Zを超えて

marginalism2013-08-17

unit-Cyanの『シアンの家』観に行きたくてとにかくいろんなこと片付けて旅に出ようかと思ってたけど間に合わなかったから、せめて公演前に後回しにしていたNoism1『ZAZA〜祈りと欲望の間に』を見て感じたことなど書きます。

私が観に行ったのは7/20の静岡SPACでの公演で、行きの高速バスが渋滞に巻き込まれてぎりぎりで会場飛び込んだため、パンフレットが売り切れていたので、何かの機会(DVDにするとか)があったら増刷してくれたらいいなという希望を持っております。私、この作品楽しく観たから記録媒体で出してもらえたら嬉しいです。

この三部構成のステージはNoismが現在過渡期にいることが良く表れているように思えました。タイトルが『ZAZA』とAからZの循環を繰り返していることは、祈りと欲望は隣り合わせであるということを示しているのと共に、アリアに始まりアリアに終わる形式を取るということを指し示しているのかなと思っていたら、最後の『A』は新たな地平を切り開くための最初の『A』でした。

1部『A・N・D・A・N・T・E』は、井関佐和子が登場しない、と喧伝されていましたが、個人的には井関佐和子の存在感が際立って感じられました。私達の知らない「素の井関佐和子」を使ったからなのかもしれません。

1部の最初、つまり作品全体の冒頭は井関佐和子の詩の朗読から始まります。ダンスの迫力からは想像がつかないプーシキンの『花』をほぼ素人の可愛らしい少女のような発声で読む井関佐和子がいる、ということは私にとってはセンセーショナルな事実でした。*1

花 (詩:プーシキン(Aleksandr Sergeyevich Pushkin)

押し花が、もはや香りを失って
私の見ている本の中に忘れられている
そして今 奇妙な夢想に
私の心は満たされるのだ

どこで咲いていたのか、いつ、どんな春に?
どれくらい長く咲いていたのか、誰に摘まれたのだろう?
見知らぬ人、それとも良く知った人の手で?
そしてこの場所にどうしてあるのだ?

甘いデートの思い出に寄せてか
それともつらい別れのためか
あるいはただの散歩の記録か
静かな野原や、森の木陰の?

そして彼は生きているのか、彼女は生きているのか
今どこに住んでいるのだろうか?
それとももう死んでしまっているのだろうか
この見知らぬ花のように?

http://homepage2.nifty.com/182494/LiederhausUmegaoka/songs/M/Medtner/S3597.htm#%89%D4

この朗読が終わり幕が上がるとそこは白い世界だった。北国育ちである私や雪国育ちであるNoismにとっては原風景になるだろうイノセントな子供の情景をピュアに凝縮した絵本をめくるような幸福を感じているうちに、いつの間にかその白さは子供以前の状態、何億もの精子の頃にまで時間が戻る。子供よりミニマルな精子の世界。一つの精子が選ばれて人工的に卵子と受精させられるような世界、選ばれなかった精子の反乱。そのテンションがギリギリになった所で唐突に白い花を持った井関佐和子が机に座って登場する。彼ら彼女らのつばぜり合いを愛おしく見つめるように。少女の母性を携えた穏やかな井関佐和子が全てを受け入れ終わる。井関佐和子がダンスに参加しないことによって、井関佐和子の内部を具現化するような、綺麗に閉じた物語になっていた。

