脱ぎ捨てられないシニフィアン・見捨てられたシニフィエ-祖父の連れて行かれた国-

marginalism2016-07-18


もう半月以上前の話になってしまいますが、熱を出しつつNoism劇的舞踊vol.3『ラ・バヤデール−幻の国』7/1KAAT公演に足を運びました。
http://labayadere.noism.jp/

その日までしばらく「どういうことか説明してください」とストレスで熱を出しながら下々の世界で日々の糧を得るために戦っていました。説明する言葉にも説明を求める言葉にも説明を求めなければ生きていけない社会にも苛立っていました。だから説明のいらない言葉と身体の境目が曖昧になるような世界に旅立ちたかった。

それで観た『ラ・バヤデール−幻の国』は世界観が大変説明しやすいように仕上がっていました。
制作過程をよく把握していませんが、平田オリザの脚本に書かれた言葉を単に説明している振りが多かったように思います。
私はクラシックバレエの『ラ・バヤデール』を知らないので、平田オリザ方面からどうしても入ってしまうんですが、そんなに説明するんだ?と一番驚いたのはミランが「そろそろムクゲの花が咲く頃だ、国に帰りたくなるだろう?」「カリオン族はヤンパオ風の名前を名乗らなければならなくなるんだろう?」というようなことを言われていたことです。『ムクゲの花』というタームが差し込まれた時点で、カリオン族=朝鮮族という規定を示している。でもそれだけなら『ムクゲの花』が朝鮮人にとって特別な花、現在の大統領の名前にも使われている花ということを気づかない人も大勢いるだろうから、そのエッセンスを持った架空の民族とするのはまだ可能かなと思おうとしたらダメ押しに創氏改名のこと持ち出された。そこでもう、ああこれ設定されている特定の民族を実際の民族と切り離さず素直に反映しちゃうんだとわかった。カリオン族=朝鮮族、ヤンパオ人=日本人、メンガイ族=漢民族馬賊モンゴル族、マランシュ族=満洲族という投影をすり抜けるのかと思ってた。いつものNoismならすり抜けるような気もしないでもないんだけれども、今回は平田オリザ脚本がそこは繋ぎ止めていたんだろう。出てくる人物も愛新覚羅溥儀みたいなのとか川島芳子みたいなのとか素直に、本当に素直にそのまま。私がその場で満州国と結びつけるモデルを見つけられなかった主要人物はクラシックバレエの配役の方にいました。オロル人のマランシュに亡命した大僧正という人物だけチベット人だとしたらダライ・ラマがインドに亡命した時期とは少しずれている、白系ロシア人ロシア正教の指導者か?と迷いましたが、バレエの『ラ・バヤデール』にいる大僧正をなんかそのあたり濁して配置してあるだけなんだろうな、深読みするほどのものでもないなと特定するのは切り上げました。ムラカミとされている人もモデルがいるのかどうかよくわかりませんでしたが、村上春樹が『ねじまき鳥クロニクル』で満州国を取り上げていたとかいうのを見かけたからここは全力で深追いしないことにした。
舞台は満州、とはっきり定義されていたので、学生時に読み耽った『流転の王妃の昭和史』(これ「流転の王妃」の昭和史―幻の"満州国" ってタイトルで文庫になったものもあるんですね。平田オリザ全部そのまますぎる…)『李香蘭 私の半生』『北京の碧い空を―わたしの生きた昭和』(小澤征爾母・小澤さくら著)、この辺りの知識が勝手に蘇ってきて世界観も掴みやすいというかするする入ってくる。私はうまく言語化できない消化しにくいものを望んでいたのにおかゆが出された。確かに体調不良の体におかゆは優しいけども、それは望んでいなかった。ほとんどのダンサーが平田オリザの脚本を説明するだけの振りで何を言いたいか教えてくれる。逐語的に教えて欲しくなんかなかった。わざわざ自分の肉体を通して言葉を発する俳優3人を呼んでいるんだから、言葉は彼ら彼女らに全て託して感情を踊って欲しかった。愛新覚羅溥儀ことプージェが誰なのかキャスト表に書かれてなかったからわかりませんし、わからなくさせていることで傀儡政権ですから誰でもいいんですよ、ってやっぱり説明してくれてるんだと思いますが、彼の代わりに言葉を発するムラカミ役の貴島豪の肉体を通した言葉の通り方は好きでした。能楽師みたいな発声だなと思いました。夢か現か幻か、という場所へ連れて行ってくれるのが大多数のダンサーではなくて俳優だったことは少し皮肉なことでしたが、ダンサーの中でも平田オリザの言葉に引きずられていない人は少数ながらいました。

