真珠と百合

今更だけど、去年から(だよね?)田崎真珠NHK杯のスポンサー降りたのはご時世とはいえ寂しいなあ、TASAKIの白鳥マークの前でスピンしてる選手見るの大好きだった。なんかあって今度真珠買う時は田崎さんで買ってみようかと思う。真珠好き。でもなんかってなんだ、結婚とか?いやむしろ葬式とか?真珠って6月の誕生石だっけか。私、月星座双子座11度とかそんなんだから縁があるっちゃあるか。田崎さん、あのマークなんかフィギュアスケートのスポンサーとしてこれ以上ない素敵な企業だと思ってたんだけどなあ。お前、その髪どうやってもまとまらないんだったら、いっそハーフアップで結べばいいんじゃねえの?でもサイド刈り込んでるから変になっちゃうの?など思うくらいにはそう反芻している。

「てっぱん」と「龍馬伝」はなんとなく見てます。「てっぱん」最初の回でトランペットを海に投げるって行為が平家物語における三種の神器のエピソードみたいで、あーそもそもここ平家物語とかに出てくるあたりだっけか、という、かつての文学少女視点と、海に投げても平気ってさすが金管、ラッパ吹きはまあこんな性格だよな、と色々な設定へ突っ込む気も起きないくらい全てをラッパ吹きで片付けられる、というか諦めざるを得ないかつての木管少女視点から見てたら録画消化が習慣になってた。これ、ただの海空花子モノに見えるけど、結構な野心作。兄貴が高校留年してるとか最初から飲み込みにくい設定いれてきてると思ったら、同じ下宿の人々の一人に知的障害者を何のてらいもなく配置。90年代に松尾スズキ在日コリアンや障害者がとくにそのことで意味をなさない隣人として登場するテレビドラマは作れない、みたいなこと書いてた気がするんだけど、今、NHKの朝ドラでこれが成立してるんだよね。キャスティング見てても、在日コリアンだろうなあと思える名前の人とか、何の壁もなく入ってるし。他のことでは窮屈になっていく一方のテレビだけど、この分野(旧来型差別の解放)が広がってることは評価しときたい。「ゲゲゲの女房」に、(だってその人物のことを日本人の大多数が知っているから)誰も文句をつけられないような身体障害者を主人公の旦那として登場させた勢いを借りたんだとしても、フィクションで知的障害者を朝ドラに出して、とくにしみったれすぎず、そこに注目しすぎないような作りになってる。ノンフィクション過剰の今、私はフィクションの力を信じたいのでそれが嬉しい。警察だの検察だののもろもろで現実のストーリーに勝手にフィクションを混ぜてそれを事実だと思い込ませて行く勢力の実態というのが明らかになってってますが、あれをやらせないためには、フィクションとはどういうものか、そのポテンシャルををきちんとみせつけないといけないとならないと思っているので嬉しい。安易に「普通に考えたらあり得ない設定だけど実際にあった話だから」というだけで企画が通る(かわり、フィクションが流通しにくくなっている)ことはノンフィクションに関わる人にもフィクションに関わる人にも不幸だ。そんなの当たり前で、諺として「事実は小説より奇なり」がなぜ成立するかというと、小説のような類の嘘をつく時は、いかにも事実っぽい顔をした嘘をつかないと誰もその嘘にのってくれない、だから小説は事実よりも事実らしい顔をしている『常識的な話』なのだ、という背景があるからじゃないか。かつてラッパ吹きだった人に「私のここ数年の人生ネタにして小説が書けるくらい波瀾万丈だった」みたいなこと言われた時に、カチーンって、イラーって「あなたと一緒にやってた部活があった田舎から大学受かって上京して小説のことはちょっとは専門的に勉強してきたけどさ、波瀾万丈であろうと平坦であろうと誰のどんな人生ネタにしたって必ずひとつの小説は書けるんだよ!小説を書ける題材と小説を書ける資質は違うの!小説ってのはあったことをただ書くんじゃなくて『文体』がなきゃダメなの!『文体』を作り上げる苦労わかる?ねえ、毎日何時間も楽器鳴らして練習して鍛錬して『音楽』を作り上げる苦労バカにされたら腹が立つでしょう、あんた私にそれと同じことしてんだよ!そもそも波瀾万丈だから小説になるなんて短絡的に考えるのはやめてほしい」というような内容のことを言いたかったけど言えなかったことをすごくひきずっていて、とにかく今思うとフィクションの過小評価が悔しくて、どうやっても資質的に自分がフィクションの分野に生きることしかできないことも相まって悔しくて、その相手が先輩だったから萎縮していたことも更に悔しさに拍車をかけて、多分5、6年は経ってるんだけど未だにあの時のこと思うと泣きたくなる。長年の抑圧教育の成果で声を出して叫べなかったことが一番悔しい。私はその場でリアルな声を出すのがとても苦手だ。

