130円の新聞には130円分の情報しか載っていない

これ、とあるジャーナリストの方がおっしゃってたんですけど。
ネット上で読むのは130円すら払ってないわけで、ブログなんかでよく新聞社配信の記事について色々ケチつけてるのを見る度にあった違和感はそれだったのかと思った。
130円分の情報をタダ見して、その中身がお粗末だ言い回しがお粗末だ、ってそれは当たり前の話なんだよなあと。書かれている事象じゃなくて、その記事の文章自体に130円で何か求めてもなあって、だって新聞は文学作品じゃなくて淡々と事実を伝えるメディアであるはずだから。
正義という名の偽善で出来上がっている大組織に立ち向かう個人、っていうそんな大それた図式じゃないよね、130円を巡る攻防なんだから。130円にそこまで振り回されなくてもいいんじゃないかって。この感情だったんだなあとすっきりした。だって競馬新聞は400円だもの。文体うんぬん関係ないとにかく情報に特化した競馬新聞一日分で一般紙の朝刊は三日分買える。一般紙なんて所詮そんなもんだ。
そもそも言い回しだって共同通信の記者ハンドブックにルールが書いてあって、それに準拠した言い回しじゃないと新聞としては流通させられないわけで。これが結構不自由なんだ。意外な言葉や表記を使っちゃいけなかったりして。
興味がある人は読んでみたら→http://kk.kyodo.co.jp/pb/hb/handbook.htm
もの書きやってる人ならまあ持っていて損はない。私もこんなブログのためには使わないが、それ以外の時にはごくたまに使う。その度に窮屈な気持ちになる。

記者ハンドブック -新聞用字用語集 第10版-

記者ハンドブック -新聞用字用語集 第10版-

文脈からすると褒められているのに、たった一つの単語をそこで使ったばかりにそれが気に食わないというのは、まあそのこだわってる人々がその言葉にそれぞれこだわりがあるんだろうけど、それで全体が見渡せなくなってるんだろうなあと思って、ポジティヴ(←これちなみに新聞的にはNG表記)なこと書かれてるのにもったいないなあって。私にもそういう単語はあるけど、その文脈でなんでそんなに憤っているんだろう、と思うこと多々あり。他人から見たら私のそれもそうなのかなあ、例えば左のバナーにあるように性犯罪を「いたずら」と呼ぶのとか。
報道は事実を伝えるだけで、特に新聞やテレビというのは私の知っている限り(だから現在の日本の状況だけだ、他の国はしらん)最も表面的なことしか伝えきれないもので、紙幅も文字数も限られているから全体のバランスを見た時にその単語を選択することは基本的には別におかしくないと思うのです。マスメディアは一般大衆のためにあるものだから。ごく少数の意見を取り入れて多数の人を敵に回しちゃうとマスメディアにならないから。でも、そのごく少数の苦情さえ事なかれ主義で取り入れてどんどん窮屈になっていってるのが今のマスメディアの実情なんだよねえ。それはいわゆる「言葉狩り」と呼ばれる現象です。
文学作品にとってはその単語をなぜ選択したのか、というのは充分討論に値するテーマなのだけど、新聞報道だと枠からはみでちゃいけないからなあ、つうか新聞記者とかライターってテンプレあるからさあ、その通り書かないと新聞記者やライターができないのよ。そこからはみ出たものはチラシの裏という名のブログなんかに書けばいい、というか「お前の言いたいことはわかったが、それを出すと商売にならないから、それでも書きたいなら自分で自由な身分になって勝手に書け」という世界だからさあ。趣味性の高いものでのライティングはもうちょっと自由になるけど、それでも枠はあるんだからさあ、そのものを手に入れるためのコストと読んで得た情報のヴァリューを計算して初めて批判はできるんだろうなあと思った。
まあ新聞はまだいい、それでも自分で金を払って読んでいる人は読んでいるから。この問題が見えにくいのはテレビなんだよなあ。

私は、テンプレ通りに書いて色々裏工作できる人(平たく言うとナベツネ)になりたかったのだけど、テンプレ通りやっているはずなのになぜか全然テンプレからかけ離れてしまってそこに潜り込めなかったし、ここ最近自分がつくづく報道向きじゃないなと痛感しているので、テンプレ通りの記事を書く才能がある人には敬意を持っています。彼等彼女等がテンプレ通りにおさまらない人間達に敬意を持っているのと同様に。
報道言語って日々触れていて、そろそろ限界かな、とすり切れてきている自分を感じるから、ほとんどテレビのニュースを見なくなってしまった。
言葉にはいろんな分類の仕方があるけれども、日本語と英語のように報道言語と文学言語は違うなあと思う。

私が幼い頃からニュースを見るのが好きだったのはそこに物語があったからで、表面的にしか報道されていない物語の裏を探るのが大好きだったから。裏を探るスリルと辿り着いたところにある人間臭さに惹かれていたから(だから人間じゃなく金が中心にある経済ニュースはほとんどわからん)。でも、もうそういう段階じゃないなあと思う。マスメディアの配信するニュースも私もどっちも、なんか、違う段階に入ってしまった気がする。ニュースの裏を探るスリルより辿り着いた先にある圧倒的な真実が目を背けたいものが多くなって疲れてきた。なのに垂れ流されるニュースの量は増える一方で、触れるニュースの量も増える一方で、もう私はニュースと蜜月期間を二度と過ごせないなあとわかってしまった。薄っぺらいニュースの裏でうごめいているものの存在にも気付き始めてきたから、だから瑣末な事象(言葉尻とか)にとらわれていてはいけないなあと改めて思う。そこに宿る精神が批判すべきものでも、いちいち絡んでいるほどの余裕はないや。本当に戦うべきものを見極めることから始めないといけないと思う。私だけじゃなくてみんな。小さいところで潰し合いしているうちに本当に戦うべきものが見えなくなるってよくあることだから。