自らのiconの設定

ちょっと前にマイミク男性諸氏の間でしょこたん16歳が話題になってて、私も見たんだけど、今も昔もしょこたんの造形はかわいらしいとそのくらいにしか思わなかったんですけども、16歳の中川翔子にそれ以上のものを見いだしている人が多くて戸惑いました。それぞれの言葉でそれぞれの幻想を投影していて、しかしそれはまた画一的なイメージでもあって、なんだかなあと。

これな。

しょこたん16歳に(私から見ると)異常に食らいついている男性諸氏は、自我の確立していない女の子を好むのだなあと思って、上の動画の現在よりは心もち自分に自信を持てないでいる女の子の佇まいに反応して、この時代に比べて今は劣化している、とか落胆しているのだとしたら、そこにとどまらせようとするのはひどいエゴだなあとも思ったし、とどまらせようと思っていなくても、それを「一瞬の輝き」だとあがめたてまつり失われた「輝き」を悼むというのもずいぶん身勝手な振る舞いだなあと思いました。

なんか悲しくなったんです。あの時代のたった一人での闘争がそうやって消費されてしまっているのかと思うと。

そういう見方もある、くらいだったら、私もいちいちこんな声明出したり悲しくなったりもしなかったんだけど、あまりにそういう面だけで盛り上がってて、そういうものを否定する気持ちはなかったんだけど、一方、その欲望の対象になる人間もいて、そういう人の内面に対してはあまりにもぞんざいなのではないか、とか、ピグマリオンコンプレックスロリータコンプレックスの人々を私は否定しないけれども、私たちは人形じゃないんだよ、それだけは考慮に入れておいて欲しい、と伝えたかったです。

ぶつぶつmixiでつぶやいておったら賛同してくれた人がいたからこっちにも書いた。

私は彼女が今、「しょこたん」として確立できた姿の方が清々しく美しいと思います。16歳の時はどこか痛々しさがある、と思ったら不登校とか暗黒時代とかいわれてるんですね。痛々しさに魅入られる人がいるのはわかるけど、そういうものはおおっぴらにいうもんじゃないと思う。

中川翔子さんの世界観はThe Virgin Suicidesに通じるものがあると常々感じていたのですが、やっぱりなあと思いました。


ヴァージン・スーサイズ

ヴァージン・スーサイズ


The Virgin Suicidesも軽々しく好きだといえるもんじゃないと思うので、やっぱりもうちょっとデリカシーをもってほしいというか、そういう欲望をダイレクトに出すのはいかがかと現代のドジソン先生たちには申し上げたい。
そういう欲望をダイレクトに出してるから彼女達の視界には飛び込んでこないのだということは彼等は気付いているのだろうか。気付いてやっているのならそれは各人の趣味嗜好の問題だからいいのですけども。

しょこたん」になれなかったバラバラにされた女の子や「セレブ」にしがみついてバラバラにしちゃった女の人は自分の性質と設定したいキャラクターのズレが修正できないほどあったのだと思う。だから無理している部分がああいう形になってしまったんじゃないかなと。誰もがマリー・アントワネット*1になれるわけじゃないし、なれる人間だって本当になりたくてなったわけじゃない人もいる。

そして、「しょこたん」はクレバーな人間が設定したキャラクターだなあと改めて思った。クレバーな人間が孤独の中で掴んだものはそう簡単にまねできるものじゃない。私はしょこたんの中の人の暗さが密かに好きです。「しょこたん」というキャラクターと中川翔子(薔子?)という人がまだ未分化であって渾然としていてその事態に本人が混乱している姿に「萌える」のも別にいいんだけど、そういうのも「密か」にやっていて欲しいと思うのは私の身勝手なのでしょうか。

バラバラの当事者はマリー・アントワネットになりたーい、と無邪気に言ってそうな人たちだなあと思って、その資格が自分にあるかどうかを考えずにまず「なりたい」って気持ちが先走りしていた人たちなんじゃないかと思って、私はそういう人たちに大層うんざりしたり、逆に勝手にマリー・アントワネット的なものにされていじめられたりして更にうんざりしていた若い時代を過ごしてきたので、せめて幽閉されたお姫様であるより民衆を導く自由の女神を目指したいと若い時代は強く思ってました。「しょこたん」は様々なしがらみを振り切って自由を掴んだ女性の姿であると思うから、だから好きです。

*1:映画、前売り買ったけど、ほんとはもう去年のうちにあれで見たよ。今週中にでも劇場に行きたいよ