わたしのふるさと

「小さな悪の華」試写会行ってきました。
少女が二人で自転車で緑の小径を駆け抜けていくシーンを見た時に「ああこれでオッケー」と思いました。
あの道は私が彼女達の年代であった頃に通じる道です。だからオッケーです。よく知っている光景がよく知っているまま出てきたからオッケーです。
第二次性徴に差し掛かった女の子は、それまで自分に備わっていてこれからも当然ずっと続いてあるものだと思っていた自由と万能感覚、背中に羽が生えているような感覚、を突然むしりとられ、突然血を流し、突然身体のラインはでこぼこに崩れ、その突然起こってしまった自分の変化も何も変わらない他人も憎くなるものである。だから少女が小鳥を殺すのは正しい。自分がそれを失って初めて大事なものであったと気付いた自由の翼をぬくぬくと一生備えていられることができる小さな鳥は憎いに決まっている。彼女は自分の感覚に従順である。そしてその死に実際に接して戸惑うのも彼女が本質的に特権階級のお嬢様であり生真面目で繊細な優等生であるからであって、その揺らぎもまた正しい。この映画は詰めが甘い所はあっても大事な所は外していなかった。だから少女映画として充分鑑賞に耐えられたし、私が大事に心の底に隠している小径とつながったんだし、少女達以外の登場人物が一様に薄っぺらい人物造形であるのもまた少女映画の視線としては誠実でした。
彼女達に欲情する男達の価値観はスコセッシの「タクシードライバー」でのロバート・デ・ニーロの役回りの人間が持つ価値観、もしくはフェリーニの「道」でのアンソニー・クインの役回りの人間の価値観、あれであって、私はそういう男達の視線や暴力から逃れるために自分からカトリックの女子校に飛び込んだのだけど、その内部のあきれる程に陳腐な世界にもまた絶望しっぱなしだったから「小さな悪の華」の少女達の置かれている状況は日本の特に信仰を持たない人間の中ではわりかし理解できる方だと思う。そしてその頃の自分が見てもこの映画には欺瞞は感じなかっただろうからいい映画だと思う。
ところどころであの頃、私が聖書として設定していた岡崎京子漫画を思い出した。私の岡崎京子は2007年現在でそういうものとして語られている文脈での岡崎京子じゃないので、説明するのは難しいのだけど、私は岡崎京子のやや牧歌的な漫画が好きでその世界に交わりたくて一人で夢想していたので、彼女達の姿が懐かしかったです。
タクシードライバー」でのジョディ・フォスター演じる少女娼婦の世界観にはもしかしたらこの映画はリンクしてるかもしれません、あの映画はほんとコミュニケーションが断絶したまま野蛮な男の視線からのみ描かれていたので私は見ていて気持ち悪くてしょうがなかったです。それと同じように「小さな悪の華」は「タクシードライバー」の主人公の気持ちがわかる人にとってはつらい映画かもしれないです。
ただ、私は「小さな悪の華」に救いを見た。彼女達は「少女である己」に殉死した少女界の聖人だ。彼女達の「正義」の魂を忘れないまま生きながらえ、語り継いでゆくことが私の使命です。

YouTubeにこんなのあったのでついでにのっけときますね。

http://jp.youtube.com/watch?v=bhxGD9K3gH0