孤独の大地

私のことを信頼してくれる女の子の日記を読んでつらつら思ったことをその子の日記にコメントしてきたのだけども、自分のところにも置いておきたいような気がするので、こっちにも一部修正・加筆しつつのっけます。

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エドワード・W・サイード千原ジュニア高橋大輔が私の中で同じ箱に分類されてて、どうしようもない状況下から逃げようとしたり荒れたり、さんざんもがいたけど、結局あまりにも自分にしか出来ないことがあって、それを背負わざるを得ないからにはまっすぐに背負う、というその個人に託された使命にまつわる孤独と暗さと、でもヘテロの男の子特有の脇の甘さもあって、そういう人が私は好きなんだなあと最近思った。サイードの自伝とか割と馬鹿男子部分も出てて面白かった。

ジュニアさんもヘタレ伝説とかサイドストーリーとしてあるからめちゃくちゃ好きなんだと思う。

それに対して、しょこたんの中の人の暗さは女子の暗さだから、ちょっと種類が違うかもしれない。他のヲタアイドルとかといても上っ面では楽しそうなのにあの子は満たされていなそうで孤独なままだ。他のヲタアイドルは充分に満たされているようなのに。「しょこたん」にはクレバーな女の子の選択の余地のなさを感じて見ていてつらくなることもある。彼女にはあれしか表現手段がないんですよね。賢いからこそほかの可能性を捨ててしまった女の子。男の子だったらもっと選択肢があることも知っているけど、自分は女の子だから、そして見た目と出自がこうだから、こうなるしかない、と全部わかってしまった子。 「可愛い女の子」であることを受け入れる苦しみも知っている、だからこそ全く脇の甘さがない子。
上の男性三人とは微妙に事情が違うんですよね、中川翔子という女の子が男の子に生まれていたら、きっともっと生き方を選ぶことができたから。(そしてまた、上の三人が女の子に生まれていたら、それはそれでもっと楽に逃げたり、その立場を回避したり、もっとうまく立ち回る術があったと思う、が、私には彼岸の状況がはっきりとはわからないので、彼等のことはあくまでも想像でしかない)

これは、ジェンダーとマイノリティの話を一旦切り分けた上で更にまた統合して考えないといけないセンシティヴな問題であり、私は、違う性に生まれ育っていたら、自分の中のマイノリティ成分とそこまでガッチリ向き合わなくてもよかった人達のことが気になるのかもしれないです。

ただ、ここまで名前をあげた人々がそれぞれ最も深い孤独の暗闇に落ちた時の、その落ちた場所は、実は地続きの場所なんじゃないかと、なんとなく思います。それぞれにそれぞれの姿はみえないけど、その暗闇は広大な大地で、一人だと思っても、実はいろんな人がそこにいるんじゃないか、そこを知っている人達だけの共通言語や共通の景色、通じ合えるものがあるんじゃないかと、なんとなく思う。

更に、ジェンダーとかセクシュアリティとかマイノリティとかそういう問題を軽く飛び越えているレナード・バーンスタインや、モーリス・ベジャールという表現者もいて、彼等がヘテロじゃないからこそ辿り着いた境地というのは、「ゲイでもバイでもビアンでもヘテロでもとりあえず人間じゃん?人間を好きならオッケーじゃん?」みたいなものすごく幅の広いヒューマニズムというか、人間だけじゃなく、生きとし生けるもの全てへの愛情を感じる表現をするから、私は彼等がとても好きで、彼等の愛情表現に包まれるという行為が好きです。最初からその境地に辿り着けていたのなら、それは本当にすごいけど、きっと彼等もそこらへんのマイノリティ並に悩み苦しんだ末に導き出した答えだと思うのです。

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参考文献

遠い場所の記憶 自伝

遠い場所の記憶 自伝

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私信:2008 4/1の桜の写真って大塚の陸橋のところ?あそこを3月末に歩いた時、あまりにも綺麗でその下に広がるあまりにも俗な町並みと相まって、異次元に連れていかれるかと思った。