もう一つの戦死

坂の上の雲』見てて、なんか違和感が、なんだろうなあこの消化できなさ、と思ってエンドクレジット見てたら脚本野沢尚って。ずいぶん前に亡くなったはずだけど?と調べたら、5年前にこのドラマ執筆中に自殺してたみたいで、納得したというか納得できなさを納得した。
野沢尚の『反乱のボヤージュ』とかすごく好きで、今までの作品集見渡してたら明らかに毛色が違うんだよね、『坂の上の雲』。

野沢尚作品紹介、ここ見てて、やっぱり『坂の上の雲』は違うと強く感じた。
http://nozawahisashi.jp/works/index.html
ものすごく膨大な関係各機関があって、制作費も時間も人数も膨大で、NHKの命運をかけたようなプロジェクトで、失敗は絶対許されなくて、そうなると全体の空気がリスクをとらずに守りに入って、それで脚本家として衝突することや不本意なことは沢山あっただろう、と。譲れないことを譲るしかなくなったこともあったかもしれない、と。

検索したらひっかかったほぼ日のコラムから引用。
http://www.1101.com/watch/2005-02-08.html

ある場面にさしかかったとき、野沢さんは言った。
「このあとの役所さんの台詞は、
 私の思いのたけですからね。
 みなさんちゃんと聞いてくださいよ、ほんとに。
 後輩の脚本家にもちゃんと聞いて欲しいね」
役所広司演じる中年脚本家・晃一が、
かつての教え子で愛人のやはり若手脚本家・新子に
語りかけるシーンだ。

晃一 いいか、祈りだ。
それがないドラマはすぐに忘れられていく。
俺たちは悲しいことに、
電波になって人々の間を
すり抜けていくようなものを作っているんだ。
このドラマがあなたにとって
素晴らしい時間でありますように。
未来への希望でありますように。
観た後、周りの人に優しくなれますように‥‥
そういうドラマを受け止めてくれ、
がっちりその手でつかんでくれと
強く祈らないでどうする。
新子 顔の見えない相手よ。シャドーボクシングよ。
万人に対して祈れって言われたって‥‥。
晃一 だったら身近な人間だ。
たったひとりのためでもいいから、
このドラマを見てほしいと、
このドラマで心を揺さぶられてほしいと祈れ。



この台詞について、野沢さんは
『ふたたびの恋〜シナリオ』(PARCO出版)の中で
こう書いている。
「この晃一の言葉は、脚本家・野沢尚
 『心のたけ』である。
 役所さんの口を借りて言わせてもらった。
 後輩脚本家が聞いたら
 『また野沢さん説教こいている』と言われそうだが‥‥。
 僕をテレビの世界で育ててくれた
 鶴橋康夫監督に『じゃあ、お前は本当に祈り
 を込めて書いているんだな?』と問われた。
 『書いています』と答えた」

彼はこの祈りをはぎ取られてしまったのではないだろうか。そうなると生きている理由などなくなってしまうのが脚本家って生き物なんじゃないだろうか。

公式ブログにあった記事から引用。
http://nozawahisashi.blog.so-net.ne.jp/2007-03-02

 はっきり言ってしまうと、顔も見たことのない視聴者のために身を削っていい仕事をしたいなどとはサラサラ思わない。視聴者は常に遠くにいて、視聴率というものが視聴者の顔をおぼろげに伝えてくれるだけだ。
 プロデューサーが「視聴者はこういうものを見たがっているから・・・・・」と気持ちを代弁するなら、視聴者との戦いはその辺にとどめておきたい。テレビという魔界に引きずりこまれないためには、どれだけ身近に「見せたい人」を持っているかにかかっている。僕はようやくそれに気づき、少し気分が楽になった。
 いつだったか、ある雑誌のインタビューで、自分の作品を「家族への遺書」と答えたことがある。遺書というのは君たちにとってみると重荷かもしれないけど、僕という人間については、ひょっとしたら、実際に僕と話すより、僕の作品を見てくれた方がよく理解できるのかもしれない。

