「幸せな世界」には憲法九条もマルタ・アルゲリッチも必要ない

さっきCBSドキュメントでガブリエラ・モンテロという女性ピアニストの特集やってて、即興演奏を得意とする人だったんですけど、指がね、短くて太くてころころしてて、私の手に近くて、それであれだけ弾けるのだから圧倒されたのですけど。
彼女にもお決まりの物語がつきまとってて、この前までその著書を読んでいたエレーヌ・グリモーとは女流でピアノの才能があり同世代というだけしか共通点はないのに、なぜか似たような物語に絡めとられてて、そこから救い出したのもアルゲリッチだったというエピソードまでついててまたマルタか、と思ったのですけど、マルタ・アルゲリッチが『天才少女』だったのはいつの話だ、グリモーは1969年、モンテロは1970年生まれですよ。なんでマルタの苦労を彼女達も受け継がなければならなかったのか。むしろマルタがいなくてもやっていける方が幸せなんだろうなと、強く思った。マルタの前に道はなし、マルタの後ろにはマルタ以外の導き手はなくまごついている『天才少女』達。マルタに救われた存在はマルタの役割をいずれするのだろうけど、そんな細々とした支援活動なんかなくてもやってける方が全然いいのだ。マルタの大いなる母性におんぶにだっこじゃいかんのだ。それはマルタ・アルゲリッチという特異な個性がそうそう生まれるものじゃないから、そう思う。
そんで、こういうお話をしめくくるのがラフマのピアコン2番をロンドンで弾いてるモンテロの映像だったんですけど、ベタだけどやっぱりこの曲感動するよね。今週に入ってやたら違うアプローチで偶然この曲に触れてるけど、接している分野からしたらある意味当然なのかもしれないけど、ラフマニノフの度量の広さはいいなあと思います。

話は変わって。
憲法九条を世界遺産に』読みやすかったから一気に読んだ。面白かった。


憲法九条を世界遺産に

憲法九条を世界遺産に

憲法九条の出現の仕方は私にとって高橋大輔を見出した時のような感覚であったのかもしれないと思った!
私は最近やっとフィギュアスケートについて語る言葉を持ち始めて、憲法について語る言葉はまだ持っていないからこれくらいしか言えないです。ただ、いつか私も語る時期がくるだろうとも思った。
九条の会っていうのがあって、こちらは錚々たるインテリ(+エキセントリック)軍団がしごくまっとうに活動してるのですが、あの生真面目さが壁となってとっつきにくいとこあるんですよね。
九条の会の呼びかけ人→http://www.9-jo.jp/profile.html
太田光中沢新一はあえて「わかりやすい」語り口調で伝えようとしていて、その「わかりやすさ」の表面に諸手をあげて飛びつくほど私は純粋な人間ではないですけど、彼等がなりふり構わずそういう手段を取って欠点もさらけ出して格闘している姿はいいなあと思いました。
憲法九条にまつわる特異な個性やエピソードはやっぱり面白いや。
日本人にとっての憲法九条ってね、アメリカ人のアンクル・サムやフランス人のマリアンヌみたいなもんじゃないかと思いついたので書いておきます。