神様を信じる強さを僕に

marginalism2017-02-08

マーティン・スコセッシ監督作品の「沈黙 -サイレンス-」、公開3日目1/23月曜日にまず観に行きました。
私が映画を一人で公開週に観に行くなんて初めてではないだろうか。でもやっぱり少し外れた場所のレイトショーだと公開3日目なのにほとんど人いなかった良かった映画館だけどパニック発作起こさなかった。
観終わった後、とても幸せな気持ちになりました。20年以上待った甲斐があったな、窪塚洋介が出てくるまでキチジロー役粘って良かったなって。

映画の内容はほぼ原作に沿っていますから、もちろん幸せとはあまり言えないものではあるんですけど、とにかく日本と原作と役者に対するリスペクトしかスクリーン上にはありませんでした。原作未読だと衝撃を受けるのかもしれませんが、原作読者は「ずいぶん描写がマイルドになったな」と思われる向きも多いのではないかと。それで原作にこのシーンあった?と思って読み直すとスコセッシは原作でしっかり描写されていた部分をさらっと、さらっと触れられていた部分をしっかりと映画に起こして、原作を補完した作りになっていることがよくわかった。160分、どこにも気を抜ける場所なし捨てカットなしで、完成度が恐ろしく高くて、ああこれが世界の巨匠というものなのかと驚きました。

この映画の捉え方はクリスチャン・ノンクリスチャンで分けられたりしますが、日本にはノンクリスチャンのミッションスクール出身者という一大勢力があり、そういう人々はキリスト教伝道最初期のセミナリオというミッションスクール出身者・浅野忠信演じる通辞の生き方に共感できることも多いのではないかと思います。なぜ我々は洗礼を受けなかったのか、それをむしろクリスチャンに知らしめている存在が浅野忠信演じる通辞であり、イッセー尾形演じる井上筑後守です。浅野忠信イエズス会士に受けた仕打ちをロドリゴにぶつけるシーン、私にも覚えがある。

私が初めて人種差別を受けたのは高校1年生の時でした。上智からイエズス会の偉い神父様がおいでくださった時に挨拶したら、私はクラスの中でも英語が苦手な方だったので「なんで俺がこんな英語もろくに話せない田舎娘の相手をしなきゃいけないんだ」とすぐさま顔に書いてあった。それからずっと「野卑なイエローモンキーが」という扱いをその神父と接している間受けた。当時まだ海外に行ったこともない田舎娘はなかなか白人に会う機会がないので何となく名誉白人気分で生きてきたけれど「今!私!人種差別を受けている!」「そうか私は黄色人種なんだ!白人とは違うんだ!すごい!聖職者からずっと見下されてる!」と刻まれた経験は大変印象深く残っていて、その後間もなく原作の「沈黙」を読み始めたら「イエズス会って昔からそういうところなんだな」と噛みしめたのもよく覚えていて、それが浅野忠信の肉体を通して改めて語られると、もはや懐かしい気分になりました。

ただ、原作の描写は全般的に荒んでいますが、スコセッシは誰も彼も徹底的にピュアに描いてます。映画の仕上がりもピュアです。塚本晋也演じるモキチや笈田ヨシ演じるイチゾウその他トモギ村や五島のキリシタンは全員ピュアなのは言うまでもないですが、キチジローもロドリゴもガルペもフェレイラも通辞も井上筑後守も役人も非キリシタンの民衆も全員ピュアです。それぞれがそれぞれの在り方でピュアだからこそ、それぞれが傷ついて哀しいのです。

キチジローのキャスティングが大変難航したと聞き及んでいますが、結局、窪塚洋介が情報解禁でツイートした時の衝撃が一番強かったなとも思います。窪塚洋介がハリウッド映画に大役でデビューするよ、というようなお知らせを見て、え、何?フカシ?とか気を抜いてよく読んだら「沈黙」のキチジロー役ってマジで大役じゃねえかよ!これガチ!?キチジローそのアプローチ!?そうきたか!などとしばらく動揺と納得がごちゃまぜになっていました。
ツイート見てすぐ記事になって、その時にキャストの名前が何人か上がっていて、役名並記のイッセー尾形浅野忠信塚本晋也はともかく、そこに連なって村人と書かれた加瀬亮の名前もあって「あ、これ、キチジローは窪塚洋介加瀬亮で迷ったな」とその時思いました。原作のイメージのキチジローなら加瀬亮の方がうまくできるなと。

