女子の友情

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

インフルエンザワクチンを求め始めた気軽な頃に買った。果てしなくさまよい歩いていた一ヵ月弱の間ずっと携帯していた。新型*1どころか季節性すら入手困難な状況になっていた。出遅れが痛かった。二種類の予防接種をようやく終えた直後に読み終えた。

ぜいたくな本だった。ほんの一言で片付けられているエピソードだけで充分に一冊の本になる物語が書ける、そんなものばかりつめこまれているのに思い切りよく出汁とって捨てて軸となるストーリーに染み込ませている。切り口が変わったら今度はここで主軸となったストーリーがただの出汁になってそちらの世界を彩るんだろう、それが読めるのはいつだろうどれくらいあるんだろう、とワクワクした瞬間すさまじい寂寥感に襲われた。米原万里の新作が出ることはもう決してないのだった。

この本の中におさめられた三人のマリの同級生のその後の消息を心配した。みんな今も無事に生きているのだろうかと。でも、マリがもうこの世にはいなかった。三人の生きた国よりずっと平板な状況に置かれた国にいても死ぬ人は死ぬ。凄惨な戦争や民族紛争や暴動や政治体制の中にいても生きる人は生きる。でも、こういう渾身の物語の輝きは永遠に生き続ける。解説も裏表紙も読み終わって残ったことはそれだった。

それがフィクションであろうとノンフィクションであろうと、優れた物語に息づく生命はどうやったって生き続ける。例えば誰もが圧倒されるようなファクトがあったとしても、その事実を述べれば誰が描いても素晴らしいノンフィクションになるかといえばそうでもなくて、そのファクトをすくいとり紡ぎ出す描き手の技術と物語への感受性にかかっているということを忘れている人が多すぎるのではないか。『感動の実話』というようなあおり文句が世の中に溢れているけど、本当にそれで感動するのは「実話」だからじゃなくて「そのことで感動させることができる技術と感受性をもった作り手が、そのことで感動する感受性と出会っているから」だということを私達はもっと丁寧に扱った方がいいと思う。

時間も距離も遠くなってしまった友人の生をひたすら祈り、行動し、切望し、たぐりよせるマリの姿、他者の命を必死に自分の命を賭けて探し求める人間の姿は当然生きることで満たされていて、物語の方向性が生きることへの一方通行で、死を押しのける生の強さで貫かれている。

ギリシャ人の少女と日本人の少女が一緒にプラハ東京オリンピックを見て呟いた言葉。
少女達の父親が第二次世界大戦中にルーマニアと日本で同じように戦っていたことがわかって、二人が共有した共産主義への想い。
「私の神様はホクサイ」と告白するユーゴスラビア人の少女と告白された日本人の少女。

そこにはどうしようもなくエモーショナルな動きがある。物語がある。バックボーンがある。生きている。血潮がたぎっている。実際の移動距離じゃない、心の移動距離があれば物語は動く。彼女達の交流から見えたのはそのことだった。実際に遠い昔に離ればなれになった友達を訪ねてがむしゃらに飛び回った人の姿からこそ、その真実が浮かび上がったことで勇気づけられた。

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マリがプラハに在住していたのとちょうど同じくらいの年頃の時に私はテレビで米原万里という人を見かけて「大人になったら私はこういう人になるんだろう」と漠然と思っていた。「なりたい」じゃなくて「なるんだろう」と思っていた。勉強をバリバリこなして仕事をバリバリこなしておしゃれやグルメもバリバリこなして犬猫もしくは場合によっては自分の子供もバリバリ生んで育てて、でも一度も結婚はしてないような人。世間から見た表層が「こういう人」になるんだと思っていた。

今は生きる姿勢として「こういう人になりたい」と思う。

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ヤースナのユーゴスラビア。それはチトーの、そしてヤースナの父*2の作ったユーゴスラビアだと思うのだけど、そこには様々な民族がいて宗教を持つ人がいて、でもみんな『ユーゴスラビア人』ということでまとまっていたのだと思う。各々の文化の上位概念としての『ユーゴスラビア』を当然尊重していたのだと思う。
ここのくだりを読み進めている時、自然に頭の中で思い浮かべたのはフィギュアスケートのことだった。
それぞれ応援する選手がいて、好きなタイプの選手もそうでない選手もいて、好きな振付けも得意ではない振付けも音楽もあって、でもみんな『フィギュアスケートが好きだ』という上位概念によって好き嫌い関係なくどの選手の健闘も讃えて、好き嫌い関係なく出来が良くなかった選手を励まして、どこの国の選手だからどうだなんて考えたこともなかった。それが細く長く、でも私達が大事に大事に育んできた『フィギュアスケート文化』だ。私達が愛するフィギュアスケートを特別なスポーツとしてきた文化だ。
「特殊な国」だったヤースナのユーゴスラビアは誰も想像できなかったほどあっけなく脆く崩れ去った。それと同じくらい急速にフィギュアスケートの客席の崩壊が始まっていた。2年前、いやまだ2年も経っていない東京ワールドの時のことを思い出す。どのくらいの観客があの時あんなに国籍にこだわった?フィギュアスケート選手を応援する時にどうして国籍を気にしなければならないんだ?
10代の女子選手がジャンプを失敗すると笑う。『優勝選手の栄誉を讃えてご起立ください』というアナウンスに「たたえたくねーし、立ってるのみんな韓国人なんじゃねー?」と座ったまま大声でがなりたてる。トイレにその国籍からくる中傷を書き込んでいく。彼ら彼女らは自分のやっている行為が自分もフィギュアスケートも傷つけていると全く気付いていない。そういう人々は自分達が不満に思うことの責任の矛先を向ける対象を間違っていることにも完全に気付いていない。不満をぶつける対象は選手やその国ではなく、そういう結果を下した審判になるはずなのに、そのプロセスが面倒なため、より簡単な方法として選手や国を罵倒し嘲笑する行動に流れるようになる。その勢力は私が知らないうちに急速に拡大していた。もう私の声が掻き消されるほどに。
このままだったらフィギュアスケートはきっともうすぐ、あくまで芸術方面を追求する勢力と、ただのスポーツ・ただの勝利を欲する勢力に分裂してしまうだろう。それは客席から起こって全体に波及していくだろう。芸術スポーツというトリッキーな存在であり続けるための努力が私達の『フィギュアスケート文化』だったのだが、私達はそれを守れなかった。だからバラバラになるんだろう。その時私はどこにいるかはまだわからないけど、志のあるところに常にいる人間でありたい。
それはどこにあるか。それはサラエボ五輪優勝者カタリナ・ビットがリレハンメル五輪で表現した志と共にある。私は花を求めてどこまでもさまよい歩く。

http://www.youtube.com/watch?v=HReVQnp1GZA
"she skated to "Where have all the flowers gone?" as a tribute to the city of Sarejavo, the site of her 1984 Olympics win"(動画紹介文より引用)

*1:基礎疾患の関係で優先接種対象者です

*2:調べたところまだご存命のようです→http://en.wikipedia.org/wiki/Raif_Dizdarevi%C4%87