放心・蕩心

このタイトル、武田百合子松浦理英子へのオマージュとかそういうのどうでもいいよね。
赤と黒ってお前らスタンダールかよ、とか言ってるのもどうでもいいよね。

そういう前振りくらい入れさせてもらわないことには、もうなんだか。
DOI観た後、まさにそんな感じで、帰りの電車で倒れそうになりました。夏がきたって感じです☆PDの皆さん気をつけてね、私も気をつける!

高橋大輔新SP、あまりにもストイックにセンシュアルで、頭の芯がぼうっとなって、家について、緊張感から解放されたらちょっと泣いてしまった。
乾ききった心を潤すためにここ数日でぐびぐびと小説読んでいて、DOI行く直前まで水村美苗の「本格小説」を読んでいたので、たろちゃんとよう子ちゃんなんかも頭の中かけめぐったりして(私は水村美苗の小説を大事に読むが他人にはおすすめしない)、奇妙にそれでいてはっきりと懐かしくて心が締め付けられました。
懐かしいというか「saudade(サウダージ)」、これ、私の感性の肝にあるみたいなんだけど、そこが揺さぶられた。

あとは帰ってきてから書きます。
美姫ちゃんとあっこちゃんが他ではものすごくよかった。ここにいるボレロ厨だまりこんだ。


湯島天神の大祓にいったらお神酒に口をつけただけで二日酔いになるという情けない状態からちょっとだけ復活したので追記(7/1)

あの初お披露目SPのせいで仕事中も泣けてきて困った。時間をおけばおくほど瞳孔が開いてゆくというか、体中に浸透していってるというか、「なんだったんだろうあれ」感が日増しに強くなっていって、テレビ放送の録画見れません。心の底にある栓をがっちり掴まれて突き動かされている感じです。

私はジョルジュ・ドンに間に合わなかったけど、高橋大輔には間に合った。など、ベジャールバレエを観た後ずっと思っていたのですが(調べたらジョルジュ・ドンとうちの父が同世代というか、だいたい一歳違い、しかもドンの方が年上だったと知り愕然)、ここからボレロの話に切り替えますけども、安藤美姫の『ボレロ』は、ベジャールバレエを相当研究して練習したんだなあというのが伺えて、それで、私が観た『ボレロ』はズアナバールの回で、そのズアナバールと髪型がたまたま一緒でしたし、ベジャールバレエの『ボレロ』の舞台装置や衣装も意識されていて、フィギュアスケートの伝説とか色々ありますけども、そういうのうっちゃって、とにかくジャンル関係なく私のみたかった『ボレロ』が目の前で繰り広げられていたので、きちんとベジャールバレエをトランスしたものがフィギュアスケートでみられたことが何より嬉しかったし、ボレロダンサーの中でも超一流である、ジョルジュ・ドンやシルヴィ・ギエムと肩を並べるくらいの存在感で、私は大ちゃんとドンは同じタイプのダンサーとして惹かれるものがあるんだろうなあと思ったんだけども、だから大ちゃんがボレロやったらドンみたいになるだろうなと思ってたんだけども、美姫ちゃんはそうじゃなくて、誰でもない、安藤美姫以外の何者でもないし何者にもなれなくてそこで自分の個性で『ボレロ』を踊っていて、その「何者でもなさ」は生きる上では非常にしんどいだろうなとは思うのだけど、パフォーマーとしては誰もが欲する個性で、この人にはスケートしかないんだなと思いました。それは残酷なことなんだけども、彼女がそれを受け入れている姿をみるのはとても好きだ。
そんで、ベジャールのもともとの発想の、スペインの酒場の片隅でバーレッスンしている踊り子がいて、その踊りに周囲が気付き息を呑み次第に舞踊の輪が出来て、バッカナール的狂乱に突入というような、そういう雰囲気も醸し出していていいなと思った。尊重されてていいなと思った。ただ惜しいのは、これを15分フルでみたかったなあと思って、フィギュアスケートの尺でどうしようもないんだけど、ラヴェルの『ボレロ』って曲はその良さを活かすには結局フルで聴かなきゃいけないしフルで表現しなきゃいけないんだなと、『ボレロ』の安売りにはやっぱり違和感がある。これはハ長調でフルオケで演奏されてなんぼだなと。編成が増えても減ってもいけない。オケの力もダンサーの力も真っ裸でみえちゃう曲で、安藤美姫がこの曲に負けないというのは、特に女性だとそれだけで個性だなあって。強い肉体を持たないとこの曲にすぐ負けちゃうから。体調不良だったみたいだけど、それでも曲負けしないのはすごいなって思いました。肉体っていうか肉体言語といった方がいいのかな。その使い方で色々ごまかし方はあるんだと思うんだけど、彼女はごまかさないで(ごまかせないで)真っ向勝負で負けないのがいいなと思った。ギエムくらいの強靭な肉体言語をもってるんだろうけど、ギエムとまた違って生々しさがあるのがいい。そもそも女の子で『火の鳥』滑りきれていたこと(しかも4S入ってるし)がすごいんだけども。

