愛と落伍と精霊の御名によりて

marginalism2016-09-05

 
 9月になってやっと少し体調が上向きになってきたので、今更ですが8/20に観に行ったNoism0『愛と精霊の家』埼玉公演の感想をまとめます。

 その頃の私は、原因不明の体調不良で病院をたらい回しにされている最中で、果たして会場までたどり着けるのかが一つの賭けでした。電車で座っていたら前に立っていた妊婦さんが私を避けて逆方向に行ったくらいだ。確かに席は譲れない体調だけど、この咳は夏風邪じゃないから……心臓がおかしくなってて出るものらしいから……って少しだけ悲しくなった。まあ与野本町まで席は譲れないから他の場所に行った方がいいことは確かなんだけど。異常な量の汗をかいて咳し始めたら移動するのわかりやすすぎるけど、私だって妊婦ならそうするけど。ただ夏風邪じゃないんだ、ってことだけ伝えたかったんだ……(体調不良に関してはおいおい詳しく別にまとめます)

 彩の国さいたま芸術劇場は基本的に蜷川演劇を観に行く場所だと思っていたので、なんだか不思議な気分になってそこを目指した。駅前の薔薇の花はこの季節だと枯れているんだ、って初めて知った。蜷川幸雄と共に花が消えてしまったと一瞬思ったけど、季節が来ればまた咲くんだよなきっと。
 生気を主張している草と枯れている薔薇を見て、私は蜷川幸雄がいなくなったさいたま芸術劇場に行くんだなと飲み込めない感情を持て余しながら大量の汗と咳にまみれて歩いてた。自分の内部が少しずつ腐って細胞が少しずつ死んでいるような感覚をずっと抱いていた夏の仕上げをしていた。

 リオオリンピックの話をしている人や何かのコンクールの話をしている人が遠い。耳をそばだてなくとも会話が聞こえてくる距離なのに遠い。遠いことに何の感情も持てなくただ遠い。私、こんな状態で舞台きちんと観ることができるんだろうか、感情湧くんだろうかということだけが不安だった。

 結果としては杞憂でした。

 男性陣登場時の動き、他のメンバーが外側の形からアプローチしているのに対し金森穣は内面から出てくるものに由来しているのがよくわかり、一人だけ全然違って、この人なんで他人に振り付けしてるのかなと思ってしまった。自分でここまで動けるのに自分の思ったように動けない人たちに振り付ける日々って相当ストレス溜まらないかな、他人に振り付けして自分の与えたもの、欲しいものとかけ離れたものを目の前で見せられるってどれだけ辛いんだろう。やっていることに対しての意義を自分で充分理解しているとしても「そうじゃない」という感情は抑えきれないだろう、その感情が沸かなきゃ嘘だ。自分が作ったものに責任持っている限り「そうじゃない」からは逃げられない。完全に折り合いをつけられたなら本人が踊らなくなるかもしれないからオーディエンスとしてはそれでいいんだけど、普段この人は気の遠くなるような苦労をしているんだとよくわかった。振り付け理解度に関してダンサーの力量に負う部分を今回は充分クリアしているように思えたし、それでもなお金森穣が際立っていたのは本人振り付けなのだからこの材料で比較するのはフェアじゃない、だから一度は「ダンサー金森穣」に徹した作品を観てみたいものです。金森穣が他の人間の振り付けを踊って初めて比較できる、それをやってみたいんだ。
 だって私、最初の方にある金森穣ソロで泣いたんだ。チャイ5クラリネット中心の運命動機にいちいち説得力を与える動きを置けてしまうダンサー金森穣の身体能力とコリオグラファー金森穣の楽曲理解度の素晴らしさに泣いたんだ。この音楽で陳腐にならずに酩酊もせずに、でも醒めすぎずにそれができるって難しいことだ。気を抜くと過度に情緒に流されやすいモチーフをうまく受け止める大樹のような包容力が素晴らしい。金森穣は木の楽器の使い方がいつもうまいと思っていたけどこの人自身の中に木があった。クラリネットのあの音域を表現する時にこの解釈ができるダンサーがいることはたまらなく嬉しい。

 原作であるところのウージェーヌ・イヨネスコ『椅子』は未読ですが、「人形・舞踊家・妻・母になれぬ女」というキーワードから『人形の家』のノラをまず思い浮かべました。1人の俳優が女の舞踊家に求めたものは割と素直にそれだったように受け止めました。俳優の元から離れて初めて女の人間としての人生が始まるのです。ここの場面転換で亡き王女のためのパヴァーヌピアノヴァージョンを採用したのもうまいと思いました。地味にホルン死ぬやつじゃなくてピアノ。オケ版だと録音であっても身構えてしまうんですが、ピアノであの音を出すのは難しいことではないから、すっと世界観に入れる。舞踊家の晴れの日ではなく日常の練習風景に使うならバレエの伴奏者が弾くような音の方が断然良いわけで。人形から一応子供*1に進化してるし、あそこの女はまだ幼い少女だと感じました。合わせ鏡の視覚効果はもちろん面白いんだけど、ああいう窓一枚隔てたコミュニケーションというシチュエーションになぜか昔から弱いので、ここでも少し目が潤んだのと同時に指導者と生徒という関係性が徐々にあやふやになっていくのがああいう演出でリアルになる。そら女は逃げ出すわ。私の目を潤ませた感情もまだ完全に整理できてないもの。記憶が消えている領域に関わってるんだもの。そういう生易しくない何かがあった。

