私を/私が/隔てるもの

marginalism2014-04-24

 言葉が怖くなった。言葉の暴力性が剥き出しになった瞬間に、それから逃れられない運命が怖くなった。
 ピナ・バウシュの『コンタクトホーフ』で、女性が男性に体をまさぐられ嫌がるシークエンスがある。その時、白人女性ダンサーが叫んだ“Stop!”と日本人女性ダンサーが叫んだ「やめて!」のシニフィエは同じものを指しているのは明らかであり、そのトーンにもさしたる違いはない。なのに、シニフィアンの違いで私に対する届き方・刺さり方が全く違っていた。「やめて!」が突き刺さった時から、私は何を観ていたのか混乱してきた。
 そこまでは「片言の日本語混じりの異人さんたちの舞台」を観ているつもりだった。日本人ダンサーがいるのはわかっていても、あくまでも「異人さんが作った舞台」だと思っていた。でも、「異人さん」だけではなくて、「私たちの仲間」もいた。「私たちの仲間」が叫んだ。異文化だと思い込んでいた壁を突き破って突然それは現れた。たった一言で。

 私は言葉を使わない表現形態を見ているのが好きだ。言葉では表現できないものを一生懸命身体を使って見せようとする芸術が好きだ。言葉を超えるコミュニケーションというのは日常生活ではほぼ存在しえないから、言葉を封じて越境しようとする人々に憧れる。『コンタクトホーフ』もそんな心構えで観に行った。いくつかのドキュメンタリーで知っている『コンタクトホーフ』の中で使われていた言葉は知らない言葉、ボディランゲージを妨げない音楽として処理できる言葉だったから。ネイティヴではない人間が片言で操る日本語もまた、その人にとって意味をともなわない音としての届き方しかしていなかったので、私が好きな「言葉を使わない表現」を妨げることはなかった。だからずっと安穏と一線を引いてその場にいられたのだ。

 そこにきての「やめて!」は全てをひっくり返す。そこにいない人の陰口を叩いていた時にその人が登場したようなばつの悪さが立ち上る。ネイティヴランゲージを等しくするものがそこでその言葉を発することで、ダンスに込められた「言葉では表現できない」微妙なニュアンスは吹き飛び「やめて!」一色になる。言葉が通じるということの強さ、言葉が通じないということの強さ、言葉によって断絶させられる・結びつけられる強引で自動的な選択に絶望する。どれだけ一生懸命ボディーランゲージで会話したとしても、それはたった一言に敗北してしまう儚いものであること。私たちは想像力によって肉体の限界から自由になることができるが、想像力を構築するために必要なものは言葉だということ。舞台で行われることが母語によって前触れもなく他人の事という距離を取っ払われて自分の事だと結びつけられてしまうこと。

 何より今までの私のピナ・バウシュの捉え方に壁があったということ。これがショックだった。ネイティヴランゲージとしての日本語が舞台上に登場するだけで、景色が一変する程度のものしか見えてなかったというのはどういうことかと非常に困惑した。言葉によって限定される世界の広さと、母語である日本語が使われている範囲から決まる狭さ、母語を乗り越えることの困難さに絶望した。

 言語習得能力が低い私は日本語という内海の中で生き続けることを選んだ。日本語で表現することを選んだ。遠くまで届けようとしても、その遠さは距離ではなく時間になってしまう、それも楽観的に未来永劫日本語が滅びないという前提に立たなければ届けられないものになってしまう。それでもいいと思っていた。仕方ないことだと思っていた。距離を広げるということは暴力を伴うことだ。例えばスペイン語が端的に証明しているようなことをやらなければならないくらいなら狭くても構わないと思っていた。でも、それ以前に言葉自体が暴力的であるということをピナ・バウシュに突きつけられると、どうしていいかわからなくなった。

 実は私はそれを知っていたのに日常生活を営むために忘れていた。

 言霊を非常に畏れるあまり、話すことがうまくできなくなっていた一時期、「他人と話さなくていい仕事」と紹介されたのが美術モデルの仕事だった。私は仕事として自分の言葉を晒すより裸を晒す方が楽な人間だった。だから舞台上で人が裸になることに対してはそれほど衝撃を受けない作法が身についていた。裸になることが織り込み済みの作品ならなおさら、裸であることに注意を払うというより、「どう裸になっているのか」という裸の見せ方の技術に気を取られ、一生懸命ポージングなどを分析していた。どう配置してどう見せて何を狙っているのか、どう脱がせてどう衣装を着せるか、その衣装が発するメッセージは何か、拘束具としてのスーツやハイヒールからの解放、解放することによる意味、などを舞台進行を追いつつ考えていて、思考に必要なのは言葉だ、言葉によって乱暴に解体している私は何なのだ、と、急にうなだれる。誰しもが持つ裸の普遍性に比べて言葉というものは何なのだろう。
 「誰かが裸になる」ということによる効果と、「誰かが喋る」ということによる効果。
 『コンタクトホーフ』が上演されるような国において「裸になる」ということは、ただそれだけで普遍的な効果があるだろう。だが、「喋る」ということは?日本においてドイツ語を喋るということとドイツにおいてドイツ語を喋るということは全く意味合いが変わってくる。「私」や「私」の特殊性が舞台上で他言語を一斉に喋り出すシーンで露になる。この絶望的な分断に対抗する術などあるのか?

 言葉を使うということ自体が暴力を振るうことだ。だが、言葉を使わないのもまた暴力的であるということを「喋れない人間」だった私は知っている。我々は言葉の虜囚であることから逃れられない。言葉に反抗もできず、失うことも恐ろしく、その枠内でそれぞれ折り合いをつけていかなければならない。今はただ、自分の中での落としどころを精一杯探っている。