龍馬伝」は蒼井優の着物を今後の参考にするためと(田崎真珠での買い物並に漠然とした今後)、そのあたりだけ録画してたんだけど、最終回ワンカット挿入とかなければ多分最後の出演であろう回を見終わって結局この大河ドラマにおいて「お元とは何だったのか」という疑問が拭えない。私、他をカットして蒼井優出演シーンだけを保存してたんだけど、坂本龍馬のお話としては最初から最後までこの芸者いなくても成立してんのな、というより、全く別のお話がそこだけ見ると浮き上がって流れて成立してて驚く。本編やってるのに、その中に平然と外伝が挟まってるみたい。なので長崎の隠れキリシタン芸者主人公話として見てみたら、最終回、百合がうまく配置されてるんですね。マリアさまの象徴、百合の花。百合の花をこうやって見せるんだから、きっとあの子は国教会のイギリスじゃなくてカトリック信仰もできるだろう上海租界あたりに行くんだろうね、と思っていたら。
http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/topics/27_interview/index.html
え、マジでイギリス行く設定になってんの!?バカじゃないの!?キリスト教なめんな…イギリスいってもマリアさまを信仰するのは難しいよ…フランスとは言わないまでも、せめてアイルランドとかにしといて…なんだろうこのざっくりとしたキリスト教の捉え方に敗北感が…

http://www9.nhk.or.jp/ryomaden/kikou/index.html
この龍馬伝紀行第44回「隠れキリシタンゆかりの地」で、なんでお元エピソード気にしてたのか、全てが明らかになったんですけど、私、ここいってるんですわ。高校の修学旅行で、大浦天主堂いってミサ受けて、グラバー邸見て、三浦環プッチーニの像見て、で、その頃、遠藤周作の「沈黙」読んでて、小沢健二の「天使たちのシーン」の『神様を信じる強さを僕に』ってどういうことだ、と考えながら、バスの窓から見た長崎の海の景色が「沈黙の世界だ!」って興奮したりしてて、修学旅行前の宗教の授業とかで長崎の隠れキリシタンの歴史みたいなのもやったりして、学校の茶道室の掛け軸が水墨画のマリアさまでめっちゃ隠れキリシタン感出てて恐ろしくて、何が恐ろしいのかわからないくらい怖がってたのを思い出して、その17歳のあたりから引きずっている疑問にそろそろ答えを見つけたかったんだと気付いたんです。

沈黙 (新潮文庫)

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犬は吠えるがキャラバンは進む

犬は吠えるがキャラバンは進む

答えのとっかかりとなるものは見つけた。が、どういっていいのか。「抑圧と依存は同根である」そのことをやっぱりここの信仰問題でも感じたのだけど、とりあえず、「神様を信じる強さ」は、「特定の宗教組織に所属することで得られる強さ」ではないとは分かった。決して無神論者ではなく、神様は信じるけど、宗教組織に所属しないで神様を信じ続けることが、多くの日本人の態度だな、とも。

大浦天主堂公認ページの素朴さにも驚いた。
http://www1.bbiq.jp/oourahp/
つうかここ国宝だったのか。いつ国宝になったのかと思ったら1953年て。私がいったの1990年代だから余裕で国宝だったんじゃんか。

そんで、修学旅行で入った時に、今回は特別に皆さんのためにミサを行います、とかなんとか偉い人が言ってて、「またカトリックの恩着せがましいフカシが始まったよ」と思ってたら、本当に普段ミサやってない場所だったみたい。
http://all-a.net/a_map/jp_nagasaki/oura.html
国宝でのミサってありがたいものだよねなんかすんません。今思えば付き添いの修道女達のテンションは心なしかあがってたような気もします。修学旅行前の授業での説明も確かに気合い入ってました。こっちが引くくらいには。

カトリックの学校で活躍する部活だったりコースだったりすると、カトリック信者の家の子じゃなくても数集めでちょっとしたイベントにやたらかり出されてはどっかの宗教施設とか連れてかれて、そういう場所ですぐ「特別なミサ」をやられてたんでそういうもんだと思ってたけど、あれ、やっぱ特別だったんだねほんとなんかすんませんでした。高校時代のことを振り返ると、どうも濃厚過ぎて記憶が飛んでたりもするんだけど、やっぱりおかしな環境だったんだろうなあ、と痛感する。だってマリみてとか普通にああいうのあったあった懐かしいなあ、って見るもんじゃないんでしょ?明らかにあれうちの学校法人モデルだけど、普通はそういうのないんでしょ?普通は敷地内にある修道院から出勤する修道女とか見ないんだよね?つくづくあそこは変なとこだったみたい。どうも私が思っているより他人から見ると変なところだったみたい。自分の中高時代の認知の歪みがひどすぎて、前に進むために今ちょっとそのあたりを本格的に整理しはじめながら呆然としてたりもする。