「神話的肉体」の盛り上がり方・落ちぶれ方

2月26日の土曜日、サルヴァ・サンチス(サンチェス?アルファベット表記はsalva sanchis)というローザスでも踊ってるらしいダンサーとジョージア・ヴァルダルーという女性ダンサー、あと小森邦彦さんというマリンバ奏者のコラボレーション演目を観に行ってきました。
事前知識全くなくて、ただ吉祥寺シアターローザスの人が踊るらしいというチラシを見て、なんとなく興味を持ってチケット取って行ったらインプロヴィゼーションだったみたいです。

私には、乙女座の物語であるハデスとペルセポネーとか、レダと白鳥(ゼウス)とか、そういった世界観が見えました。冗長に語らずともそういう神話世界を見せて鳴らせる肉体はいいですね。サンチスさんの肉体はそういう豊穣な肉体。引き出しが豊富だからどんな肉体にも合わせられる肉体。途中の或るポーズが、何かの美術作品で見たことあるこういうの、とひっかかっていたのですが、それは帰宅してからクリムトの「接吻」だったと思い至りました。
マリオネット使いのようなマリンバのマレット捌き、そこから放たれるアリアドネの糸により導かれ踊らされていく血の通った肉体。あの舞台にいた3人の絡み合った血管が波打ち沸き立ちほぐれていく様子は濃密で面白かったです。

マリンバを叩く姿がマリオネット使いみたいだなと思った時、そういえばマリンバってマレット4本持って演奏するんだったなあと改めて認識したんだけど、女性ソロだったらちょっと細く儚げだけど一本芯が通って届く音が出るようなもの、デュエットだと音が広がって包容力を出せるもの、男性ソロだと硬質な響きを出せるもの、というように曲と登場ダンサーによってマレットをどんどん変えると音色がきちんと次々変わっていくのが面白かった。
女性ダンサーは出自が明らかにクラシックバレエと分かる肉体と舞踊言語を持っていたので、そのマレットしかないだろうし、どの分野がネイティヴ言語なのかわからないような男性ダンサーには大地から沸き上がってくるような音が必要だったからあのマレットだったろう。楽器を変えずともバチを変えるだけでこれだけ音を変えられるマリンバという楽器に興味を持ちました。

マリンビストの方のオフィシャルブログにこの公演の写真なんかあったので、雰囲気だけでも是非。
http://blog.livedoor.jp/komori_marimba/archives/51758453.html

クラシックバレエの言語ってその枠内では完成され尽くして綺麗に納まるのだろうけど、少しでもその枠から外れてしまうと通用しない言語なんですね。コンテンポラリーダンスの現場だと丸見えになりますね。バレエっぽいものを違うジャンル(例えばフィギュアスケート)の中に取り入れるとすぐバレエ愛好家はバカにするけど、バレエという枠の窮屈さはバレエ界にとって有益ではないんじゃないかなあ、とも思います。

私はフィギュアスケート好きで出自の一つが吹奏楽なので、クラシックバレエクラシック音楽と呼ばれるものに対しては下から目線が身に付いてしまっているのですけれども、かといってその下から目線に対してコンプレックスを強く感じているかと問われればそうでもないなあ、と、クラシックバレエの不自由さを目の当たりにするとわかった。

この前友達が、クラシックバレエの技術はすごいと思うしローザンヌのコンクールとかガラとかの一部をとりあげて踊っているのは楽しく見れるんだけど全幕は飽きて見られない、という話をしていて、それはもう私もほんとそういう人間でよくわかる感覚なんだけど、結局それはあの様式美にうっとりできるかどうか、って感性の問題に尽きるのかな。クラシックバレエチャイコフスキーが鳴っちゃうような全幕物って解釈が広がらないから技術を楽しむしかないんだろうけど、そもそもチャイコフスキー(笑)とかになってしまうと、前提条件に乗ることができてないので楽しむのは無理なのかね。バレエダンサーにとってはとても踊りやすく構成されているんだと思うよ、あの楽譜。でも演奏者としてはあの曲どうよ、ストーリーこれはどうよ、っていう意識がでちゃうとダメなのかな。
ベジャールの題材翻案のベタさ・いなたさが大好きだけどあれが耐えられるギリギリっていう所にいる私(フランス印象派とかアール・ヌーヴォー大好き)と、落語なんかだと本で読んでいる方が面白いから全く聞けないと言ってる友達(ドイツ表現主義大好き)は、同じ場所からそれを見ているわけじゃないんだけど、お互い対岸からだいたい同じタイミングでメインストリームに舌打ちしつつ石や火炎瓶投げ込むような人間で、そのブッ込む時のフォームが似ているから友達なんだろうなあとは思います。自由に解釈させないという点がそのお話の出来がどうこうより気に喰わないんじゃないか、私ら。そういうの押しつける権威ムカつくよな、つう。権威もムカつくけどそれによりかかる大衆もムカつかね?つう。

