思考する我

「我思う故に我あり」は確かにそうだなあと。「思う」時間がまとまってとれないと「我」はたやすく崩壊することがわかりました。歩きながらとか走りながら考えることができるタイプではないので、しっかり立ち止まってゆっくり考える時間を確保しないと生きてゆけないみたいです。簡単に言う、いや簡単じゃないかもだけど言い換えると、私は実際的な人間としては全く機能できない時間を大量に確保して初めて実際的な人間のふりができる、そういうコストパフォーマンスが大変に悪い人間。ただし、コストパフォーマンスの悪さを補ってあまりあるものが多分あるから、ここまでなんとか生かされてきたのだと思う。

本格小説」をちょっと前、金曜日から土曜日の朝にかけてだから5日早朝に読了したんですけども。

本格小説(上) (新潮文庫)

本格小説(上) (新潮文庫)

本格小説(下) (新潮文庫)

本格小説(下) (新潮文庫)

あー私ぜんぜんよう子ちゃんみたいに世話焼いてもらって苦にならない人間だわと思って、純粋に何も考えずにああいう風になれるわと思って、ちょっとそれはどうなのかとも思った。私、北海道出身なのに北大の重みをほとんど感じないで育ったのはなんでなんだろうとちょっと振り返ったんですけど、それこそよう子ちゃんみたいに、そこで生きていながら半分そこに生きていなくて、東京の方しかみていなかった(幸い天気のいい日は本州がみえるあたりで育ったのである程度具体的に想像できた)ので、反対側の札幌が目に入ってなかったんだと思う。ただ、自分の生活圏内で藤女子の存在は目についたり耳に入ったりしたから、そっちの空気はなんかわかった。そんで人間をざっくりとわけた時に私はお嬢様側の人間にギリギリはいるのだろうなあと認識した。北海道でのよう子ちゃんの生活の扱いは、何人かのあの頃のクラスメイトや知り合いをかけあわせると割とリアルに想像できる、友達の中に私が入っていることすらあったかもしれない。三枝三姉妹の前にはとうてい出られないですけども、あーでもああいう人と接点がまったくなかったわけではないなあ、とも。

意外なことに今まで気付かなかったんですが、水村美苗って公式サイトあったんですね。
http://minae-mizumura.com/default.aspx
発表時のインタビューもあった。
http://www.shinchosha.co.jp/shinkan/nami/shoseki/407702.html

私は彼女の顔を見ると、といっても何枚かの写真でしか見た事はないけども、アメリカのあの時代に高度な教育を受けた女性というのはこういう顔つきになるのか、といつも圧倒される(といってもヒラリー・ロダム・クリントンコンドリーザ・ライスくらいしか同時に思い浮かべる顔なんてないんだけども)。日本語を話し日本語を書くことを「天職」とする日本人の女性がこの顔つきであるというのが、日本語の薄い柔らかい皮膜に包まれきって日本語の嫡子であることを何の疑いもなく育った私からすると、非常に孤絶を感じてしまう。ラシュモアの岩の顔を彷彿とさせる孤絶。
非常に読みやすい文体で、するすると読んでしまえるのだけど、読み終わった後、その文体の読みやすさ、日本語を徹底的に記号・道具として機能的に使えることの理由がアメリカのプラグマティズムがこの人の体に行き渡っているからだと伝わってきて、そのことで非常に考えさせられます。日本語の薄皮の中からそれを見て、上から目線で(というか日本的情緒でもってして)「可哀想」と思ったり、羨望の眼差しで「かっこいい」と思ったり、なんだろうもう。散文的な文章とはなるほどこういうことなのか、と感心したりもする。そして散文的な人は詩的な人をうらやむのかと、初めて知った。
常々、高橋源一郎水村美苗が初恋の相手同士だというエピソードがいい話だなあと思っているので、二人で競作なり連作なりしてもらいたいなあと思ってます。日本語に対するアプローチ、二人とも深く関わっているだろう新聞小説や日本近代文学についての思う所など、この二人の資質から遠い所にいる私にとって非常に興味深いです。