石原悠子の役割は説明しなければならないキャラクターなので、この人はこう踊る必然性がある。他のダンサーの説明的な踊りとは意味が違う。彼女の踊りが引き立つのではなく周囲にすんなり溶け込んでしまったことが問題だ。本来なら他のダンサーの中に入っても浮いてしまう役柄のはずだからだ。みんなで説明しなくてよかった、俳優以外では彼女がそれを一手に引き受けるべき作りのはずだからだ。
井関佐和子はよく見る「強い女」ではなくて「儚い女」「夢の女」「幻の女」という透き通った存在感がとても良かったです。この人と中川賢だけが脚本に書かれた言葉に込められた感情を自分の身体で咀嚼して全身から感情として発してました。ミランと彼女が属する踊り子たちの集団は朝鮮のムーダンなのかなと解釈しましたが、カリオン族=朝鮮族と指し示される前、ミランが登場した瞬間から「16歳のキム・ヨナ」を思い出していました。「揚げひばり」のキム・ヨナが『カナダの養女』を称することなく、アジア的感性の中で育まれていたらこうなっていたのかな、という結果的には選ばれなかった可能性の幻をそこに見ました。中川賢のバートルの翻弄され方も素晴らしかったです。特に阿片しか頼れるものがなくなった後の灼けつくような男の悲壮感。ただ痛々しいだけの悲愴と違って、それでもまだ何かを求めて戦おうとする意志は感じられるんです。根っからの戦士であるバートルだからこその悲しさが伝わってくるんです。ミランが「16歳のキム・ヨナ」なら阿片漬けのバートルは「eye初演の高橋大輔」だと思いました。あまりにもセンシュアルでセンシティヴでセンセーショナルで私が新横浜からの帰り道で泣きそうになって一刻も早く家についてドアを閉めて泣き出したい、と急いだ、そして実際にドアを閉めた瞬間にボロボロに崩れ落ちて泣いた高橋大輔です。なので、「16歳のキム・ヨナ」と「eye初演の高橋大輔」が邂逅するシーンの美しい夢は何も考えず身を委ねました。ずっとそうしたかったように。最後にやっと私は私が観たかったダンスにたどり着きました。阿片はもちろん酒に酔うこともできない私が酔えるのはこういう場所だけなんです。ずっと私は酔いたかったんです、言葉のない世界、確かなことがない世界で揺蕩いたかったんです。

ラストにかけてやっと私は説明する言葉から解放されて楽になったけれど、全体を通すと「パクチーナンプラーは入ってるけど、それでも胃に優しいおかゆ」でしかなかったです。『カルメン』の時はほとんどのダンサーが全身から感情を発していたように思えたのに、今回は脚本が平田オリザだからでしょうか、その人の言葉に遠慮してそれを尊重しすぎていたように思います。でもダンサーにとって言葉を尊重するってそういうことなんでしょうか?言葉なんてただの記号です。言葉という記号で描かれた心象風景を咀嚼して自分の血肉にして持って生まれた身体の動きを通して表現しなければならないものではないんでしょうか?言葉の説明ではなくて言葉を飛び越えてきて欲しかったです。それを求めるのは観衆のわがままですか?
脚本の世界観にもそのままスッキリ対応できるものを入れるんじゃなくて、五族協和というタームを使うなら、ユーゴスラビアの「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」というようなものもポリフォニックに重ねてくるのかと途中までは構えてたんです。まさかひねりなくそのまま解釈していいものだとは思ってなかった。でもこの辺りは趣味嗜好の問題になってくるから私の好みを押し付けられるものでもないんで、これはこれで尊重しますけども。満州ソ連も「幻の国」になってしまいましたが、私が現在進行形でその後を生きている人が気になる「幻の国」が単にユーゴスラビアというだけの思い入れの問題でもあるでしょうし。
ただ、NODA・MAPの『エッグ』もそうなんだけど、一部で見かける最近の満州推しってなんなのかな、というのは少し引っかかっていたりします。平田オリザはなんで舞台を満州国に設定したんだろう、ということはずっと考えています。

流転の王妃の昭和史 (中公文庫)

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李香蘭 私の半生

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北京の碧い空を―わたしの生きた昭和 (角川文庫)

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http://www.youtube.com/watch?v=zzSENlsfVIc

http://www.youtube.com/watch?v=K5WcfMyo0Tc