読む我、見る我

ETV特集で、オルハン・パムクに密着していて、彼と大江健三郎の対談の中で「『我思う故に我あり(コギト・エルゴ・スムを使ってたかどうかは聞き取れなかった)』と言いますが、私の場合は「我見る故に我あり』です」と語っていて、深い所で共感した。大江健三郎も自分をモデルとした主人公に古義人(コギト)と名付けるような人なので、この二人のノーベル文学賞作家の会話の濃密さに涙が出てきた。

私は彼の撮った写真が好きだ。窓から外の風景を見るのがもともと好きだ。メガネを通してカメラのファインダーを通して車窓を通して捕えた「もの」は純度が大変に高いと思う。何層も用いて、しかも私はそれをテレビで見ているのだから更に精製された「もの」を見ている。そこに切り取られた「意図」、それに泣けた。それを理屈で理解したわけではないが、心に直接はまった。おもむろに涙が溢れた。
そもそも生粋のパッセンジャーが都市を見る目というものが好きだ。特にガイジンが日本を見る目。なぜかわからんけど好きだ。『ロスト・イン・トランスレーション』の一番好きなところはその目だ。なぜか私はそういう視点を、日本人で日本にいながら「共有している」と感じる。東京でもTOKYO(TOKIO)でも、ましてや江戸でもない「トーキョー」に対して特にそう思う。

それで、なんとなく気になっていて、オルハン・パムクの本を買いたかったのですが、こういう作家の本は高いのでとりあえず立ち読みしたら、気になっていたことはあっさり解決したのでちょっと嬉しかったです。

それは「サルトルの影響下にある作家かどうか」ということだったのですけど、オルハン・パムクの父親が実存主義サルトルにかぶれてパリからなかなか帰ってこない人だったと。

トルコやらロシアやらの特集を最近たまたま続けて見ていて「ヨーロッパから離れた」というナレーションがよく入るのです。極東の島国からみたらロシアなんかヨーロッパであることを疑うことをなかったので、ここで指す『ヨーロッパ』って結局どこなのか、と考えると、パリなんだろうなあと思いました。フランス語には「留学」という単語がないと最近鹿島茂が書いていたのを読んだので、『ヨーロッパに近いか遠いか』というのは『パリから近いか遠いか』と近現代の感覚では同義なのかなと。

自分の体を失った後、新しい体をまだ肉体としては作れていないし、文体としてはあるんでしょうけどきっちり見つけていないので、まだろくに文章が書けません。この数ヶ月気にかけていた幾つかのことのヒントになるかなと思い、最近買った本を備忘録として貼っておきます。文体がなければ当然何かを設定した文章は書けないのでした。こういう場所で書くのは文体の設定を必要としないのでまだいいのだけど。

失われた、いや、改められた文体を求めて

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈1〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)

定本 言語にとって美とはなにか〈2〉 (角川ソフィア文庫)

こっちは個人的な出自うんぬん、「女子の国はいつも内戦」のお話のヒントになるかと思って。
グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈上〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)

グロテスク〈下〉 (文春文庫)


多方面に迷惑をかけていますし、もう見放されたり忘れられたりしているのかもしれないですが、結局、文体を見つけないことには何もできないので、これを徹底的に探して掘り出して自分のものにするための格闘をするのが人間として一番誠実で近道なのだと思って、まあぼちぼちやってます。体力回復に努めるのが第一義ですが。

ETV特集で、大江健三郎が、自分のことを「失敗した詩人」と言っていた。オルハン・パムクも似たような趣旨のことを言っていた。私はまだ失敗することすらかなわない詩人、詩人のポテンシャルだけはあるのに使いこなせていない未熟者なんだと思う。成功なり失敗なりあきらめるなりする位置につくために必要な材料がまだ揃っていないので、ただ愚直に探し求めるのみだ。「詩人の目」「詩人の魂」はともかく、それを実作に結びつけるテクニックと世界を見定め、しとめるための経験がまだまだなんだろうと。そのスタートラインにたてたこと自体、彼らは選ばれし者なのだと思いました。私は50代から80代くらいまでの間にそこにつけたらラッキーかなあと、のんびりやります。