一回性の奇跡

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 事の発端は私がNoism15周年記念公演『Mirroring Memoriesーそれは尊き光のごとく』新作『Fratres Ⅰ』の自分が購入したチケットの日時を新潟公演とすっかり取り違えていたことから始まります。
noism.jp
 7/26のめぐろパーシモンホール公演を7/19と勘違いしてしまい7/26に他の予定入れてしまって譲渡先探したり慌てて翌7/27のチケット押さえたり、その日の仕事がきちんと定時で上がれて間に合うかに気を揉んだり本当に大変でした。全部日程勘違いした私が悪くて身から出た錆なんですけど。

 でもこの公演、初演が素晴らしかったので、楽しみにしていただけのことはあって、なんとか間に合って行けて良かったのは良かったんだけど、それより何より腹が立ってしょうがなくて。
 なんでこの人たちが、Noismが活動継続の危機に陥ってるんだ、と腹が立って腹が立ってしょうがなくてスタオベしながら顔ぐちゃぐちゃにして泣いて、何やってんだかわかんなくなって。こんなに素晴らしいのだから芸に集中して欲しいのに運営のゴタゴタが酷すぎて。もうずっと芸術とは何か、と考え込んでしまって。こんなに高い志を持つ人々を失ってしまうかもしれない所に追いやる芸術ってなんだ、と。新潟の親戚とこの前話してたらNGTに回ってる金をNoismに回せばいいのにね、と言われたんだけど、そんなにNGTって自治体から助成金出てるの?そんなの配分間違ってるだろ、と。こんなに誇り高いものをどうして手放せるというのだろう?一から作らなくても、もうこんなに仕上がってるのに潰そうとする感性がわからない。こんな宝を手放そうとするの信じられない。もしまたどこかで一から作ろうとしたってこれはできないよ?単純に街の誇りとして他の自治体の住民に自慢できるのに、と帰りの坂道を下りながらぐるぐる考えていて。

 私は如何ともしがたい膨大な欠落を抱えている人間で、それを埋めるためには芸術しかなくて、生きるためにどうしても必要な人間で、芸術は命を繋ぐ手段で、その本質に迫ろうと格闘してる人をみてどうにか自分の命を感じているのですけど、世間はそこまで切迫した気持ちでこれに臨んでいないのだろうか、と孤独感からくる悲しみに苛まれました。

 この困難ですらカンパニーを育てるために大きな役割を果たしていて、全員の結束感に加え、金森穣も抗い難く張り付いていた孤独の代わりに柔らかい包容力を身につけてて、彼のパターナリズムが怖かった私には好ましい変化だったのだけど、この状況でそれが生まれるのは望まなかった。もっと違う形で目の当たりにしたかった。
 穣さんと団員の間の厳しさが薄らいで優しさに変わってたこと自体は本当に嬉しかったです。とりわけずっと壁を感じていた女性団員とやっと打ち解けたように見えて。彼は女性を傷つけないように構えすぎてるきらいがあったから、女はもっとタフだぞ、って歯痒かったから、そこの遠慮が消えたの本当に良かった。今まで私、穣さんの踊りには威風堂々たる大木を感じていたんだけど、今日は透徹した湖みたいだった。すっと音も気持ちも吸い込む静かな湖。海じゃなくて湖。そびえ立つというより受け入れるものへの変容を感じた。

 新作『Fratres Ⅰ』はNoismのコールドってこんなに揃って逞しくて迫力あったかな?という鍛え抜かれた研ぎ澄まされ方でした。瞑想からの美しい光の雨。素晴らしかった。東洋の祈り、東洋の美しさ。ストイックで哀切な。チベット僧の置かれた状況と近いからか似たようなものを感じました。
 井本さん、『Mirroring Memoriesーそれは尊き光のごとく』初演の時にネモフィラみたいな個性のダンサーだなってここですごく気になったんです。儚げに揺れてて。でも今はしっかりNoismという大地に根を張った芍薬みたいだった。井関さんが太陽の光を浴びる大輪の花だとしたら井本さんは風にそよぐ一輪の花。どっちも素敵な個性です。私、井本さんの個性が好きなので『Fratres Ⅰ』のそれが事故だと気付かずに、やっぱりここでそういう役割は井本さんなんだと普通に演出と解釈してしまった。あれ美しかった。あのような一筋の希望に縋る美しさを浴びるに相応しいのは井本さんの個性だと思ったから、そうやってカンパニーの中で信頼を獲得してるんだって感激してたんだけど、事故だったとしたらもっとドラマチックな話で、もう無意識に選ばれてしまったわけですよね。
 実は7/26にダブルブッキングで行ったイベントというのがユング心理学の本の読書会で、Noismは土曜日のチケットも取れたけどそっちはキャンセル待ちしかなかったのでその日はそちら優先したんです。そしたら前日にたまたま7/26ってユングの誕生日と知ったんです。それでやむなくNoismの鑑賞翌日に回してなければこの美しさに遭遇することもなかったわけで、こういうものは積極的に深読みしていきたい所存であります。

