もののあはれ

marginalism2007-04-07

今季のテーマは実は「コア」でした、とたかはしはんがゆうとった。私の夢の中でゆうとった。
そろそろ夢から醒めなければならなくて、だって、私は、橋本聖子が毎日毎日メダルセレモニーに出ていたことになんのツッコミも入れてなかったと気付いて、国会議員が統一地方選真っ最中にこんなとこいていいのかよ、と普段の私だったら絶対言ってて、北海道知事選なんて今回の統一地方選の要注目つうか与野党激突の厳しい選挙戦やってるのだから、地元出身でイメージもよい五輪メダリストの国会議員の応援演説なんて欲しいに決まってんじゃんか、と気付いたのがついさっきで、投票2日前なのか1日前なのかわからないくらいの時間で、本当に私どうかしてたんだー、というかまだどうかしてる。
仕事中の雑談的なものでも「フィギュアスケートすごかったねえ」と軽い気持ちでチームの人に振られて、私も軽い気持ちで「ほんとすごかったすよ、私が選挙始まってるのに気付かなかったくらいすごかったす」とかえしたら、話し相手がこれまた大仰に驚く驚く。そんなに私選挙好きだという認識されてましたか、と、私がびっくりしましたが、自己紹介の時に「政局という言葉をきくとうずうずしてたまりません」と言ってたらしい(本人は覚えておらん)ので、そりゃまあそういう認識されててもしょうがないか。選挙好きもフィギュアスケート好きも少しは役に立つ仕事でよかったです。それでなんとか許されてる面があります。
それだけ選挙好きの私が未だにフィギュアスケート>選挙なのでワールドというものは恐ろしい。トリノ五輪の時にトリノから連日橋本聖子が出てくる度に「お前、今国会開会中だろ」とツッコんでた私が全く消え去っていた。恐ろしい。

今季一緒に戦ってきて思ったことメモ。参考URL→http://www.worlds2007.jp/j/special1.htm
つうか「一緒に戦ってください」でググると最初にこれ出てくんのね。→http://www.resonacard.co.jp/reds/column_0302.html
不覚にも泣ける。敵方の大将のお話ですが、本当に彼は敵ながらあっぱれな人だったので。これはこれで話が膨大に広がってしまうので今回は切り上げます。
つうか魁皇まで、こんなこと言ってんのか…私、相撲のことはわからないんだけど、魁皇サーシャ・コーエンステイゴールド、という例えを見て、魁皇以外には大変に思い当たる節があったので、周囲の好角家がそろいも揃って魁皇について語る時の熱意のありかが一瞬にしてわかったのでした。
まあ、「一緒に戦ってください」と言えるのは、本当にしっかりと戦っていて、なおかつ応援している人々と信頼関係ができているアスリートだからだと思うのです。このキーワードでググったら気付いたけど。
そして、「一緒に戦ってください」と言えるアスリートを応援している人たちがそのアスリートについて語る時、例外なく見ていてこっちが楽しくなってしまうような顔をしてるんです。ググって1ページ目に入っているリンク先をチェックしていたら、そのアスリートをこよなく愛している人の顔がそれぞれ浮かんできてちょっと参った。あのレッズサポの人やらあのベイスターズファンの人やらあのフロンタサポやらあの魁厨の人やらがあんなに愛おしそうに語っているように私も「ああ」と思われる顔をして語っているのだろうか、好きな選手を語る顔はキラキラしてるんですよね、みんな。同性の選手について語っている彼等と同じような顔を一応異性のフィギュアスケーターについて語っている私がしていて、それと同種であると認識してもらっていればよいのですけど。なんつうかストイックでプラトニックな印象をあたえ、むしろ神々しささえ感じる彼等と同じ場所に分類されてればいいなと。
本題になかなか入れないな、今季の(多分)滑り納めの「オペラ座の怪人」には泣かされました。本人も泣いてたけど。本人が泣いてたから泣かされたんだけど。
もらい泣きという意味だけではなくて、「本人」ってその滑っている人だけじゃなくてファントム本人のこともさしていて、なんだか滑っている人と「ファントム」じゃなくて「エリック」という名前を持った青年が未分化であったように見えた。渾然一体というんじゃなくて見事に二つのペルソナ(人格・仮面)が重なっていた。泣きじゃくってる顔がなんか二つの「本人」がペルソナをはぎとったコアな所で共鳴し合って涙を落としているようにみえた。
哀しいお話を破綻なくやりきって、お話の最後に破綻して放り出された人の魂が解放されて昇華して、哀しい歴史が終わったようにみえた。神話に出てくるシャーマンの儀式みたいなものに立ち会った気持ちにもなった。
そして実際何重もの意味で展開がカタストロフ→カタルシス、ということになってて、私は哀しいお話を演じる人がその哀しさの重力に飲み込まれて潰れてゆくのを目の当たりにした経験も沢山あるから、哀しさに飲み込まれる人をみるのはもう嫌で、「オペラ座の怪人」をフリーに選んだと知った時、嫌だなあ、と思ったり不安になった気持ちも実はあったのだけど、悲劇をテーマに据えて、その悲劇の主人公の魂を解放して天にあげることができて、自分自身も幸せをつかみ取ることができる、ということがあるんだとわかって、この人はすごいなあと思った。この人に哀しい魂や苦しい魂を託しても大丈夫なんだ、と思った。泣きじゃくってる姿をみて外面的にはどう振る舞っていたのか覚えてないけど、心の中では私はしばらくポカンとしてしまった。
私がポカンとしてた時間が二つの「本人」の魂が重なっていた時間だったのだと思う。あの涙はエリックの涙でもあったんだと思う。今私はものすごいものをみているから何も考えずにこの時間の感覚を焼き付けておこうとした。分析回路を走らせるのを完全にやめた。ただその空間と時間にポカンとしていた。そうするしかなかった。
私たちがどれだけの重圧をかけていたのかあの泣き顔を見るまで気付かせなくて、この人どれだけ孤独な戦いをしていたのだろうか、と私の「ポカン」に感情がつきはじめたのはリンクから降りてコーチと抱き合って泣いていたあたりから。
リンクから降りた時に重なってみえていた片方の魂は天に昇ったのだろうと思う。そしてその時に私が一緒に戦ってきた人が泣いていると認識した。直接一緒に戦っているチームの人々と抱き合って泣いている姿をみてやっと私も泣いたのだった。夜道で迷子になった子供がやっと自分の帰る家を見つけて扉を開けて飛び込んできた時のような泣き顔をみて「お帰り」という気分にもなった。どこに帰ってきたのか、その時はよくわからなかったけど、でも「お帰り」と思った。「えらいえらい頑張ったね、あったかいシチューあるから食べなさい」という気分になってた。小さい弟(もしくは息子)がようやく帰ってきた、という安堵を感じていた。実際に自分の弟をそうやって迎えたことはないはずなのにかつてあったような、そんな気分になった。
多分、ずっとずっといろんなところでいっぱいの「オペラ座の怪人」というお話が今まで演じられてきて、これからも演じられてゆくのだろうけど、私はこのお話はもうあの舞台で終わったと思った。長い間いろんな芸術家が取り組んできて誰もできなかったことを彼は成し遂げたんだと思った。だから、この物語はこれから余生に入るんだなと思ったよ。スレた人間からすると大味とすら思える単純明快なストーリーにここまで深みを出せる人がいるとは思ってなかった。物語を読む時にスレた視点を持つ人間はそれにとにかく一番驚いた。彼にはもったいない、もっと抽象的な表現をできる人なのに、と思っていたけど、ベタな話ですらここまで深く表現できる能力に驚いた。
本当にとても繊細でありなおかつタフな人だなあと思う。
全日本選手権ではみたいものを全てみせてくれたけど、世界選手権ではみられると思っていたものの遥か遠くまでをみせてくれたのでした。私はフィギュアスケートじゃなくて神事をみてしまったのでした。私が貴族でシャーマンを呼びつけて神事を執り行わせた、みたいなイメージが勝手にみえたのでした。
実はここまで書いてきたいくつかのイメージが鮮烈に乱雑にこびりついていたので、この時期までうまく言葉にできなかったのでした。時系列がぐちゃぐちゃで私が今生きている時代がどれなのか混乱していたのでした。北欧ぽい設定であったりギリシャかエジプトか?みたいな設定であったり、日本の古い時代?みたいなものだったり、あともちろんフランスの情景だったりがごっちゃごちゃになってた。これがなんなのか今でも説明つかん。ただクラクラした。

