夢で三拍子

ステージでボレロの練習をやっててなぜかそれが初合わせであまりにもみんな練習不足でもちろんボロボロの演奏で先生ブチギレ指揮棒折る(でも私は降り番だったので舞台袖で見てる)という夢を見ました。いやあこわかったー、次は自分ものってやる曲(チャイコの曲のなんかだった気がする)なんだけど、そっちの曲も楽譜もらったばかりで初見でうわーってテンパりながら譜読みしてて先生怒って舞台袖にいた私の横通って帰ってちょっとほっとした、というあたりで起きた。冷や汗かいてたー。さっき配ったばかりでボレロって無理ありすぎっしょ、でも準備足りなかったの私たち楽譜係のせいになるんか!?とやたら設定が細かくリアルに高校生の気分に戻っていた。(クラリネットたいてい一列目だから)目の前で先生が指揮棒折るのって年に一度は見たなあ。

セクシーボイスアンドロボ」の最終回、構成に落ち着きはなかったけど綺麗な終わらせ方でした。このドラマの主役はやっぱりロボだったんだなと最終回にして確信した。エンドロールのクレジットは松山ケンイチが最初に出てくるから外面的にはもともと主役扱いだったんだろうけどいつの間にか実質的にもそうなってた。これはニコの目を通したロボという男の人のお話に結果的にはなったんだと思った。だってドラマのロボは原作のおざなりな扱いとは違って、しっかりと希有な存在として描かれていた。最終的な物語の救済者はいつもロボだった。これは実は漫画でもそうなんだけどさ、そこをそれほど明確に打ち出してはいなかった。漫画じゃロボが出てこない回もあったし。
これは原作者が男性だからニコの方に距離があってニコにある種の聖性を感じていたのにも由来しているんだろうけど、原作ではロボの希有な有り様に気付いていなかったというか、薄々とわかってはいてもそれほど重視してなかったんだよね。ドラマの脚本家は男女のユニットだからそこらへんを浮き彫りにするのはうまかったなあと思う。あと芸達者(言い換えると癖のある役者)が揃っていたのにそのテンションにくらいついていった若手役者達の力量はほめるべきです。たまにNHKの朝ドラで脇役に芸達者揃いなのに主役だけあからさまに足をひっぱっている新人女優がいるとドラマの「自然体」を保つのって難しいんだなあと気付くけど、そういう意味での不自然さはなかったです。
うまい役者さんは非日常の状況下で作られているものを自然なものと見せてくれる人だから、いかにもうまいだろうという演技をしている人は私は嫌なんだけど、そういう人いなかったなあ。
ロボのイノセンスとニコのインテリジェンスのコントラストは漫画の方がはっきりしていた、というかドラマはロボもニコも方向は違うけどイノセントな存在でしたね。ドラマのニコは原作のように状況に自分から攻め入っていかないで常に巻き込まれていただけだし。イノセントな二人を周囲の魑魅魍魎から救い出すというドラマだった。7話が放送されなかったのが残念だけど。あれはちょっと、予告編で見る限りではタランティーノぽくなかったですか?タランティーノつうか「パルプ・フィクション」。特にタランティーノにも「パルプ・フィクション」にも思い入れはないけどちょっと毛色の違う話だったんじゃないかと思って。
原作も木皿泉ドラマも両方好きなので、どちらかに思い入れがありすぎると簡単に糾弾できるポイントはそれぞれにありますが、私はこのドラマ最終回までずっと楽しみにしていたし面白く見ていましたよ。

漫画の方はずっとボレロのような緊張感を保っているじゃないですか(緊張感保たないと成り立たない、でその自分が最初に設定してしまった緊張感のハードルの高さにやられて中断中)、ラヴェルの曲って演奏中にほっと一息つけたりロマンティックな感情を味わったりする部分はないじゃないですか。指揮棒をおろした瞬間の安堵感をその場にいる全員が共有してその解放感こそが醍醐味じゃないですか。
それに比べてドラマのロマンティック加減といったらまさにチャイコフスキーでしたよ。情に流され、甘ったるくなったり、切なくなったり、マッチョな部分まるでなく終わるっていう。ショパンの甘ったるさや切なさじゃなくてもっと純粋なプラトニックな感情の揺れっぷりがチャイコフスキーだと思いました。
ラヴェル的なものもチャイコフスキー的なものも私には備わっているものではないです。だからどっちかに偏ることなく楽しかったです。