泣きたくなるような夕焼け空を見ても

泣けない自分が悲しい、そんな毎日です。というか、そんな8月でした。
8月を振り返ると外に出たのは病院などの治療に関する事と必要最低限の生活物資の買い出しだけで、それに関係ないのは病院ついでに本屋とCDショップで買い物した時だけですね。8月の日記に書いてる大きいイベントがその二つだ。
私は人一倍人前で泣く人だったはずなのですが、いつの間にか全く泣けない人になってしまっていて、大人になるとめったに心を動かされなくなってしまうと思っていたけどそれは反対でいちいち動かされすぎて戻ってこれなくなりそうで気をずっと張ってしまってうまく泣けないってことなんだなあと。病院の診察室でだけ泣きじゃくるのはあらゆる意味で惨めだなあと思ってしまった。惨めで更に涙が止まらなくなった。自分の涙で溺れるのが怖くて我慢するっていう。無邪気なうちに泣ける人は泣いておけと思う。

そんな最近ですが、久々に一人で泣きました。自分のやっている作業がどこらへんを歩いているのか全くわからなくて遭難していても誰かが助けてくれるわけじゃないから、でもそれを失敗するのが怖くて目が潤んだ。

怖かったです。自分が描いている風景がつかめなくなって怖かったです。そこでの風は偽物なのかきちんと吹いているのか、匂いはどうか、そういうものが全く判断できないと全く何もできなくて。太刀打ちできなくて。嘘がまじってはいけないのに嘘なのか本当なのかわからないと全く手も足も出ません。全てが自分が自己満足のためだけに手のひらの中でこねくりまわしたものであるような、描きたいものの魂が抜けていったような、そんな気持ちになってしまって、どうしていいかわからなくなりました。ただただ涙がわいてきました。

無邪気に外に出ることができなくなって何年経ったのか、7,8年?いや、大学後半には既にその兆しがあったからもっと?ちょっとわからないのですけど、誰にも頼れないってやっぱりきついですよね。本当は力を貸してくれるだろう人に拒否されるのが怖くて自分で突っぱねてるだけな部分も多々あるのですけど。そういうところなおさないと、本当に私は行き詰まってしまうからよくないです。甘えるのがずっと苦手なんです。本物の優しい手なのか優しさを装っている手なのか見分けがつかないと大変な目に遭うというのも知ってしまったから余計簡単に飛びつく事ができなくなってしまいました。
私自身はいつでも本当に困っている人には本物の優しい手を差し伸べたいとは願っているけど、それができていない自分にも腹が立ちました。

よく私は泣いていたけど、しっかり考えてみたら人前で泣いていた時も根本的には自分のことではあまり泣いていなかった気もします。人前で自分のことで泣いて許される場所や空間は私には与えられてないと思い込んでいた節があります。でもよくわかんないや。女友達の前ではごくたまに泣かせてもらったりすることもあるのですけど、男の人の前だと全くダメですね。でも本当は一番男の人の前で泣きたいんです。信頼している男の人に身体預けきって泣きたいんです。男の人をなかなか信頼できなくてそれができないのが悲しい。そんな男の人としか接してこなかったのが悲しい。ガードを解いて接することが初経前に既にできなく今に至るまで続いているのが悲しい。やっとできたと思ったのがまやかしだったのが一番悲しい。まやかしに気付いて追い払ってからもう3,4年経つ今でもそのまやかしに現実認識が負けている弱さが嫌だ。人一倍傷つきやすくて無邪気で脆い部分を人前に出せない弱さが嫌だ。他人を心から信頼できない人間は弱い。

私の課題は安心して頼ることができてその人の前で泣ける男の人を探すということなんだろうか。他人に頼り切るということができている人はそれだけで奇跡的なことを成し遂げていると私は見てしまうのですが、それを日常的にいともたやすく成し遂げている人は沢山いるんですよね。ドラマチックな日常なんていらんですよ、ほんと。そんなもんテレビドラマの中だけで味わってりゃいいんですよ。「毎日が平凡でつまらない、だから何か事件ないかなー」といえる幸福を私はかつて全力で妬んでいましたから。全力で妬む虚しさも知ってしまった今となってはただただうらやましいです。

ぽーっと気が抜けてて、気が抜けてるから気張れないから外に出られなくて、こんなこと繰り返してるのにもうんざりしています。

誰かの悲痛な叫びには敏感でいたい、と思っていたけど、これ、私があげている悲痛な叫びなんでしょうか。
今、自分で判断できないから、そういうものに触れたくない人には気を遣えてないかも。悲痛な叫びは気を遣わなくてもいいものなんでしたっけ?もう今全然わかんない。