もっと高くもっと深く

marginalism2012-12-31

12/25のクリスマス当日、横浜までNoismダブルビル公演『solo for 2』『中国の不思議な役人』を観に行きました。
http://www.noism.jp/news/2012/12/noism1nois-2solo-for-2.html
『solo for 2』は徹底的に身体を、『中国の不思議な役人』は徹底的に音楽を感じさせる演目でした。そして、井関佐和子の存在感についてそれぞれ別の意味で考えさせられる演目でした。

『solo for 2』は、舞台に乗っているダンサーの技量というより心の持ち方の有り様にムラがあったように思います。全員肉体はよく動いてる、だが、その心にどこか甘いものがあるために他のダンサーとのテンションの違いが露骨に浮き出る人もいる、という怖さがありました。同じ空間にいるだけで張り裂けそうな雰囲気を身にまとっている井関佐和子がずっとそこに座っていなければどこかで破綻していたような事故寸前の綱渡りの感覚にちょっとこの人の孤独を思いました。
配偶者がダンスカンパニー主宰者で芸術監督であるということ、それはちょっとした甘えやミスが決して許されず、少しでも隙を見せるとその点を攻撃されて配偶者に迷惑がかかってしまうということ。その緊張感を常にもってこの人はレッスンをし、舞台に立ち、肉体を躍動させて、下衆の勘ぐりをはねのけているんですよね。そういった彼女の姿勢の意味を近いからこそよくわかっていない団員もいるし、わかっていても自分がわかっているだけで舞台の上に立つ全員に理解を共有させていないからこういうことになる、それぞれの力量はともかくカンパニーとしてのまとまりの脆さを少し感じるところがありました。
舞台上からこの甘えが消えた時にNoismはもっと化ける。井関佐和子が座り続けていなくても『solo for 2』が成立するようになった時に、新潟だけではなく日本だけではなく世界のものになる、だからこそ歯痒い。厳しい鍛錬を積んでも積んでも怒られる、そんなレッスン風景は容易に目に浮かびますが、そこに必死に食らいついて井関佐和子にも金森穣にも食ってかかるような威勢のいい若者がここのカンパニーの中で暴れてかき回してくれたらいいのに、と思いました。どうもそういった気配はなさそうなんですよね。陰口とか愚痴を言うくらいなら本人達にぶつかっていけ、と思うこともありました。
完全部外者のただの観客のお前に何がわかる、と言いたくなることもあるでしょうが、それぞれの『solo』ですからその人間の全てが露になります。そして私が舞台上でのその人間から感じ取ったものに関しては、その舞台に立った人間は一切の言い訳はできなくなります。普段言い訳をしている人はそれがそのまま、普段あまりにもストイックに生きている人はそれがそのまま出てしまう、『solo for 2』はそんな残酷な演目です。

先日、仕事のミーティングで新潟から来ていた人とお会いした時にNoismのことを少し訊ねたら「ああ!あそこはいいですよ!すごい踊りをしているのに地元のちょっとしたイベントとかにもよく出てくれててねえ。サッカーのハーフタイムなんかでも踊ってるんですけどいいんですよ!」などと別段ダンスなどに興味がないそうなんですが、ちょっと誇らしげに返事をしてくれたんですよね。地元の誇りなんですよ、やっぱり有名なんですか、と嬉しそうにした彼から私が逆質問にあうくらいには新潟に根付いているんだと。
こういった素朴な地元の人々とコンテンポラリーダンスカンパニーが密接な相思相愛関係を築くことにどれだけの苦労があったかも想像に難くありません。だから、そういう泥臭い作業をしながら振付や運営やダンス界全体のことを考えている人や新潟の人々に恥じない形でそこにいてほしい、そしてもっと舞台に飢えていてほしい、舞台に立てる喜びを感じてほしいと思います。それは当然のことではないのだから。舞台に立った時に彼や彼女を孤独にさせないでほしい、と切に願います。

中国の不思議な役人』の方は身体そのものではなく徹底的に音楽そのものを表現する演目なので、『solo for 2』の時に感じたようなものは一切なく、純粋に目の前にバルトークの世界観が広がっており、どうしてここまで表現できるんだ、と圧倒されました。そして、『solo for 2』の時にあれだけカンパニーとしてのムラが云々という違和感を持っていたのに、『中国の不思議な役人』ではそれを全く感じない、チームとして完璧にまとまっているということにやはり金森穣の怖さも感じました。テーマが「身体」だとあんな風にごまかしを一切効かせずにそれがどういうことかわからない奴は舞台上で恥かいてこいと素材をそのまま放り出す、テーマが「音楽」だとそれぞれのダンサーを一つのパーツとして扱うからその人と音楽が一番マッチするところを見つけて折り合いをつけてその作業を細かく細かく掘り続けて一つを二つに二つを四つにと緻密に作業して最終的には一体感を出す。 それぞれのダンサーへの譜割りも余りにも正確すぎる。この東洋人(日本人)が作り上げたバルトークは、西洋の人間が感じる「東洋」へのバイアスなしに私達は観ることができる。西洋人がこれを演出するとなんだか奇妙で不可思議な「東洋」を強調するため、どうも東洋の人間として育った者の視点からは座り心地が悪い奇をてらった演出をしがちなところがあるんだけど、金森穣振付にはそれがなかった。真っ正面からストイックにバルトークと勝負して作り上げた世界観、これはぜひ世界中持って回って見せつけてやってほしい演目でした。

そして、ああ、バルトーク演奏したかったなあ!と思いました。私がまだ楽器を演奏できた頃、休憩時間に自分のクラリネットを握りしめたままコントラバスのところに走っていって「バルトーク・ピチカートやって!」とせがんでやってもらって何度もやってもらって「弦が緩むからもう駄目!」と怒られるまでせがんでせがんでそのヴィジュアルと音の格好良さにうっとりしていたことを思い出し、バルトークの演奏と一体化したように舞台で踊れることに対して羨ましくてしょうがなくなりました。井関佐和子の肉体がクラリネットの音と溶け合っている、そのクラリネットを吹いているのはどうして私じゃないんだろう?と悲しくすらなりました。
バルトーク・ピチカートをせがんで聴かせてもらっていた女子高生は、その後すぐに手首と顎の故障で楽器が演奏できなくなってしまうので、今舞台に立てる人はその時間が有限であることを意識して大事にして人前に立つために毎日過ごしてもらいたいなと、舞台から強制退場を食らい今はただ客席から傍観者として見守る術しか持たない人間として思うのです。