それに対して2部『囚われの女王』での井関佐和子は私達が知っている「ダンサーの井関佐和子」だ。
ただ、4人を演じ分けている、というのは分かったのだけど、この日足首あたりのコンディションが悪かったのかどうか、剛の表現はなんとかごまかせても柔の表現で本来の井関佐和子ならもっと客席に伸びてくるであろう手足がちょっと縮こまっていたような気がした。
2部の最初にスクリーンに投影された話では、番人がいて、女王がいて、女王の歌を聴く若い男の村人がいて、その若い男の話に触発されて立ち上がった英雄がいて、というような筋立てだったような記憶がうっすらとありますし、最後の英雄なんかはシベリウスの代表曲フィンランディアにおけるスオミの魂の解放宣言みたいなものも聴こえてくるダンスではあったんですけど、4人って単純に割り振ると第4楽章で終わるダンスをやるよ、ってことで、最初と最後はともかく緩徐楽章にあたる女王のダンスとそれに聞き入る男のダンスがぎこちなかったかなあと。もっと心を撫で上げるような伸びやかさを持つダンサーだったような気がするんだけど。でもそれが、この日メカニカルにどこかを痛めているからという理由からきているのか、メンタルの問題なのか、それとも心身共に脂の乗り切った円熟期のダンサーではなく、いわゆる「大人のダンサー」へと変貌したからなのかは私には判断しかねる。
どうも踏ん張りがきいてないように見えたんですよね。ただ、私の目は長年見てきた安藤美姫の、後に出産2ヶ月後と判明した滑りを「またメンタルの問題か」と片付けるくらいの節穴なので信用できないんだけど、1部が終わって2部までの休憩時間はずっと客席に座ってMacBookAirをいじり倒していた金森穣が2部終わるや否やどこかへすっ飛んでいったので、多分何かはあったんだろうと思う。*2

そんな金森穣が客席に戻ってきてからの3部『ZAZA』では井関佐和子は持ち直していたように見えたので楽屋裏の事情に首をつっこむつもりはないけども、幕間で修正してくる能力にちょっと驚きました。
『ZAZA』は身もふたもない表現をするとベジャールネイティヴのメソッドで仕込まれた肉体言語を持つダンサーがピナ・バウシュの話法を使って踊っていて楽しかったです。終盤の方の群舞で、ピナのハルサイをベジャール言語で踊るとこうなるのか、っていう部分があって、そこものすごく興奮した。あれは振付家の「やりたいこと」だったのでしょうか。 それとも単につなぎとしてああいうの入れたのかな*3
以前、東京バレエ団の中で踊る小林十市を観た時に、一人だけ違う舞踊言語を身にまとっているために群舞で完全に浮いていて、バレエダンサーとベジャールダンサーは違うんだと思ったことが印象に残っていたんだけれども、Noismは舞踊言語としてはベジャール言語がベースにあって、かつあらゆるものを吸収してクレオール化していく過程を現在進行形で体験していけるのが楽しい。ダンサーからアンケートをとって各々のやりたいことを振付家がなんとかまとめあげました、で終わるのではなく、ここから始まるんだなと感じてドキドキした。
井関佐和子はNoismの集団の中に良い意味で収まっていた。他の団員が井関佐和子に依存しなくなっていた。One of themになっている井関佐和子は肩の荷が下りて楽しそうだった。これどう収拾つけるのかなと気にしていたら、収拾つける気全くなくて、おもちゃ箱ひっくり返したまま終わるってドビュッシーの「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」のラストみたいで好きです。
リンゴの唄の歌唱とか谷川俊太郎の「これが私の優しさです」朗読とかはなぜその歌・その詩を選んだのかっていうのも知りたかったけど、そういうのは単純に私が音楽や言葉の人間だからで、ダンスの進行としてはそれほど重要なところではなかったと思います。
3部では何よりも、1部の最後で井関佐和子が持っていた白い一本の花が特別なものではなく多数の中に埋もれる一本として足蹴にされていたところに暴力性や欲望を感じました。「お前の大切なものはみんなの大切なものではない」ってことですよね。これは委託された暴力や欲望ではなく振付家本人の仕掛けた暴力や欲望だったと思うんです。その花が井関佐和子の象徴だとしたら特別なダンサーではなく、他のダンサーと平等に扱うという宣言。
リスペクトする他者からのリクエストと自己の内面からのリクエストの扱い方に温度差があるのは金森穣にとっては初めての試みだろうからしょうがないと思うので、むしろこの手法にチャレンジした勇気を称賛していきたいと思う。ピナ・バウシュに傷つけられてきた人間としてはもっとこっちを抉りにきてほしいなと、それくらいには耐えられるからもっとこいよと、ダンサーと振付家のディスカッションでもっと深くコミットしてそこから生まれたものを暴力的に表現してもいいというかむしろそれ観たいって準備してます。