前出のインタビューから抜粋。

    • 太郎がよう子の前に再び出現したとき、よう子は幼馴染の雅之と結婚している。雅之は『嵐が丘』のエドガー役です。いったいどうなるのか、ハラハラしましたが、よう子を中心に、きわどく均衡を保った三角関係が誕生します。

 私にとっての理想の恋愛を書いたら、そういうものになってしまって(笑)。いわゆる不倫小説では、ヒロインは、夫への貞節と恋人への情熱とのあいだに引き裂かれている。ローレンス・オリビエがヒースクリフを演じた映画版『嵐が丘』(一九三九年)がつまらないのは、原作を、そういうお行儀のいい物語の中に納めこんでしまっているからでしょう。ところが原作はそんなお行儀のいい物語ではない。夫か恋人か、つまり、あれかこれか、という物語ではなく、夫も恋人もという、あれもこれも、という欲深い物語なんですね。『本格小説』では、その『嵐が丘』の面白さをもっと理想的な形でくり返すことになりました。太郎ちゃんはたとえ不在であっても、よう子ちゃんと雅之ちゃんの関係に緊張をもたらし、二人は並の夫婦よりよほど仲がいいでしょう。太郎ちゃんが再登場したあとは、さらに緊張が高まり、二人はさらに仲よくなる。だいたい、一方で、すっごくハンサムでお金持な恋人がいて、他方で、すっごくハンサムでやさしい旦那さまがいたら最高じゃない(笑)。以前、女性の聴衆を相手に『本格小説』の構想を話したら、「そんないい話、想像もつかないから、何のリアリティもない」って言われちゃったけど(笑)。

    • その願望は多くの女性に共通しているんでしょうか。

 そういうの、男の人にとってイヤでしょう(笑)。なにしろ男はプロバイダー(扶養者)としての役割を課されている。だから男の富や社会的地位は、男の魅力そのものとして女の目に映る。それでいて打算を働かせずに最上の男を得るというのが女の夢なんです。女が他の女を軽蔑するとしたら、「ああ、打算的に結婚したな」ということがはっきり見える時だと思う。よう子ちゃんは打算を働かせずに、というより、まさに打算を働かさないことによって、最高のプロバイダーを二人も得るんですよね。

この部分をあえて極めて乱暴に非常に下世話に「私小説」の作法をもって適用して読み解くなら、よう子=水村美苗、太郎=高橋源一郎、雅之=岩井克人、と当てはめてしまえるわけで、出てくる名前だけでインテリに弱い私はクラクラしますが、とりあえず高橋源一郎はサイトを放置しないで、日記を更新すべきだと思う。
http://www.funk.ne.jp/~gen1rou/index.html/
ここの日記、一応アンテナに入れてんのよ。

と、まあ、こういうとりとめのない思索を巡らせる時間がとれず、実際的な人間のふりをし続けなければならなかったので、心身ともに下手したら命に別状あるくらい切羽詰まったとこまで追いやってしまった。その地点からちょっと這い上がって振り返って、とりとめのない思索が生きるために必要な人間であることに罪の意識をもつのをやめようと思いました。どうやら思索逍遥する、そしてその思索逍遥がある程度まとまったら気楽に書き付けることがストレス解消にもなるらしいです。あのな、「文学趣味」っていう言葉あるけどな、私は「趣味」じゃないのな。「文学趣味」とか「少女趣味」とかじゃなくて、「文学そのもの」と「少女そのもの」を内在してんのな。「趣味」のやつらはすっこんでろ、という態度をきっともうほんと昔、小学校あがるかあがらないかくらいからとってたんだと思う、もちろん無意識で。だから「趣味」でやってる人らと話合わなくて、ちょっと仲良くなるんだけど決裂を繰り返してきたんじゃないのかなあ。もう若くないから、お互い距離の取り方はちょっとはうまくなってきてるけど、若い頃はひどかったです。「趣味」の人らが「趣味」でやってる輪に入りきれなくて、大学のゼミ(文芸学科卒です)で結果浮きまくったという。

あ、イケダさんとこみたら、フィールヤングをチェックしなければならない。
http://d.hatena.ne.jp/sitebbiw/20080707
今年の誕生日で、私は岡崎京子さんが事故に遭った時と同い年になります。