スコセッシが「沈黙」映画化するという記事を20世紀末に見かけた時はキチジロー役がイッセー尾形だった記憶があって「ああキチジロー役ハマりそう」と思った記憶もあって、でもイッセー尾形がキチジローをやるには難しい歳になってるしどうするんだろう?と頭の片隅にずっとありました。本当にちんまりと何年かごとにスコセッシが「沈黙」作るよ・中止になったよ・やっぱり作るよ・延期になったよ・「沈黙」の前に他の映画片付けるよ(しばらくこれのループ)→もういい加減作る作る詐欺やめろと訴えられたよという情報を細々と更新してきたので、ノーベル文学賞直前のオッズにボブ・ディランの名前を今年も見つけてネタ枠健在でほっこり的な風物詩として楽しんでたらボブ・ディランは本当にノーベル文学賞取っちゃうし、スコセッシは本当に「沈黙」完成させちゃうしずっとネタ扱いで楽しんでてごめんなさい、と一人で頭をさげることこの数ヶ月で2回だ。

キチジローが見つからない、で延期になったような記事もどこかの段階で見かけたような記憶もおぼろげながらあって、それは私が記事を読んでそう解釈しただけなのかもしれないけど、でもまあ他の役はそれなりに見つかるだろうけど、キチジローって本当に難しいよなどうするんだろうな、イッセー尾形もう無理だしなと気にかけてたらヒーロー見参ですよ。その手があったか!その路線で行くか!と本当に感服した。実際問題、原作読んで受けるロドリゴとキチジローの関係性なんて太川陽介蛭子能収みたいなもんなんですよ。蛭子能収は長崎弁喋れるし。非常に小狡くて薄汚いネズミ男みたいな描写なんですよ。そんな人間を原作通りうまく演じる役者が欲しかったのなら加瀬亮をキャスティングしていたと思うんです。彼は英語も堪能だし「ぐるりのこと。」で演じた幼女誘拐殺人事件の被告良かったし、ああいう役を忠実に忌々しく演じる姿も想像できるんです。
でも、窪塚洋介のキチジローを想像してみたら「なんて無垢なんだろう」とキチジロー像が一変されてしまい、赤ちゃんのようにイノセントなキチジローというのが見えたんです。神父にすがる姿もどこかあどけなくて哀しくて痛々しいキチジロー。どこまでも無邪気で常識に囚われないキチジロー。私、本当にキチジローが嫌で原作うまく読み返せなかったんだけど、キチジローのキャスティング知ってあれに窪塚洋介の肉体を与えて想像したら興奮してしまい、居ても立っても居られず即文庫本探して読み直しました。そうするとやっぱり原作の風景が塗り変わったんですよね。本人のオーディション演技プランでも「イノセント」をキーワードにしてたみたいで、自分の売りどころよくわかってんなと感心したけども、映画全体のトーンを決める大事な役だから、スコセッシが窪塚洋介を見つけてどれだけ安心して興奮したかもわかる。よくわかる。一番妥協しちゃいけないキャストでこれはもう福音ですよ。このキチジローでやっとスコセッシが原作をどういうコース取りで扱えばいいか見えたんだと思う。原作に忠実と自他共に判断できるラインの中で最大限キリスト教カトリックに甘い作りになっている、少しでもバランスが崩れると一気に陳腐になる極限のライン。これを可能にさせたのは窪塚洋介だと私は思う。他の日本人役者と比べても異彩を放っているからね。それは私たちが普段窪塚洋介と聞いて想像する窪塚洋介なんだけど、ハリウッド映画でも通じる異彩だったっていうのは収穫でしたよね。本人にも観客にもハリウッドにも。

