SO WHAT?

marginalism2015-01-31


 雨上がりの急激に気温が上がり風が強くなった金曜日、今年も私と花粉症との戦いの幕が切って落とされ、その翌日に花粉症あともう少し発症遅れたらよかったのに…と思いつつ、KAATまで足を運びました。いつも日本大通りで降りてたんだけど、乗り間違えて元町・中華街駅まで連れてかれたら、目の前が本当に中華街で驚いた。こんなに近かったんだ。しかもこっちから歩いた方がわかりやすい。そして劇場併設のNHK横浜放送局で全豪テニスの錦織戦のPVをやっていて、ちょっとしたマレーマウントというかニシコリヒルができててそれにも驚いた。

 Noism1新作『ASU~不可視への献身』これを1/24に観に行きました。
http://www.noism.jp/news/2014/12/noism1-17.html
http://www.kaat.jp/d/asu

 まず先に伝えておきたいのですが、ダンサー達に関しては申し分なかったです。演出振付家の意図に献身的に尽くすことに徹していましたし、『PLAY 2 PLAY』あたりまで感じていた女性群舞の弱さが克服されていたように思えました。
 『PLAY 2 PLAY』の時あたりまでNoismって群舞のタイミングがちょっと合ってなくて、男性群舞はそれでも勢いでごまかせるところがあるからいいんだけど、女性群舞って男性みたいなダイナミックさやパワーがないからその分余計しっかりと合わせて繊細さを打ち出さないと見劣りするから気になってたんです。ここの女性陣ってあんまり自己主張強くない印象も受けてたんですが、『カルメン』で一気に存在感や強さを見せつけてくれて、あの演目はちょっとくらいずれてても気迫で押し切れるものだったので、群舞がどうとか細かいところを忘れてしまっててた。それで今回の『ASU』では『カルメン』で培った強さを活かしつつ、真下恵がバレエミストレスに就任したからか、細かいところまで目配りができるようになっていて、そこはとても良かった。

 ですが、作品全体としては演出脚本家の傲慢さが鼻についた、この一言に尽きます。

 第1部:Training Pieceに関してはライヒの『ドラミング』が『ドラミング』である必要がなかった。私が生で体験したコリン・カリーグループ演奏の『ドラミング』はプリミティヴでありながら洗練した動きの連続で、聴覚だけではなく視覚的にも圧倒されるものでした。ライヒの曲を演奏する人々、とりわけパーカッショニストって舞うんです。あの楽譜に落とし込まれているものを再現しようとすると舞わざるを得ないんです。舞おうとして舞っているわけではないんです、演奏すると結果的にそうなってしまうんです。踊らされてしまうんです。それは全く無駄がない徹底した機能美です。そういった演奏家の機能美に対して、舞い踊ることを本業としているダンスカンパニーがどう立ち向かうのかを楽しみにしていました。
 結果としては、その土俵にすら上がってくれなかったものが出てきました。音源が去勢され、あの曲に込められたダイナミズムや生々しさや熱量が全て削ぎ落とされて、凡庸なカウントを取るだけの時報メトロノームと変更しても差し支えのないただのキュー出しの記号へと陳腐化されていた。最初はこういうのローザスで見た、別にNoismがやる必要ないよね?と思ってたんだけど、もはやローザスと比較するのが申し訳ないほど曲に対してのリスペクトが欠けたものになっていた。そんなにダンスって偉い?何のために音楽使ってるの?ライヒの名曲を陵辱してその上にどっかり胡座かいてる表現をこちらが平伏してありがたがるようなものがNoismメソッドとかNoismバレエなの?池田亮司の音楽に変わったパートでも、こういうのカニングハムとかフォーサイスとかそれこそベジャールとかで見たことあるけど、それで?としか言いようがないものでした。
 何がしたかったのかわからない。Noismならではの新しさがどこにも見当たらなかった。いつもだったらなにがしかのNoismでそれをやる必然性をどこかで感じることができたんだけど、そういうものが何一つなかった。『ZAZA』の時に感じたここから何が生まれるんだろう、という未分化なエネルギーを整理してみたら、20世紀のダンスコンテクストをまとめてみたよ、っていうどうでもいいお行儀よさしか残ってないようなお粗末さ。Noismらしさってそこに何も入ってなかったです。メソッドを公開したからといってそれが「らしさ」にはならない。「お前らこんなんできねえだろ」って傲慢さは伝わってきましたけど、そこで言う「お前ら」って日本のコンテンポラリーダンス界なんだよね。確かに他の公演なんかに行って唖然とすることはあったし、金森穣の焦燥や怒りもわかるんだけど、「お前ら」が上から目線で押し付けられたものを素直に受け取れる集団だと思います?かといってこれを世界に打ち出すとなると「知ってる。だから何?」で終わっちゃう。近視眼的に日本の現状に囚われないで、世界のトップ取るつもりで作るとこうはならなかったはずで、意識する場所を間違えたとしか思えない。

