他人がどうあれ

自分の居心地の良さを求めるために闘うというのは大事なのだとやっぱり思いました。
他人から「変人」扱いされようとも、一般的な人々が楽しいものと私個人が楽しいものが違うのは経験からわかりきっているはずのことでした。
例えば、高校時代、社会科でどうしても政経倫理がとりたくて、私のいたコースで最初履修希望を取った時には私一人しか政経倫理を希望していなくて、それで教師陣から強く何度も履修希望を変えろと説得された時に、どうしても取りたいし取る権利はあるのにそういう強制はおかしいじゃないかと真っ向勝負して履修させてもらった時の必死さを思い出して、今では笑い話なんですけども、あの時本気で闘って政経倫理を履修できてよかったと今でも一点の曇りなく思う。そんな私の感覚が他人から見ると「おかしい」し「こわい」し「非常識」らしいと気付いたのは本当にここ数年です。
私は「普通」がわからないんです。
普通の女の子だったらあそこまで強情に授業中にまで抵抗しないよなと。そもそも呼び出されてそこらへんの就活の圧迫面接どころじゃなく怒号が飛び交い手も出かける状況に自分を置かないよなと。普通の女の子だと思われていたから教師陣も強く出たのだろうし、思い通りにならない私に憤ったと。今ならわかるけど、あそこまでやられても自分の意志を曲げない女子生徒って確かにほとんどいないと思うんだ。ちょっとしたサイバラじゃなく形が違うけど同じ程度にサイバラだったんだなと。中退に追い込めるほどの下手をうたない、(外で遊ぶ暇がないから結果的に)校則上はそれなりに品行方正なサイバラって相手からしたらとても嫌なものだろうなあと思う。むしろ珍獣に噛み付かれる羽目になってしまった「普通」の教師陣が気の毒だったな、と思う。
政経担当教師に恋愛感情があるからあそこまで頑張ったんだろう、とピント外れの噂を同級生に流されたことにも私は憤っていたけど、確かにあの年代だとあそこまで政経倫理自体に魅力を感じて粘って粘って履修の権利をもぎとるという感覚は特殊で、その教師が好きだからあの子は頑張ってるんだ、と考える方が自然なのだろうとも最近やっとわかった。恋愛に普通の女の子はうつつを抜かす年頃だけど、私にとっては恋愛より受験や読書や政経や音楽(部活も含む)が大事だったというか私にはそれしかなかった。
この手のエピソードは枚挙に暇がないし、「常識がない」ともよく言われます。
「常識がない」と他人に言えるお前の常識ってなんだ?といつも思っていて、「常識」という実に曖昧で主観的な概念を素で振りかざす人ってどうして簡単に自分の常識を信用できるんだろうと考えていたんだけど、「常識がない」と自分から見て「非常識」な相手に投げかけることによって自己防衛をしてるんだなあと最近結論が出た。あいつは常識がない、と切り捨て思考停止することによって自分の価値観を守っているんだと。
それでいいんだと思う。私は自分で「変人」のままで在り続けることを選び取ったことを忘れがちになってしまうからそれがよくない。意識することを忘れがちになった時に「常識がない」と思われ言われ関係が断絶してしまうから、常に意識していなければならないものなのだ。
日本史や世界史をとっておいた方が受験の時選択肢も広がるしみんなもそっちを選択してるんだからしょうもない意地でリスクをとるのはやめろと言われた時に、何校も受験できたってそれが自分の苦手な教科で落ちたらバカバカしいじゃないですか、何校も合格したって通う学校は一つなのだし得意な教科を磨いて合格させてもらった方が私にも学校のためにもなるんじゃないですか、とらせてくれたら現役でネームヴァリューのある大学に合格してみせますから(その戦績を宣伝に使えばいいでしょうよ客寄せパンダ上等ですよあなた方が私の戦績を利用するように私もあなた方を使えるだけ利用するからさあ「いい大学に現役合格」って目的は一緒なんだしさあ)、と啖呵を切った時のことは忘れてはならないのです。あの時「しょうもない意地」と言われたのが何より悔しくて悲しかったです。自分の本意が理解されていなかったことがさみしくてつらかったです。あの気持ちを忘れてはならないのです。
大多数にとってはリスクでも私にとってはリスクじゃない。大多数にとっては薬でも私にとっては毒。そういうことがよくあることは忘れてはならないのです。
それなりに大人になったのでたいていのことは受け流すようにしていますが、今でも文学に向かう時はそれがどのような人であれ高校時代の政経闘争と同じ状態になります。
文学が私に与えてくれたことは、それ以外の他の何を譲っても決して譲ることはできません。
無自覚にそういう態度を通していて更に気付いたのは読書さえしていれば自分の空白・空洞を埋めることができると牧歌的に思っていたのはやはり残念ながら間違いだということ。
私の空洞はどうやら読むという受動態なだけでは埋まらない、能動態にならなければ自分の空洞は埋めることができず追い求めるものは手に入らないということ。
それは受け入れがたい真実だが真実であるからこそ受け入れなければもっとつらくなるということ。
気持ちが逃げそうになっているとどこかで破綻がきて「私は逃げている」と否応なく常に教えられてしまうこと。
そろそろ孤独な長距離走に正面切って挑まなければならない時期がきていること。
でもまだスタートできない、スタートするために足りないものを真摯に考え気付き選び抜かなければスタートさせてもらえないこと。
最近忘れがちだった本当の「孤独」の感覚を思い出してきて、そのつらさに既にビビっていること。
でもやるんだよ、というかやらなけらばならないんだよ、やらなければもっとつらくなるから。
普通の人はこれを「業」と呼ぶのですか、私には逃れようもない「業」があるのですか。
「業」に無自覚になると普通の人を傷つける、「業」を自覚すると自分がしんどくなる。
ただし、しんどさを超えた時に見える風景も知っているのだから、あの風景を励みに「業」に挑むのだろう。
ほんのわずかな瞬間に見える風景が忘れられないことを知っているのが既に「業」なんだろう。
長距離走に出る前にあの風景を見るために私に足りないものを考えるショートトリップにいってきます。
準備がしっかりしていないとあの風景は見ることができない。あの風景と紙一重の煉獄に捕まってしまう。
煉獄にハマるのはもう嫌だ。
最近泣きたいのに泣けないのはまだ私には泣く権利すら与えられていないからであろう。
何もしていない人間が泣けるわけないのであった。