっている。余白がある。方眼紙の升目に収まるようにきっちり書き取りするのではなくて、全然はみ出てる。そこがいい。升目は気にしないけど方眼紙自体からははみ出さずに収まっているから問題ない。あれは従者のダンスではなく王子のダンスだ。この時は猩々がモチーフだったのだからはみ出したっていいくらいだ。いい意味でのベジャールダンサーぽい野性味が出ていたので、この人逆にクラシックバレエはどう踊っているのかと興味を持った。クラシックバレエを観るのはコンテンポラリーに比べてあまり得意ではないのだけれど、この人のは観てみたい。なんというか、津村禮次郎のスタンドとしての森山開次と宝満直也という感じで理屈抜きに楽しいダンスでした。

 今あの広場に行ってもあの舞台がないことが信じられない。夢だったのかとも思う。けれど、紫外線アレルギー持ちが防御を怠った部分にあの場の名残があるので、現実だったのだなと腕をさする。