カノッサの屈辱の世界史的な意味を知る日々

新しいローマ法王も決まって、空白期間は終わったんですけど、
やっぱりしっくりいかなくて、私はとうとう歴史を実体験として語る年代に突入してしまったのだなあ。


かつて知り合いの極左かつカソリックの人に、
なんでそんなに天皇制を忌み嫌い共産主義を唱えているのに信仰は捨てないのか、と尋ねたら
「だって一旦枠組みを取り払わないと神の国を建設できないから」みたいなことをおっしゃってまして
本人もかなりトリッキーな解釈だけど、というように苦笑してましたが
カソリックの人が天皇制を否定できる強みって
ローマ教皇が彼等彼女等の中では日本の大多数の人にとっての天皇の位置にいるからなんだろうなあと
ヨハネ・パウロ二世を失った今痛感するのです。
言い換えると信仰を特に意識していない、民族に帰属することを特に意識していない日本人にとっては
やはり天皇制は幾ばくかは心の拠り所になっているのだと気付きました。


ヒロヒト以前/以後」を知っている人はこれから否が応でも「ヨハネ・パウロ二世以前/以後」を
何かにつけ突き付けられるのでしょうなあ。


日本語的インフレを起こしていない『カリスマ』をあそこまで圧倒的に感じさせる人は他に思いつかないなあ。


首相<大統領<国王<法王(≒天皇)でしたっけ。


宗教の戒律の方が国の定める法律より拘束力強いのはイスラム圏に顕著ですけども、
日本でもそういった場面は周囲を気をつけてみると結構転がっているしなあ。


本当にもう20世紀は終わってしまったのだなあ、と四半世紀くらい20世紀に生きたものにとって衝撃でした。
そもそも20世紀って区切り自体がキリスト教起源だし。
生まれた時にあった冷戦構造も昭和も全てが本当に消えてしまったのだと、
多分私にとってはヨハネ・パウロ二世が最後の砦だったのです。