眠れぬ夜の長女

薄く落ち込みがちな時は岡崎京子の後期(というと語弊があるか、90年代中盤以降に単行本に入ったような作品)の閉塞感のある短編を読む癖がありました。

『万事快調』の長女の感じとかがとてもわかるなあって、私は家事とか全く実家にいた時はやりませんでしたし、今も苦手なんですけど、振る舞い方にはかぶるところがあるなあとか、性格的にはあまり派手なものが得意ではないので(結果的に派手になるだけ)、なんというか、描いてる人が長女っぽいなあって思うものを読んでしまいます。向田邦子高野文子も長女ですよね確か。 なんでかわからんけど長女の作品に触れると落ち着く。

私がエヴァンゲリオンよりエウレカセブンの方が好きだというのは大島弓子より岡崎京子を先に取り入れてしまったからのような気がしました。エウレカにはエヴァにはない「世間」がある気がする。「世間」というか「一般大衆」?世界観が閉じてないというか。

例えば『3つ数えろ』でつらっと連合赤軍永田洋子の名前を主人公につけてしまうところとあっけなくバナナブレッドのプディングの1カットを挿入してくるところがそのまんま影響されたところだなあ、というかあれ初読時にどっちの元ネタも拾った人間ってどれくらいいるんだろう。

私、アニエス・ヴァルダがとても好きなんですけど、作品はそれほどいっぱいみてるわけじゃなくて、そんだら

●アニエス・ヴェルダの映画「冬の旅」
「チワワちゃん」。アニエス・ヴェルダの映画「冬の旅」ってのがこんな感じの、「若くして死んだ無名の女の子のあしどりを関係者の話を聞きながら辿る」映画でした。でも、関係有るのかどうかはわかりません。こんな感動的なエンディングはついてなかったし、そういう手法をとった映画は他にもありそうだし…
http://page.freett.com/tach/okazaki_quote.html#fuyu
(tachさんとこ)

なんつう記述があって、私は『チワワちゃん』にはものすごく思い入れがあるので、あーそりゃもう好きなはずだと。

こういう引用集みてて思うんだけど、物事を体系づけて考えないと気が済まない文系男子には本当恐れ入るというか、御苦労なこったというか、ちょっと目に付いたものをつまみ食い感覚で作品中にぶっこんだらいちいちそれについて考えるってなんか偉いよね。

もう本当岡崎読みの皆さんの評価低いんだけどさあ、私、連載中から『ショコラ・エブリデイ』が大好きで。(Peewee読者だったんで)(Peeweeって語られないよねえあんまり)

あーでも分析するの好きな人は男の人が多いから、女子供の雑誌で女子供のために描いたようなものがわからないだけなのかもしんないね。

岡崎京子読みは女の子じゃないと感覚としてわかんないところあると思うわ。

そういえばちょっとだけ立ち読みした文藝で松浦理英子先生が星野智幸(だったかな)と対談してました。
ちらっとしか読めなかったけど、松浦さんの生の言葉に触れて、やっぱこの人と同時代に生きてこれたのは幸せだなあと思った。

そうそう、ソフィア・コッポラ岡崎京子の対談とかみたいなあ。
ロスト・イン・トランスレーション』のパンフにとある漫画家が寄稿してるんですけどとんでもなくしゃらくさい代物で。 これが岡崎京子だったらしゃらくささの奥にあるものをえぐり出したと思うんだよねえ。 だから、なんか、私は非常に悔しくて、それで泣きそうになった。

岡崎京子がねえ、『ヴァージン・スーサイズ』のイラスト描いたりすればすごくグっときたと思うんだよねえ。

あのソフィアの視点と岡崎京子の視点って似てるんだよねえ。あの視点は私は持ち得ないんですよ、あれはねえ、都会で育った女の子が持つ視点だと思う。田舎というかまあサバービアですけど、私はそういうところで育ったからああいう距離をとれないんですよねえ。ソフィアにしても岡崎京子にしても、田舎や郊外を描く時に突き放した視点があるんで、なんかそれは私と違うと思った。

アニエス・ヴァルダの描くパリっていうのは私が東京に思い描く視点と割かし近い気がする。