そして一方の加瀬亮も映画の中でスコセッシ成分を担うという大切な役割を果たしていて、ちょっとそこで泣きそうになった。加瀬亮も大事に扱ってもらえて良かったって。「沈黙」じゃなくて「スコセッシ作品」を見に来た人へのサービスでしょうあれ。ただの村人じゃなくてきちんと原作にも名前がある人で物語に対する役割もあって英語も使わせてもらえてて、それなりの待遇はしますよ、と大切にされていて良かった。朝ドラヒロイン最終オーディション落ち親友役的な見返りはあって良かった。加瀬亮が現場にいると重宝すると思うんだよ英語とか文化とかそういうところで。それもあるし浅野忠信と一緒に重要な映画に出られて良かったなとも思うし、一人一人の俳優にこんな心配りをできるからこそ巨匠なのかという凄みも感じました。
スコセッシにとっての神はこの映画で描かれている神なんだろうけど、日本的感性を持った日本人キャストにとっての神はスコセッシその人でしょう。そうやって考えると、この映画では実は誰も神を諦めてないんですよ。信頼して付き従って歩き続けているんです。映画の中の江戸時代初期の日本人とそれを演じている現代の日本人の感覚は変わらないんです。なんだか尊敬に値する人が信じているものがあるから自分たちもそこに続こうってだけの純粋さを誰が否定できますか?原作は遠藤周作という小説家がキリスト者と文学者の間で引き裂かれてカトリック教会に孤独に戦いを挑む構図だったので、それはものすごく刺さる。カトリック教会に極東の島国の一介の信者が信者であるまま喧嘩を売るって途方もない覚悟がないとできないです。それでも彼はキリスト者であるよりも文学者であることを優先して文学への殉教も視野に入れた上で戦ったわけです。それに対してスコセッシはクリスチャンであることとフィルムメーカーであることを両立させるためにこの映画を作っています。スコセッシが戦ったのはカトリック教会ではなくて己の良心。そして一緒に戦ってくれるのは塚本晋也のモキチであり窪塚洋介のキチジローなのだから負けるわけがないんですよ。

この映画あと3回は劇場で観たいな、シネスコサイズだし字幕松浦美奈だし信頼できない要素も嫌になる要素もないし、などとずっと興奮しつつ過ごしてましたら1/31に窪塚洋介塚本晋也イッセー尾形の舞台挨拶があると。まあ行くよね。その日ちょうど舞台挨拶がある映画館方面に行く用事もあったし行かなきゃならないよね。何回か映画館に行く中の一度くらいは舞台挨拶があっても良かろうと割と軽い気持ちで行きました。

舞台挨拶に特に何も期待してなかったんですけど、素の状態の窪塚洋介がパブリックイメージの窪塚洋介と違ったことに驚きました。独特の華はあるし、演技も魅せるし、でもおかしな発言をしてる人ってイメージじゃないですか、少なくとも私は彼のパブリックイメージはそういうものだと思ってるんですけど、あの人実はものすごく長男的な気配りの人なんだよ。話きちんと落ちるかな、うまくまとめられるかな、お客さんで終電間に合わない人大丈夫かな、こっちのカメラはうまく撮れてるかな、みたいにいちいち周りを見てる。そして常に助け舟を出そうとしている。それがうまくフィットしなくて滑ってるとか空回りしてるとかいうような評価になることも多そうだけど、それ以上に事前におかしな方向に行きそうな芽を摘み取っていて、長男であることが身に染み付いているきちんとした家の優等生の地頭がいいお坊ちゃんという印象が強く残った。そして生まれ持った個性が長男長女という役割とあんまり相性が良くない人特有の不器用さもまた強く感じました。
似たような印象を私が抱くのは安藤美姫なんですが、こういう人たちの叩かれやすさって海外と接点を持って解放される以外ないんですかね?あのバビロンシステムがどうとかいうのもね、舞台挨拶での窪塚洋介の立ち振る舞いから推測するに、メディア通してとかツイッターという文字数制限があるところ以外できちんとサシで話を聞いたらそれなりに納得が行く論理はある気がするんだよ、ただサービス精神もあって苦労もしている人だから、映画の宣伝で記事にしてもらうためにキャッチーならどうぞお使いくださいってスタンスで「おかしな自分」というイメージを訂正してないだけだよね。あえてあまり人に悟られないようにしてるけど自己犠牲の精神にあふれてて、キチジローとは全然違う人だなと、むしろああいう人に憧れてしまう人なんだなと、人一倍空気を読んでそのシチュエーションで最初に誰かがやらなければならないなら踏み絵も踏むけど、場合によってはモキチのように磔になってもいい人なんだなと、うまく逸脱できない自分に対しては既に諦めて達観した冷静で優しい眼差しを感じました。こういう人が逸脱の権化のようなキチジローを演じるのは楽しかっただろうな。良かったな。

この映画に関する私のあらゆる気持ちは「良かったな」この一言に尽きる。

沈黙 (新潮文庫)

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