幽玄の飛翔

marginalism2010-06-28

至高の華「鷹の井戸」見てDOIのテレビ放送も見たんだけれども、肉体と型と文法について非常に面白いものばかり見れてよかったなあ、と頭ガンガンしてるけど興奮して何か書かずにはいられないのでした。

「鷹の井戸」は国立能楽堂って舞台が主役なんだなあ、とまず思った。能楽師のホームなんだと。能楽堂ってめちゃくちゃコンパクトに宇宙ができてていいですね。日本人って隙あればなんでも小さくするのね。でもとても機能的にできていて、盆栽と並ぶくらいこれは日本の粋そのものなんだと思う。オケピみたいなもんは生け垣みたいなセットの後ろになるんですね、そこから出る邦楽の音を聴いて、これは生で聴かないと意味がわからないと理解した。鼓が半端なくうまい。特に大鼓の演奏者のスポットの外さなさは驚異的だった。大鼓の方が小鼓より高い音が出ることには違う意味で驚いた。西洋音楽の常識で凝り固まってるから音の出し手とその楽器の大きさから想像できる音の高さが結びつかなくて混乱した。でも、太鼓、大鼓、小鼓の掛け合いの真剣勝負にはシビれた。

ヤンヤン・タンの客であろうバレエ少女と保護者みたいな感じの人と森山開次の客であろうそこらへんの美大生くずれみたいな人と能楽堂古参みたいな感じの人がぱっきり色分けされすぎてて面白かったです。で、俺ら能楽堂新参はただでさえ舞台から伝わるパワーに蹴落とされそうになっていたのにどこで拍手していいのかわからなくてめっちゃ戸惑って能楽堂古参の人の動きをひたすら追うという展開に。

バレエという型を持つヤンヤン・タンと、能という型を持つ梅若玄祥と、全く型を持たないトリックスターとしての*1森山開次。その三者三様のパワーバランスの拮抗が激しく美しかった。その場の型を持つ人間はその型でもってどう受け止めようかと、その場と違う型を持つ人間はどれだけ自分の型を破りどれだけ保てばいいのかと、破る型すら持たない人間は「型」というプレッシャーとどう与するかと、ものすごい緊張感でハイレベルな肉体言語の応酬があって、能楽堂という舞台の伝統が生み続ける静謐と、それを突き破る際のところからほとばしる激しさの中、三人という不安定なバランスが生み続けるものこそが「幽玄」だったのだと思う。

以前、プリセツカヤがどこかの能楽堂か神社の境内?で踊っていたのをTVで少しだけ見て,面白そうだったのに用事があって本当さわりのベジャール振付「アヴェ・マイヤ」しか見られなかったことを思い出していたのだけど、その時のお相手の一人が梅若玄祥さんだったんですね。あと「ボレロ」って能楽に通じるものあるなと思ったら、その時の演目にあったんですね。なんかすんません疎くて遅くて、と頭を垂れてます。

能楽堂とそこをホームとする人々は新しい血を吸って明らかに違う輝きを放ち出したし、違う文法を持ったダンサーはそこにある伝統と正面からぶつかって自分の経験値をめきめきあげていってたし、その経過を目で見て追っていく時間は自分もどこかにひきずられていきそうになりました。というか、ひきずられていってたんだと思います。

その翌日、DOIのテレビ放送見たら「ああここは私のホームだ」と思ってしまった。五輪終って一段落ついたし、フィギュアスケートはしばらくいいかな、と思ってたらそういうことじゃなかったみたい。放送見てすっかりホームシックにかかってしまった。チケットとれなさすぎにも程があるし他にも観たいものいっぱいあるし、と思ってたのに。自分でそれをできる肉体を持っているという意味じゃないんだけど、フィギュアスケートは私の血肉の一部になってることに気付いてしまって、泣けた。
そして、フィギュアスケーターというのは踊りの型を持たない人種だから、それこそ森山開次のように貪欲に色んなジャンルとぶつかって吸収していってほしいなあとひたすら思った。

円熟期に入った高橋・安藤なんかにはその気概を感じたし、村上佳菜子ちゃんは心配していた方向には全く行かずにきちんと成長していて、それも大化けしていて、不安要素はあるけれど、今はこう行くんだ、というチームのまとまりが見えて、それに関して私みたいな外野が口出すようなことでもないな、きちんとわかってる人達が育ててるんだから、と理解しました。

でも、放送では浅田真央の『バラード一番』から伺える覚悟が一番印象に残りました。精神的にふわふわしたところ、ふらふら抜け出してさまよってすらいたところが消えて、腹を据えて「幽玄」を表現できるようになったんだなあと。
ちょっと前まで彼女の目の焦点はどこにも合っていなかった。焦点が合いそうになっても必死に合わせないようにしていた。だって、彼女にとって何かに焦点を合わせて世界がはっきり見えてしまうことは苦痛でしかなかったからだ。それを個性として捉えられて作り上げられたのが「真央ちゃん」像だったと思うのだけど、それは結局「逃げ」だったんだ、ときっと彼女は気付いたんです、五輪で。あの日を境に目が変わった。一点を見据える目になった。私は彼女が焦点を合わせなかったことを「逃げ」だったのかどうなのか、今でも判断はできないんだけど、彼女自身が「逃げ」だと思ってしまった。そのことを一番悔しいと思ったのがあの日の涙であったし、揺るぎない「真央ちゃん」像が瓦解した日でもある気がします。
他人の目を意識して自分の目も意識して、逃げたくないと格闘する「真央ちゃん」じゃなくなった浅田真央が好きだ。逃げたくない、と、ジャンプ矯正に本気で取り組んで、何シーズン棒に振ってもソチまでには絶対完成させてやる、と覚悟しきった浅田真央がとても好きだ。浅田真央の滑りを見ていて不安を感じることは多分もうないだろう。スケーティング技術はしっかりしているのにどこか脆くて氷に足がついていない感覚、それを「ふわふわマオマオ」と表現した人はうまいとは思うのだけど、あの「ふわふわ」が時たま暴走して彼女自身がコントロールできなくなる様子を見ていて無性に心の不安を掻き立てられることがあったりもした。でも多分、もうそういうことはないだろうな、と今は安心しています。


あと、すごくどうでもいいけど、バンクーバーオリンピックの観戦チケット(男子SP,FS・アイスダンスCD,OD,FD・女子SP,FS・エキシビション)をブローカーやらダフ屋やら使わずに全部正規ルートほぼ正規値段で手に入れた私は褒められてもいいと思う。女子フリーだけ五輪公式のオークション使ったから正規と言いきっていいのかどうかはちょっと迷うけど、一応全部IOCとかJOCとかVANOC(あとUSOCも)に手数料入る形にはなっているから、まあ正規でいいんじゃないかな。その節は海外在住の友人知人親戚と海外在住の友人知人をもつ友人知人に大変お世話になりすぎました。金がないなら知恵と勇気を振り絞れ、というスタンスを自分に徹底できたことは大きな財産になりました。
フィギュアスケートチケット青天井で暴騰中の昨今ですが、目の色を変えてチケット争奪戦に参加したくはないと思うし、利ざやを得る事に夢中で懐は潤っても心が貧しい人間にはなりたくないとも思ってます。なんかもっときちんとフィギュアスケートを大事にしたい。チケットを高値で売りさばくとフィギュアスケートを愛する心が粗末になるっぽいから自分でそれをするのもその行為に加担するのも嫌だ。

*1:そういう役だったのではなくて、そういう肉体を持つという意味でのトリックスター