置く事流す事

言葉を置くという作業は割と好きです。が、流していくという作業が全くもって苦手です。簡単に言うと、書くのは向いてるけど喋るのが苦行です。
思うに、「話し好き」というのは、言葉を流していく作業がうまい人がそうなっていくんじゃないかなあと。
大西先生ブログ過去ログ漁ってて気付いたわけです。

話し好き
 最近気がついたが。どーも僕はねっからの話し好きのようだ。
(ざっくり中略)

というわけで、たいへん話し好きの私は、今度のテレビはたくさん話せる形にしてもいーなーと思っていたのでした。

以上。

http://englishatheart.blog60.fc2.com/blog-date-200701.html

わからん。話し好きって感覚がわからん。でも、話し好きな人がいるのはわかる。私はたいていそういうのが抜群に向いてる人の後ろでこそこそしてる。

当代一流のインタビュアーとして名高い吉田豪さんの本読んでて、松尾スズキさん(自称ダメダメなインタビュアー)とインタビュー論みたいなことにちょっとなってて、そういうのってなかなかお目にかかれないから面白かったんですけど、多分、インタビューって「なんにもない人で反射神経のよい人」がうまいんだと思った。もちろんいい意味で。野心とかいらないプライドとか余計な知識とかそういうのなくて、でも最低限の知識と礼儀だけもって、ひたすら虚心坦懐に相手の話をきく。まあ、これは、トレーニングで一定水準まではもっていけるんですけど、それ以上に必要なのがアドリブの才能だなあって。一回性の事に対するスタンスと才能、これ、努力でどうにもならん部分が絶対あるわと。吉田豪さんもそうだけど、うまい人のインタビューってほんと格闘技の名勝負と一緒ですもん。すっと相手の懐に入ってくのうまいすもん、なんもかまえず軽い話してたらいきなり飛び込んだりしてますもん。非常に高度な駆け引きが、手に汗握る攻防がそこに焼き付いてるのだもの。しかもそれを簡単にやってのけるんだもの、事前準備込みで。

hon-nin列伝 セキララなオンナたち (本人本)

hon-nin列伝 セキララなオンナたち (本人本)

これ、荻野目慶子で始まり広田レオナで締めるっていう構成も素晴らしかった。丁度真ん中に挟まる土屋アンナが、絶対荻野目慶子や広田レオナの年になったら、だからあと20年後くらい?に同じようにこの本の年代を振り返るんだろうなっていうのが感じられて。

私の場合一番ダメなのは、こういうぶつかりあいを桟敷席で見ていたい・その瞬間を感じていたい、という欲望の方があまりに強いとこだと思った。自分がろくなプレイヤーにはなれないのは痛感しているので、桟敷席で見てて、打ち上げで(打ち上げにいてもおかしくないけどその場の中心にはいない人みたいな立ち位置で漂ってるのが一番ここちよい)「いやあ、名勝負でした!」って双方に言いたいだけの人。そんで帰ってから1週間くらいその感想戦を一人でしてあの局面でああ出るのか、とか戦術を分析して、ただ分析するのが好きでやってるだけの人。それを自分で実践するかどうかを考えないで、ただ分析したいからやってるだけの人。
私はとにかく仲良くなれなきゃ他人からきちんと話訊けない。というか、勝手に喋ってくれる・打ち明けてくれるような関係性までもっていって初めて本当のコミュニケーションがとれるつう。語る・打ち明ける要素がなかったり、その性質が自分とは合わない人とは深く付き合えないつう、どうしようもない人間性の持ち主なんですわ。しかも人見知りだから大概かなりの時間をそこまでの関係性を築くのに要する(ある種の年下女子だけは、なぜかすぐ心を開いてくれる子もちょくちょくいるけど)。
他の人には話せないヘヴィーな話はさらっと受け止めますけど、私以外の人が聞いてもいいような話は別に聞かなくていいや、っていう姿勢が滲み出てて、とにかく言葉を流せない、もうほんと。何か受け取ったら置くか捨てるかしかない。

そういえば金遣いも似たような感じだ。ちょろちょろ流すのが苦手で、ポンと置く、もしくは捨てた気分で遣う。しばらくずっと動かさないで、またいきなり置く、もしくは捨てる。捨てるって言い方悪いな、スイーツ(笑)的な言い回しだと自分への形の残らない投資?いやでも違う。言い方悪いけど、競馬とか麻雀とかにガっとつっこんでた時期はあったから、確かに捨ててたことはあった。でも捨てるつうか捨てたつもりの金であっても、払った分だけ自分に身に付くもんはあるんだとも学習しました。ギャンブルで金を遣った事が自分への投資になっている部分は確実にある。