子供達を責めないで

marginalism2017-02-22

 Noism1近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』+『passacaglia』埼玉公演を2/9(木)に観ました。観たんです、が、このままだとNoismは空中分解するんではないか、という思いが心に広がるような時間になっていましました。

 こんな時代の空気を感じていると、“踊って、作品を創れて幸せです!”というノリで舞台を創出することはできない、と言う。

金森「高度経済成長時代や、バブル経済の頃は、豊かさと言う余白があったから、既成概念をぶち壊すことをクリエイティブとして行い、陶酔することもできた。でも、格差、貧困、そうした問題を社会が抱えている今、純粋に舞踊だけを見せればいいとは思えない。それができる人たちもいるのかも知れないけれど少なくとも俺は、世相と全く関係のないことに集中できない。実は、今回の新作を創ると決めた時、最初は抽象的な作品一本で行こうと考えていた。でも、これだけ問題が山積になっている社会の中にいると、抽象的なことをやると自分が現実から逃げているように思えてくる。特に、Noismは、(平たく言えば)税金で作品を創っているわけだから責任がある」
(Noism Supporters #30の金森穣インタビューP3より)

 この発言を受けての作品がああなっていたと思うと、責任を負って創ってすごいですね、とは私は言えないです。

 2017年現在、我々は非常に困難な時代を生きています。世界中のいたるところでテロが起き、その因果関係を読み解くことの難しさは、専門家たちが世の趨勢を見紛う事態からも顕著なように、もはや誰にも理解できぬほど複雑に絡み合っています。このような時代において我々にできることは、複雑な事象に対する解を短絡化することではなく、ポピュリズムによって集約することでもなく、複雑な事象を複雑なまま、多様な価値を多様なままに、その“混沌”を享受する強さを身につけることではないでしょうか。そしてその強さとは、恥ずかしげもなく高尚な理念を掲げ、同時に成す術なく卑近な己を噛み締め、自らのその足で歩いていくことでしか、養えないものではないでしょうか。
(近代童話劇シリーズvol.2『マッチ売りの話』+『passacaglia』プログラムより)

 ここに書いてあることはごもっともだとは思います。でも、貴方の場合はその前にやることあるでしょう、と。金森穣が一人で視野狭く前のめりで歩いていくだけじゃ駄目なんだ。

 前半の『マッチ売りの話』の意図を私は掴みあぐねました。それは不条理劇を下敷きにしているから、という高尚な次元ではなく、単に作品としての完成度が低かったからです。生煮えだったからです。ダンサーごとに作品理解度・咀嚼度が異なって温度のムラが激しかったからです。何が起こっていたのだろうと登場人物のキャストの名前を終演後に確かめたら腑に落ちました。高らかな宣言と裏腹に異文化への配慮がなされてなかったからことが理由の一つだと判明したからです。

 第1部『マッチ売りの話』ではほぼ全員が面をつけています。面をつけている意味は何だったのでしょう?キャスト内で意思統一されていたでしょうか?中川賢や石原悠子は理解していたと思うんです。その人たちが踊ると何かが見えかけました、が、他の人が入ってくると途端にまたうやむやになってしまうんです。うやむやなまま踊っているから。特に男性陣で戸惑いが強く伝わってくる人たちがいました。結局あれは何だったんだろうとキャスト名を確認したところ、その人たちは台湾人ダンサーでした。
 日本の人にとって「面をつける」という行為はどういうことなのか、特にNoismは新潟のカンパニーですから能楽をベースに共有しているものがあると思うんです。能楽師が能面をつけるほどの意味を表現できなくとも、おぼろげであろうとイメージは少なからず持っているはずなんです。でも、台湾の人はそれを共有していない。共有していない人が悪目立ちしてしまっている。この悪目立ちはダンサーに責任があるわけではない、演出家が適切に導けなかったのが問題だ。

 最近の金森穣はカンパニーの若い人たちに苛立っているように思える。自分が要求するものを自分が要求するレベルで答えてくれないことに対してフラストレーションを溜め続けているように思える。舞台上の若い人たちが可哀想にも思える。昨夏同じ会場で観たNoism0は素晴らしかった、けど、その素晴らしさは「大人最高!何も言わなくてもやりたいことわかってくれる!きちんと自分で仕上げてくる同世代のパフォーマーは楽!」という前提があって成り立っている。見方を変えると若い人たちを突き放している。私が今ここのカンパニーの若いダンサーだったら萎縮して自信を無くして踊ることが楽しくないと思う。演出家本人の問題意識を若い人たちが理解できるように噛み砕いて伝えて向き合う作業を放棄しているからこんな舞台になってしまったんだと思う。

 そして作品理解度が図抜けて高い井関佐和子にも依存していないだろうか。最後まで観ればわかるんです、ああ最初のシークエンスは処女懐胎のモチーフかと。その後に出てくるダンサーたちの姿は世を忍ぶ仮の姿かと。第2部『pasacaglia』はわかりやすいです。全員が意識の共有できているから。温度差ないから。Noismの基礎を押さえて創っているから。だからこそ、前半で放り投げたものも見えてきます。『マッチ売りの話』でも意識の共有ができていた部分はありました。『スリラー』だと全員が共有して踊っている部分はとても楽しそうだった。ずっと戸惑っていた若い人たちがやっと安堵したように見えた。でもそこまでの長い時間、若い人たちをこんなに不安にさせる大人はよろしくないなと少し怒った。

 自分の周囲にいる迷える子羊をネグレクトして高尚な理念を掲げるのは愚かな行為だ。近くにいる人に八つ当たりしているだけのような舞台に足を運んだ人間もまた置き去りにされてしまう。『ラ・バヤデール―幻の国』の時も感じたけど、金森穣の空回りは何が原因で起こっているのだろうと気を揉んでしまう。このままだとカンパニーが空中分解してしまうか大化けするかどちらかなんだけど、それはただ一点、金森穣の焦燥がどこに着地するかにかかっている。

 そして私、金森穣が提起している問題に対して素晴らしいクオリティで回答を出した作品を知っているんだよね。

 この人うだうだしてないで一刻も早くマーティン・スコセッシの『沈黙-サイレンス-』を観ればいいと思った。正直私も金森穣と似た程度でしかキリスト教モチーフをこねくり回せないんだけど、そのことを恥ずかしくて情けないと思ったし、そのことは高々と掲げられるほど恥を知らないわけでもない。もう本当にドヤ顏で書き連ねた文言を消し去りたくなるし、恥ずかしげもなく高尚な理念を掲げている人がどうなるか/成す術なく卑近な己を噛み締め、自らのその足で歩いていく人がどうなるかを見事に描き切っているあの作品に触れてそうならないなら芸術家を名乗れないです。
http://chinmoku.jp/

Biber: Rosary Sonatas Nos. 1 - 15 and Passacaglia

Biber: Rosary Sonatas Nos. 1 - 15 and Passacaglia