要は私のガーリー・コンプレックスについてのつぶやき

ふと思ったのですけど、マイナー気質の男の子が主に抱えてる物語は父殺しで、女の子が主に抱えてる物語は自分殺しなのですよね。
多分、これは思春期以前には意識しな(くてよ)かったものですよね。通過儀礼の物語が違うことがジェンダーとしてのうんぬんとかあるんですかね。これは役割の問題のような気がするからジェンダーの問題と今は認識してるのですがそれはそもそも適切なのかなあ。

私はたまに自嘲気味に「文化系女子」を自称しますけども、30過ぎた女が嬉々として「女子」を自称して人形遊びや着せ替えにうつつを抜かしているのはどうなのかなあ、と。
これ最初は「メガネ男子」って単語に対応する形で盛り上がったのだろうなと思うのだけど、相手を「男子」と規定したことで自分は「女子」を名乗れると文脈を読み違えたタームでなんかやだなあって。「メガネ男子」って単語ってギャグでしょ。だって私、吉田茂とか森繁久彌をメガネ男子メガネ男子ってキャッキャと持ち上げてたもの。冷静に考えなくても男子じゃないだろあれは。そういうネタでしょ、って前提が反古にされてるのだなあとか、同じくらいの年代の男を「男子」と呼ぶからって自分が「女子」だと短絡的に恣意的に若返らせるのもどうなのよ、とか、そして「ネタだよ」ってエクスキューズできる程度の保険をそのタームに忍ばせているのも嫌だなあって、逆にその本気度が痛々しいわ。

「ガーリー」の消費の仕方が見苦しいんだよ、おばさんら。同じ年代でも「ガーリー」の消費にガッツいてる人みると悲しくなるの。近親憎悪以外の何者でもないのだけど、あんなにあけっぴろげにガーリー・コンプレックスを他人にみせつけるのは恥ずかしいことだなあと思う。ヤフオクでレアな和服や洋物キッチュ人形を漁ってる姿が、どっから見てもおばさんだと思う。
あれは自分が消費される側にありながら消費されなくなったことについての開き直りなのか、それとも消費されてしまう側に置かれている性である自分を受け入れてその立場に慣れきったからこその潔さなのか、食物連鎖のように消費される前にしてしまえ、というあせりなのか、あー「消費される前にしてしまえ」という態度は真性少女の態度だからあのおばさんらには当てはまらないなあ。
「ガーリー」をやりきれなかった立場としてのコンプレックスは金で解消できるものなのだろうか。全ての代償行為は醜いものだったかなあ、と考えたのだけど、そうでもないしなあ。
「ガーリー」を自称するものにロクなもんないと思いますよ、私。よっぽど戦略的に使わないと「ガーリー」という単語を発した瞬間に、その本質から離れていくというか、シニフィアンシニフィエの不一致甚だしい。とか書いてみたけど、私、シニフィアンシニフィエについての解釈を間違ってるかもしんない、結構そういうとこ杜撰だから*1
見えない、見せないようにしてるものに名前をつけるっていうのも難しいし傲慢だと思う私は「ガーリー」後遺症に悩むガーリー・コンプレックス持ちなのです。概念としての「ガーリー」は潔癖性要素を孕んでると思うのですけど、ファッションとして「ガーリー」を消費する時に潔癖性の要素は抜けないと消費できない。そういうこと考えるとゴスロリのファッションって潔いよね。ガーリーファッションの流派としては。オリーブ育ちのいやらしさったらない。オリーブ育ちでwafukuやburaisuにいくのが一番悪質だねえ。みなぺるほねんの流派も相当悪質だよねえ。
小花柄とかスターモチーフとかドットプリントとか好きだけどさ、なんか逆に開き直れない自分がちっぽけな存在に思えてきたからこの話、きょうはここまで。

たいせつなものはめにみえないしなまえもつけたくないのです

だから大切にしてる事柄について書く事は難しい。それでも私は書いてきた。書かなきゃ息が詰まるから、空気穴を開けるために書く。ガーリーの膜をキリで刺し続けて一生懸命息をしながら大人になってきた。消費されるとかそんな事考える余裕もなく、生きるために刺してきた。だから大人になって残った「ガーリー」の古傷が痛んでたまに困ってしまう。そして、その古傷を癒したり膿を出すためにやっぱり書く。

*1:一応はてなキーワードみたら、このパラグラフはレファランにあたるものについてまで言及してるかもしらん