坂の上の雲』に出てくる役者誰もが自分の名前に見合うくらいの仕事をしている、逆に言うと自分の名前を貶めるかもしれないような冒険も名を上げてやろうという向上心も持てずに誰もが何物かわからないプレッシャーの呪縛に囚われているように見える。唯一、作品に血を通わせているのは(それはつまり野沢尚が祈りを託せた人物だ)香川照之だけども、もともと香川照之は「そういう役割」を担わされている役者*1なので、そして役柄上、途中退場するのは明らかなので、彼を手放したあと脚本家は全く人物を動かせなくなったとしても全然不自然じゃない。そして、脚本がないとどの工程もストップしてしまう。でも目の前に広がる荒野に一次元も引けなくなる、そんな時の心境なんか想像したくもないというか、その恐怖から命からがら生き延びてなんとかビバーク中の私に想像する余地なんかない。

最近のNHKはたまにおかしくなっていた。『ETV特集』が終わったあとにたまたま総合にチャンネル変えたら『世界と出会った日本人』とかいう番組をやっていて、さっきまで反戦特集を見てたのが、真逆に向かっている特集、無理やりなほどに自己正当化を図っているような番組をやっていて、これなんなんだろ?とずっとしこりが残っていたら、『坂の上の雲』を作るにあたって集めた資料からなる広い意味での番宣番組だったんだなあと。
てか『プロジェクトJAPAN』とかいうのが全体的におかしい。
http://www.nhk.or.jp/japan/about/index.html
これ関係の軸がなんかおかしい。

この勇ましいだけで中身がなさそうな集団の中で、脚本家の声はあまりにも小さく扱われすぎていたのではないか、と、どうも邪推したくなるほどにおかしい。

そもそも『坂の上の雲』見ている時はずっとじいちゃんの「戦はいやだ」の声が離れない。頭の中にこだまする。そして、この当時の政治の中枢も軍隊の中枢も薩長の人間ばかりなんだなあと思って、視野の狭さにぞっとする。それから明治維新で負けて賊軍と扱われた藩の武士の家系に生まれてその人達が流された痩せた不毛の土地に育って、太平洋戦争でも賊軍あがりだからと明確に差別されたという祖父母の境遇を思う。あのドラマ中ではそういう人達は一切出てこないけど、自分のルーツの中でおおっぴらに聞かされていないからこそ、ちょっとでもその臭いをかぎつけると一生懸命忘れないように解読してきたことについて思う。
隣の国と戦争ばかりしていた時代を嫌だなあと思う。そういえば、ロシアが隣の国だと一般的な日本人が認識していないことに驚いたけど、地理的な要素で仕方ないのかな。少なくとも私が育った土地ではロシアは近い国だった。地元の空港からロシアの空港まで直行便が飛ぶ程度に近い国。福岡の人なんか東京より韓国の方が近い、みたいな意識があると聞いて私が驚いたのと一緒かな。

・・・
「祈り」。さっき全日本直前番宣番組録画したの見ててボロボロ泣いたんだけど、それは選手達のことより、町中の普通の人々が普通にフィギュアスケーターの名前をポンポンあげて誰が勝つかとか誰が五輪行くかとか予想できている光景に、そして名前だけじゃなくてそのスケーターの演技をきちんと観た上で感想を話している光景に、なぜだか涙が出た。普通の人達が鈴木明子中野友加里村主章枝の誰が五輪への切符をとるかという話題についてきていることにただ泣けた。フィギュアスケートはここまできたのか、という思いと、このあとどうなるんだろう、という思いで。誰もが一番頑張っているところでの勝敗は、ただみんな自分の出せる力を出し切ってくれと祈った上で、もう粛々と受け入れるほかないんだけど、それが世間のホットトピックになっていることに私は気付いてなかったのです。そしてアメリカの今年活躍した女性アスリートという記事にフィギュアスケーターが一人も入っていなかったことも同時に思い出したのです、「アメリカで活躍した」じゃなくて「世界で活躍した」なのに。多分、クワンが現役だったら今でもこういうところに名前を連ねるのだろうなあと思って、世間の人気という水物の怖さを感じていたところだったのでした。

*1:香川照之が入ればなんとかなる、と最近のドラマや映画の作り手はちょっと甘えすぎなんじゃないかと思う時があります。