 第2部:ASUの方も、20世紀のコンテクストに沿って作ってみたよ、という既視感しかない代物でした。消防法大丈夫かしら?とかいうような演出は入れてたけど、テーマを知った時に、これ『春の祭典』からどれだけ離れることできるんだろう、と思ってたら、別に音楽をハルサイに差し替えても構わないようなことになってた。喉歌の音にハルサイの最初のファゴットソロって似てるなって公演中に思ったんだけど、それに気付いたら、もう『春の祭典』にしか見えないの。しかも手垢の付いたハルサイイメージをなんとなくなぞりましたっていう、『カルメン』でやったこと全否定なの。Noismの『カルメン』が素晴らしかったのは誰もがなんとなく思い描いてるイメージを丁寧に一つ一つ洗い落として解体して拭い去って、原典に忠実に再現したことにある。あれだけいろんな場所や媒体で惰性と共にやり尽くされていたカルメンがフレッシュに生き返ったの。でも、『ASU』って汚れた手で更に手垢を重ねてフレッシュな部分がどこにもなかったの。『カルメン』で培った土臭さと第1部で提示したメソッドを合わせてこうやって展開するんだ、っていうネタバラシみたいな楽しみ方はありましたけど、それ楽屋オチでしかない、って次元で止まってた。この先どうなるか、っていうのもだいたい読み通りに進行していたので、こちらとしては作品に対しての緊張感は欠片も持てなかった。見所はダンサーの肉体頼みだった。

 全体としてのバランスも第1部でメソッド提示、第2部で展開なら、第3部で包括するのが筋かと思うんですが、第2部でブツ切りって消化不良で。第3部も作って、生々しく原始的でありながら洗練された音楽である『ドラミング』をそこで去勢しないまま使えばよかったんだと思う。とにかく絶対的にクリエイションに割く時間不足を感じました。多分、時間があれば、私がここまであげた問題点をうまくブラッシュアップして舞台にかけることができたんだろうけど、今回の公演では半分くらいのところで時間切れで出してきたという印象です。作品が完成するまでならどれだけ傲慢であってもルサンチマンが滲んでいても構わないんだけど、それは最終形態では取っ払われてないといけないものです。とりあえずの粗編集の段階でそういうものを残したまま完成品として見せられるのは辛い。あんな『カルメン』作った後に、演出振付家が間を置くのが怖いのはよくわかる、創作的欲求が高まるのは致し方ない。でもそれは中途半端なものを出してダンサーやカンパニーなどの関係者や観客を巻き込んでエゴを押し付けるものであってはならない。今回だけならこういうこともあるよね、で済ませられるけど、こういうことが続くと信頼関係が崩れてしまう。

 私がNoismの舞台を生で観たい!と行動するきっかけとなったのはBSで放送されたサイトウキネンでの『中国の不思議な役人』でした。そこでアジア代表オーケストラとしての側面を持つ楽団の音楽を従えて、新しい世界観を切り開いていたからでした。サイトウキネンってまだこれだけ面白くなる余地あったのか!となり、このバレエは何者?と調べたら、ああこれが噂のNoismなんだ!って。ここのフェスでオケを喰ってる人ら初めて見た!ってひどく興奮しました。それで『中国の不思議な役人』を横浜で生で観れるらしい、と知ってから、毎回公演に行くようになりました。今回までは、どの公演でもNoismらしい新しさ、というものは感じてきました。守らず前進し続ける姿を目に焼き付けてきました。なので、今回の公演は残念でしたが、金森穣でもこういうことになる、と知れたのはちょっと気が楽になる部分もありました。いつもギリギリの橋を渡ってきてたんだ、たまに落っこちるとこうなるんだ、私も落っこちること恐れずに自分のクリエイションに向かおう、と思えるようになり、停滞していた作業を再開するきっかけになりました。そのことには感謝しています。
 今回は習作を見たんだと思って納得させます。いつか完璧にブラッシュアップされた再演に立ち会って見違えるような作品が出てきて、心置きなく盛大にギャフンと言いたいです。金森穣は私にそういう吠え面をかかせてくれる人だと信じています。