 で、突然ジャズ組曲が割り込んでくることで女がどういう環境に飛び出したのかもよくわかります。あれやこれやがありました、ってことですねわかります。大人の階段上ってるところです。

 影絵パート、エスプリが利いてていいなと思った。他のキャストとは2人で踊っても実際に夫婦である組み合わせは影絵で済ますって洒落てるなと思った。2人舞台ならまだしも、他の男性とも組んで踊るところに配偶者が混ざると、どうしても温度差ができてしまう。それは観てる方も同じこと。だからこういう処理したことに感心したし影絵の中の夫婦喧嘩で笑った。でも周りが笑ってないのでビビった。え?ここ笑いどころだよね?って少しだけ戸惑った。そしてこの辺りで流れた音楽だけその場で特定できなくて、このチャイコフスキーみたいなマーラーみたいな音楽なんだったっけなんだったっけで結構脳の容量使ってます*2。頭のどこかをかすっているチャイコだかマーラーだかみたいな曲の特定班以外のリソースで小尻健太と井関佐和子の甘やかな踊り観てました。これアダージェットでも似合いそうだなーとか思って。なんの情報も持ってないって怖い。他意なくフラグ立ててた。妻であることから落ちこぼれて母になりかけたあたりの重層的な三角関係暗示も面白かったです。風船使って表現する効果も想像できてるのにこんなに迫ってくるの初めてだ。あの瞬間にショックすぎてすっかり悲しくなったもの。私は別に子供欲しいなんて思ったことないのに、また喪ってしまった女に感情移入して悲しくなったもの。そして男はみんな独善的だ!と憤ったもの。男性の演出振付なのに男の独善的な部分をしっかり描ける人ってなんなのだろう?とも考えてみたりもしたけど、ここの音楽特定して、浄められた夜だと判明したと同時に「そのままじゃねえか!!!なんで気付かなかったんだよ!!!!!」って自分に腹を立てたので結構観てた時の気持ち忘れてます。でも音楽に忠実というか演出に忠実な音楽というか、この作品は音楽踏まえた上で解釈すると、そうきたか!ってなりますね。多分ここだけ音楽を捕まえられなかったから私がその場でうまく咀嚼できてない部分が多いんだと思う。

 音楽がわからないなりにこの踊りアダージェット似合いそうだなは通奏低音で流れていたので、場面転換して耳を疑った。幻聴じゃないと理解して、あーってなった。こっちか、って。そして「これ私のことじゃん」ってこともやっと理解した。人形からも舞踊家(に類するもの)からも妻からも母からも落伍してる私のことじゃんって。何なら女からも落ちこぼれ気味だ。井関佐和子は自分が女であることに対しては自然に受け入れてるのでちょっと気付くの遅くなったけど、女という前提の土俵にすら上がるまでかなりの時間がかかった。求められる役割としての女からは完全に落伍してる。セクシュアリティとしての女も危うい。ただもう手垢の付いてない感性の部分だけは女だと思う。アダージェットで井関佐和子が繰り広げていた女は私だと思う。あれ、私は、老女が時系列が曖昧になって少女だったり若い女だったりする自分、高野文子が『田辺のつる』で描いたようなことになってる人だと捉えた。泣けた。ラストのなんとも言えない姿、動作は大いに泣けた。言葉に分解すると大切なものが抜け落ちてしまうから心の中にそっと閉じ込めた。アダージェットからの贈り物が宝箱にまた増えた。

 もはや人形にも舞踊家にも母にもなれないだろうけど、妻になる可能性だけはまだ残っているはずなので、もし誰かの妻になれたとしたら、私を妻にした夫とこの作品を観たいです。「これは私の話」と伝えた上で観たいです。そう言える人がいなければ妻からも落ちこぼれたままでいいです。なんというか気の利いた自立してる大人の小品といったテイストの舞台で、自分と舞台の間に感情の段差なく観ることができました。私、これを作り上げた人たちと対等に話せるんじゃないかなって初めて思った。別に縮こまる必要ないよね?同世代で同じような目線で同じような課題に取り組んでる人たちがそこにいるだけだと思った。この世界観に段差なく馴染めてるんだから私も大人なんだと痛感した。金森穣が素直に自分のスタイルを出すとこうなるんだろうそれは私のスタイルと遠くないはずだと自信が持てた。自分から遠くないものがあって救われた。身体の内部から弱ってくると全ての感覚が変わってしまい、持っているはずの自分のスタイルも遠くなってしまったとすっかり思い込んでいたけど、私まだ戦えると思った。養生して回復したら戦える。大人だから焦らず自分の身体を信じることにした。

高野文子(新潟出身)『田辺のつる』収録本

絶対安全剃刀―高野文子作品集

絶対安全剃刀―高野文子作品集

*1:亡き王女の設定が確か死者を思うわけではなく昔そこにいた子供だった王女を思い出すとかそんなん、そもそも題名からしてフランス語の言葉遊びだし

*2:答えはググる前にお前のiPhoneのmusic検索しろってオチでした……当日の使用楽曲の中でこの曲だけは持ち歩いているくせに忘れてるっていうな……