「幽玄の美」とか「もののあはれ」という言葉はあの時間から割とすぐに降ってきたのだけど、それをどうやって定着させればいいのかなあ、とずっと格闘していて、リンクの上でみせてくれたものを言葉に定着させるのが私の役割なので、一生懸命やってみましたが、一生懸命やってみました、としかいえない感じです。「はじめに言葉ありき」が非常に重い言葉で聖書の冒頭に使われるだけのことはあると思いました。言葉というのは確かに論理体系がしっかりしないと意味をもたないのでした。言霊とロゴスが交わった地点に初めて言葉が定着するのだと思いました。私は一応言語芸術の分野で格闘している人間ですが、言語をただのコミュニケーションツールから芸術に高める触媒として必要なものについて改めて気付かされました。コミュニケーションツールとしての言語と言霊は不可分のものではないかも、とも思った、なんとなく。

なんつうか「幽玄の美」とか「もののあはれ」ってものすごく日本的情緒でその感覚を違う文化圏の人に説明するが難しいものという認識だったのだけど(日本マニアの研究者とかじゃなくて一般的な人々に対して)、彼が表現したものはまさにそれで、みてくれればわかる、というもので、みてくれればわかる、という表現者は強いなあと思いました。みればわかるという表現方法をもっている人々が一次的表現者なのだとしたら言語芸術の人間はそれを説明しつつ魂を入れ直すという翻訳者の役割の表現者なんだと思います。どっちがいいとかじゃなくて役割の違い。私たちに求められるものは強さよりも小賢しさなんだと思う。
そして私はとにかく言葉を知らなすぎる、と痛感しているのでした。ツールとしての機能も霊としての機能もちょっと知らな過ぎて打ちのめされてました。私が手にしているものは全てにおいてまだまだちっぽけなんだと痛感してます。バンクーバーまであと3年のうちに表現者としてなんとか追いつけるように頑張ります。