一旦ぐちゃぐちゃにしてその混沌から何かが生まれてくるであろう胎動は感じました。でもまだケミストリーは発生しきっていない。お互いおどおど探り合いながらやっている。中学生の初めてのデートのような初々しさで。Noismという集団でそういう感覚を味わえたのが面白かった。金森穣のNoismじゃなくてNoismの金森穣になろうとしているんだなという、ダンサーは自分の手足ではなくて個々の意志を持った人間の集団だと扱い始めていて、それはNoismの有り様を根本から変えるようなことのように思えて、その成熟過程を見守っていくことは大変にスリリングなことで、まだ全然遅れてきていない、これからが本番だからできるだけ多くの人に見逃してほしくないなとも思いました。

会場でパンフレット売ってなかったから金森穣インタビューが載ってる本だけ買って帰ったんだけど、これべらぼうに面白かったので、また別の機会に何か書きたいです。*4

フィギュアスケートに関してとクラシック音楽畑での話が色々深く語りたいところある。
「滑る」という動作に新しい地平を金森穣なら引き出せると私ずっと思ってたから!フィギュアスケートの最大の特徴について取り組んでほしいことがある!そんなことを思いきり伝えたい!

参考音源・文献など
第1部『A・N・D・A・N・T・E』〈時の間〉
バッハ ヴァイオリン協奏曲 第1番イ短調BWV1401第2楽章 Andante
(とりあえずメニューイン演奏を)

http://www.youtube.com/watch?v=5N9hJGHAy5k

バッハ:VN協奏曲第1番

バッハ:VN協奏曲第1番

第2部『囚われの女王』〈性の間〉
シベリウス バラッド「囚われの女王」 混声又は男声合唱管弦楽

http://www.youtube.com/watch?v=nil-0Yr1hRc
(↓カンタータ「放たれた女王」という名称でナクソスからCD出てるみたいです)
http://ml.naxos.jp/opus/159220

第3部『ZAZA』〈欲の間〉
THE THE: MOONBUG - Soundtrack Album

http://www.youtube.com/watch?v=8M5xTPsA2ro

Moonbug

Moonbug

The The (Matt Johnson) - The Lust for Unsung Dreams

http://www.youtube.com/watch?v=J_O5QESqCaU

Tony

Tony

THE THE 公式サイト
http://www.thethe.com/

これが私の優しさです 谷川俊太郎詩集

これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)

これが私の優しさです―谷川俊太郎詩集 (集英社文庫)

リンゴの唄はこれちょっとインパクト強かった
進駐軍が歌うリンゴの唄

http://www.youtube.com/watch?v=iB8BLQTfSw4

おまけ。
グラドゥス・アド・パルナッスム博士、ドビュッシー自演があった。

http://www.youtube.com/watch?v=DykqRmxu6rc
最後のふてくされた子供が練習投げ出すって描写、とてもよくわかります。

*1:アフタートークで朗読の主が井関佐和子であることとプーシキンの『花』という詩であるということを金森穣が語っていた

*2:すっ飛んで走ってゆくフォームが美しくて、足首が引き締まってて、この人現役のダンサーなんだなと思ったので、unit-Cyanが観に行けなくて大変に残念だ

*3:アフタートークの質問で聞きたかったけどこの日は質疑応答がなかった

*4:ただこの本、クラシック音楽部分は気になるようなところなかったんだけど、フィギュアスケートのくだりはちょっと私に校閲させて、と無駄に職業病が騒ぎました