 井関さんや井本さんとまた違う位相で池ヶ谷さんがステージに入ると他のメンバーが落ち着く雰囲気になるのもいいなと思います。確か現メンバーの中でご夫妻以外の最古参だと思うんですけど、舞台上でも気配りしてるよなと。彼女は花というより触媒のイメージです。つなぐ人。そして、浅海さんが最後に担う役割、あれを背負って立つ緊張感ってものすごいと思うんです。彼女は未来であり希望であり、なおかつ最終的に私たち観客と同化する役割。でも彼女、託されたものを過不足なく伝えられるの素晴らしいなと思うんです。変な色気とか自我があったらああならないですもの。退団公演になるこの舞台で彼女が思っていたこと、担っていたこと、客席の私たちにしっかり伝わっていたと私は信じています。

 私、Noismの女性ダンサーにこうやって言及できるの本当に嬉しくてね。ずっと作り手が女性の個性を掴みあぐねていたように見えてたのが私がNoismを見る上で長らく一番気になっていたことで、そこの壁が溶けてようやく生き生きと彼女たちが舞台に存在してるだけで、私が女だからか、泣きそうなくらい嬉しい。

 あと、穣さんのみならず佐和子さんも雰囲気が柔らかくなってたのも印象に残りました。彼女は元々柔らかい人格なんでしょうけど、舞台上ではそこ封印しがちに見受けられて、それはきっと穣さんが望んでたからなのだろうけど、穣さんが柔らかくなると佐和子さんもそれに合わせる。そこが露わになるの良かった。

『Mirroring Memoriesーそれは尊き光のごとく』ではカルメンパートで佐和子さんがミカエラ踊るの新鮮でいいんだけど、カルメンのロシア公演で井本さんがミカエラやってたぽい写真見かけて高まったから、井本ミカエラカルメン再演、私も観たいです。でも、佐和子さんのミカエラの笑いでぞくっときて泣けてしまった。絶望の淵にいる時、人間って泣かずに笑うよね。

 私がNoism好きなのってベジャールの舞踊言語をベースとして「もっと先に」を常に目指してる所で、BBLは役割としてどうしても文化の保存・継承に重きを置いてしまうから、先を目指しにくい所があって、変わりゆく世界に伍していくのはNoismの方ができるので、同じ時代を生きてる醍醐味を感じられるから。変わらないNoismなんて面白くないから、この危機もしなやかに乗り越えてカンパニーが大きく羽ばたくのを見ていきたいし、それに協力しなきゃとも思う。だから、市民じゃない私たちも手伝うから、新潟市はこの尊い宝物をどうかもっと大切に磨いて欲しいです。

 パーシモンホールの音響の中でNoism観られるのはとても幸せだったんですけど、りゅーとぴあもいい劇場だとは伝え聞いているので行ってみたいとは思っているのです。多分、私がまだ行ってないのってもうひと押しのアピールが足りないだけなんだと思う。それって多分市民への浸透にも言える話かもしれなくて、Noismって新潟市民に媚びるのではなく、一緒に文化を作れる人たちなはずで、それを誇りに思える市民というのも育っていけるはずなので、今までお高く止まってると思っていた人たちに訴求する何かを持てと新潟市側はきっと言いたいんですよね。私、今ならクイーンの楽曲使えばきっとNoismとそれを理解できないと思考停止していた市民の間に橋が掛けられると思っているので、ご検討いただけたらなと思います。だって穣さんの映画『ボヘミアン・ラプソディ』評、どの言葉よりも私には響いた。


 この感性から生まれるクイーン楽曲の解釈を私は観たいし、クイーンなら新潟市民の食いつきも良いだろうし、ベジャール作品へのオマージュの流れでもいけるし、また新しいNoismの扉が開くようにも思います。