ベートーヴェン門外漢ベトコンを聴く

これ買いましてん。
http://www.hmv.co.jp/news/newsDetail.asp?newsnum=707200050
って私失敗した。国内盤が欲しかったのに今月発売のは輸入盤しかなかった。おかしいなあと思いながら買ったのは私がおかしかったのだった。
私はほんっとぜんっぜんベートーヴェンに興味なくて曲もほっとんどわかんなくて、この曲も超有名な曲のはずなのに他のベト弾きと呼ばれる人のものもベト聴きと呼ばれる人達がどういうものを好きなのかもわかんなくて、ベト好きってそういえば出会ったことないなあ、クラヲタの中ではメジャーな部類に入る人達な気がするんだけど。でもそんな私でもピアノ協奏曲「皇帝」のタイトルくらいは知っている。だからきっとこの曲のCDを出したのも勝負なんだろう。
曲の解釈自体のよしあしは正直わからんけど、私はこの人の音が好きだから聴ける。一つ一つの音を丁寧に響かせて出してくれるから。自分の弾く楽器でどうやったら一番柔らかく響いて下品にならないギリギリのところまで鳴る音を出せるか知っているところがいい。私がこの人のピアノを好きなのはポイキオのスケーティングが好きなのと一緒なんだな、と思った。一つ一つ丁寧に扱ってくれるところとか、細かい所まで手を抜かないところとか、派手じゃないけど落ち着く。つまるところ私の目指すのはグリモーやポイキオなんだろう。
クラシックコーナーの試聴器の前でディスクナンバー間違って、その間違ったナンバーのCDをちょっと聴いたらピアノの音が潰れていたり弾き飛ばしを連発していてびっくりしたんですね、というかショックだったんですね、この人こういうピアノじゃなかったのに、何があったんだろうって。そしたら今回どう考えても収録されるはずのないラヴェルのピアコンが最後に入ってて、あ、私がディスク間違ったんだ、と気付いた時にほんと安心しました。それくらいベートーヴェンの曲知らん。ずいぶんベートーヴェンぽくないなあ、つうかプロコっぽい?とかは思ったけどさ。
グリモーがフランス人なのにフランスものをあまり弾かないのは今この「皇帝」聴いてるとなんとなくわかるかなあ。音のカラーがあまりフランスものに向いてないのかも。聴きたいけど。私ドビュッシーヲタだし。基本フランスものとロシアものしか聴かないし。
本命のクララ・シューマンのピアノ協奏曲の録音を待っているのはもちろんなんですけど、この人がシベリウスの何かをピアノで弾いてそれでポイキオが滑ったら私どれだけ幸せだろう、と考えてみたら想像以上に感動しそうだった。フィンランドはどうしてみんなスケーティングなめらかなんだろうなあ、コルピはちょっと今のところフィンランド的には劣るけど、多分他がよすぎるんだな、男子もヌルメンカリ生で見たらスケーティングはフィンランドらしくなめらかでよかったものなあ。私にとってはつうかスケーティングフェチにとってはフィンランドって国は「スケーティング・フィン」なんすよねえ。

これ、全くベートーヴェン聴いてる気分にならないのは、フォルテがベートーヴェンのフォルテじゃないからですね。あのフォルテ私苦手みたい。あのフォルテがないから落ち着く。ベートーヴェンのフォルテなのに大げさじゃなくて上品で滋味のある響き。あのフォルテこそがベートーヴェンなんだろうけども、あれがいいっつうのがわからん。私がベートーヴェンの良さを理解するには彼に滑ってもらうしかないっすね。
追記:「皇帝」って今二楽章聴いてて思い出した!あの曲か!バーンスタインがウエストサイドストーリーの楽譜を書く時にSomewhereの元ネタにしたというあの曲だ!トニーとマリアのラブシーンの曲。東京ワールドのエキシビでサフチェンコ・ゾルコヴィー組がペアつうよりアイスダンスみたいな情感出して使ってた曲。トレースが綺麗でした(スケーティングフェチなのでペアはこの組と川口・スミルノフ組が断然抜けて好きです)。
私はこの部分演奏するのが好きだったんでした。ああこの曲の元ネタってなんだったっけなあ、と思い出せないままきていたのが15年後に思いがけず判明したので今とても嬉しい。バーンスタインが弾きながら、でもこっからの展開違うよーってやってる映像見せてもらったんだよね、確か。高校の音楽室で。私の高校は音楽室とその隣の教室からだけ海が見えるので、私は音楽室が好きだったんでした。冬も音楽室から見る雪景色が一番綺麗だった。ぼんやり授業中や練習中に外見てる時間が今思うと幸せだった。本当にあの景色が大好きだった。
あの景色のおかげでなんとか呼吸できて、あそこを出るまで景色に助けられてなんとか生きのびることができたと思っている。
えと、ついでに。私にとって「無難」という言葉は憧れの言葉だったんですよ。物心ついた時から「お前はおかしい」と言われ続けていたのでそんなこと言われない無難な人間になりたいといつも願っていたし努力していました。それが叶わないと受け入れざるを得ない瞬間までずっと20年以上。「無難でありたい」というのが痛切な欲求だったというのは理解されないものなのかもしれないけど。今でも体調が悪い時にやらなければならないことをなんとか無難にこなした時に一番喜びを感じたりするので、何がそんなに嫌なのかわからないし憤りに違和感があったのです。こういうこともっと素直に書ければよかったのだけどなあ。難なく何かをやり遂げるのは素晴らしいと思うし、意図的ではなくともいちいち個性押し付けると結果的に必ず反発が出てしまって、その反発に自分が疲れてすり切れてしまうから、「無難」という言葉は私は単純に褒め言葉としか受け取れないし、褒め言葉としか使えないのです。私がこの言葉を使う時は「なんとかなった!」という喜びが伴う褒め言葉が多いです。