ボレロ厨止まらなくなって、このまま思う所バリバリ書いてたらいらんところでパワー使ってまたしばらく寝込む羽目になりそうだからもう切り上げる。

あっこちゃんの『リベルタンゴ』は肩を動かした瞬間に空気が全部動いたねえ。私の介護人(帰りの電車でしっかり役目を果たしてくれました)として同行してくれた女の子がものすごく反応していました。それが嬉しかったです。フィギュアスケートファン以外に伝わってるんだなって。その子があと中庭くんもよかったといっていて、私もそれは同意しました。
男子は、高橋、ややあって小塚、この両名は抜けて見えたのですけど、次くらいに中庭くんがよく見えたです。

ポエタはナハロさんばっかり観てました。ナハロさんかっこよかった。フィギュアスケート以外の肉体言語を吸収しておかないと、フィギュアスケートを語る言葉がなくなってしまうと思ってそっちばかりみてた。

真央ちゃんは、いよいよ現実味を帯びてきた体とまだ現実感の希薄な精神のアンバランスさが気にかかりました。ローリーは現実感の希薄な精神に合わせた曲を使ってきているし、タラソワは成熟の兆しを見せ始めた体に合わせた曲を用意してるし、その狭間でこの子はどう成長するのかなあ、という意味で、もしかしたら今季一番目が離せないのは浅田真央なのかもしれません。

それにしても思ったのは、シニフィエシニフィエのまま、自分の持つ言語に翻訳して表現できる人間の強さということで、シニフィエをこうやってシニフィアンに置き換えていく作業は負けることを大前提としないと勘違い甚だしくなるんだなあと。
説明言語の貧しさを受け入れないと私はなんにもできないなあって。
あるシニフィエを自分の領分のシニフィエに無理なく置き換えることができる人間が芸術家だと思うのです。肉体言語というのはなんと豊穣なものなのだろう、と、体調不良でやせほそってしまった自分の貧しい肉体のことも念頭に置きつつ思っていました。
肉体言語を使うものではなくとも、自分の言語を失うくらいに貧しい体をしてちゃいけないなあと思って、きちんと回復させなきゃなあって思って、その道のりをちょっと考えた時に、鈴木明子という人があそこまでの饒舌な言語を取り戻すというか、かつてより語彙も増やしたという現実の壮絶さが実感として押し寄せてきました。
FOI行きたいのだけど、諦めてリハビリや回復につとめた方が後々のためになるかなあ、など悩み中です。
肉体言語を真摯に受け止めるための体を失っていたことがDOIではっきりわかって、その自分の貧しさが悲しかった。粗雑にしか拾えてないのが悔しかった。せめて、訴えかけてくるものを全て受け止めるくらいの強さは取り戻そうと思った。

あとめちゃくちゃ関係ないんだけど、ベジャールバレエで『Rumi』って演目があって、タイトルみた瞬間、水津さんが頭をよぎりました。

http://jp.youtube.com/watch?v=enOmxQP6JWs

女性ダンサーので手頃なのみつかんなかったから、『愛と哀しみのボレロ』でジョルジュ・ドンがヌレエフ意識した役どころで踊ってるの貼ってやる。
これ、モデルになった芸術家ってヌレエフとカラヤンとピアフとあともう一人誰だっけ?と思って調べたらグレン・ミラーだった。メーカーは早くこの映画のDVD復刻すべきです。

http://jp.youtube.com/watch?v=5_XdRa2oMR0
いやあ、それにしても美姫ちゃんの『ボレロ』はすごいなあ(以下略

おまけ。
武田百合子さんの『放心』について書かれた本

松浦理英子さんが『蕩心』を発表した雑誌
en-taxi (ODAIBA MOOK)

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まだ読んでる途中。メタフィクショナルな『嵐が丘』です。
本格小説(上) (新潮文庫)

本格小説(上) (新潮文庫)

本格小説(下) (新潮文庫)

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