その友達の家で、可愛いと言われたら可愛いようなそうでもないと言われたらそうでもないような典型的なサブカル美人扱い3人組のDVD見せられて、なんだか非常に不憫な気持ちになった。
具体的に発した単語はピンサロとかチンコとか中折れとか弱々しい精子とかそれくらいしか覚えてないしどのシーンで言ったかも覚えてないんだけど「どこにもいけない・落ちつかない」という不安定な立ち位置がもたらす魅力はあっという間に短所に転げ落ちていくんだなあと、でも普通落ちぶれていくなら落ちぶれていくなりに物語がついてくるはずなのに、この子達は物語として語ることすら何もない、全く着地するところがない、「どこにもいけない」ことの末路を残酷に記録されちゃってただただ可哀想だなあというだけのものでした。
でもさ、例えば、摂食障害過食嘔吐が止まらなくて一見スタイルよくは見えるんだけど実は全部脂肪でうまく動きが定まらない、みたいな肉体と心を持っている人のパフォーマンスを2時間見るのって苦痛だと思うんだけど、そこの空間にいる大衆はその明らかに疲弊している肉体に気付かないのか疲弊していることを見ないことにしているのか、そのパフォーマンスに昂揚してめいめいのやっすい物語を託しちゃってるのね。託してもその肉体はその物語を受ける強靭さはもはや備えていないから受け取ることはできないしそもそもその物語を送る方の気持ちも弱々しいのでパフォーマーに届いていない。パフォーマーの発信力も弱いしオーディエンスの発信力も弱いから一人一人の勝手な物語が迷走して膨大なディスコミュニケーションだけが会場中にこだましている。もはや何の意味も為さないものを祭り上げている滑稽さにはこの場合、笑える要素も全く無くて、一つのムーヴメントの旬が終って野次馬は去り、シリアスにその状況を捉える者は失意のまま居場所をなくし、それでもなおかつ諦めきれない頭の弱い残党によるセクト・カルト化が始まる瞬間っていつもこうなのかな、と今まで幾度となく繰り返されただろうブームの終焉について思いを馳せた。

私の抱えている現場問題はディテールは違うんだけど、だいたい同じ状況にあるのでじきに合同反省会が始まりました。
「私達の何がいけなかったのかな」という呟きを他人から聞いた時に今まで一人で何百回と自問自答していたそれとちょっと違うフィーリングがあって、その場ではまだうまく言葉にできなかったんだけど、今やっと言えるのは、私達は私達の戦いでただ「負けた」ってことなんだと思います。負けたことを「いけないこと」と思うかどうかは個人の問題だからどうこう言えない。ただ、私達はそれぞれの戦いで負けたんだけど、この戦いにおいては、傷ついて弱って腐った肉体が風化して白骨化して土に戻るまでの過程をつぶさに看取り続ける義務はないだろう。自分だけにわかる墓標を立てたらそっとその場を去って、次のステージに辿り着いて、そこでまた一生懸命暴走しながらたまに墓標に手を合わせたり「負ける」とはどういうことか考えたり、新たに亡命してくる仲間のための受け入れ場所を作って保っていればいいだけのことに思う(それは私達がいつものように暴走していたら自然とできることであろう)。これがこの数年の闘争に対する私なりの総括です。