ロシアとグルジアとオセチアと

そして政治と音楽と。

http://jp.youtube.com/watch?v=VI7qzutOyQs

ゲルギエフがなんていってるのかは、私の英語力ではまだ何回もきかないとよくわかりません。が、理解するために何回かきこうと思います。
演奏は文句なく素晴らしい、だが、その素晴らしさゆえに一流のプロパガンダともなり得る。これで聴けるのはチャイコ『悲愴』だけど、タコの『レニングラード』もきっと素晴らしかったのだろう。だが、この素晴らしさは危険であり、そして彼はそのことを知って覚悟してやっている。誠実な良心によってコントロールされた、野心なく素朴に同胞をいたわる思いに満ちあふれたおおらかで繊細で痛ましい美しさ、それはいつもの私の好きなゲルギエフの演奏のスタイルだ。いつも以上にゲルギエフのよいところがつまった演奏だ。そしてこれは多分、この舞台でなければ成立しなかった演奏だ。だが、だが、だからこそ、人々の素朴な心に彼の誠実さが届ききってしまうからこそ恐ろしい、ロシア政治の影がもはや影ではなく全面に出ていて、ゲルギエフはそれに乗ることをよしとしている。そのことに、政治的に「西側」の価値観によって育てられた私はひっかかってしまう。だが、私はこの地域のことを何も知らないのだ。ロシアとグルジアオセチアのこじれた関係、それを知らない私が何を言えるか。ロストロポーヴィチベルリンの壁演奏だって「政治的」なものだ、と言う人もいた。確かにそうだと思う、そして私はそのことを知りながらそれを無条件で受け入れ感動した。それは私が「西側」の人間だからなのか。違う、とも、そうだ、とも言い切れない。
一応説明。まあこういう背景です。

ゲルギエフ氏、戦禍訴えコンサート 南オセチア州都で
 【モスクワ=大野正美】ロシアとグルジアの軍事衝突の最初の舞台となった南オセチア自治州の州都ツヒンバリで21日、ロシアの著名な指揮者ワレリー・ゲルギエフ氏(55)が戦禍の大きさを訴えるコンサートを開いた。
 同氏は南オセチアの主要民族であるオセット人で、北にあるロシア北オセチア共和国で子ども時代を過ごした。ロシアの軍事行動を支持する立場から演奏前のあいさつで「(グルジア側の攻撃で)南オセチアでは2千人が死んだ。偉大なロシアの助けがなければ、犠牲はもっと多かっただろう」と強調した。
 会場は攻撃で大破した州議会ビル前の広場。クレムリンの支援でロシア国内にも生中継され、「戦勝」をロシア国民に印象づける催しにもなった。
 同氏が芸術総監督を務めるサンクトペテルブルクマリインスキー劇場のオーケストラも全員が黒の衣装。チャイコフスキー交響曲6番「悲愴(ひそう)」、ショスタコービチの交響曲7番などを奏でると、約5千人の住民らから長い拍手が続いた。
 もっとも同氏のあげる死者数「2千人」に対し、ロシア検察付属捜査委員会は20日までに確認された死者数を133人としている。

http://www.asahi.com/international/update/0823/TKY200808230067.html

世界的指揮者ゲルギエフ氏が南オセチア州都で野外演奏会
 【ウラジカフカス(ロシア北オセチア共和国)=緒方賢一】世界的に有名なロシアの指揮者ワレリー・ゲルギエフ氏が21日夜、グルジア南オセチア自治州の州都ツヒンバリで、自身が芸術総監督を務めるサンクトペテルブルクのマリンスキー劇場管弦楽団を率いて野外演奏会を開いた。

 ロシア大統領府が支援し、国営テレビが中継。メドベージェフ政権はクラシック界の巨匠を通し、南オセチアの「解放」を印象づけた。

 演奏会は、戦闘で一部が破壊された州議会庁舎前で開かれた。ウラジカフカス出身で親ロシアのオセット人のゲルギエフ氏は、住民やロシア軍兵士ら約500人の聴衆を前に「ツヒンバリでの恐ろしい出来事の真実をすべての人に知って欲しい。ロシアの支援がなければもっと犠牲者が出ていたはずだ」などと述べた。

 同氏と楽団員は黒い衣装で舞台に立ち、犠牲者に弔意を表した。

 演奏会では、第2次大戦中に作曲され、ナチス包囲下のレニングラード(現サンクトペテルブルク)で演奏されたショスタコービッチ交響曲第7番「レニングラード」などを披露した。
(2008年8月22日13時57分 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20080822-OYT1T00407.htm

あ、読売はモスクワ配信じゃなく北オセチアまでいってるのか。

ゲルギエフが追悼コンサート 南オセチアの州都で犠牲者悼む
 【モスクワ=佐藤貴生】グルジア紛争の発火点となり、激しい砲撃を受けたグルジア南オセチア自治州の州都ツヒンバリで21日、世界的指揮者のワレリー・ゲルギエフ氏がサンクトペテルブルクマリインスキー劇場のオーケストラとともに追悼コンサートを行い、聴衆とともに犠牲者を悼んだ。

 イタル・タス通信によると、破壊された議事堂前の野外ホールには約4000人が詰めかけた。ゲルギエフ氏とオーケストラはみな黒ずくめの服装で登場。激戦を極めた第2次大戦時の「レニングラード攻防戦」に着想を得たとされるショスタコービッチ交響曲第7番(レニングラード)などを演奏し、聴衆の涙を誘った。

 オセット人の血をひくゲルギエフ氏は、2004年にロシアの北オセチア共和国で学校占拠事件が起きたさいにも追悼コンサートを行った。

http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080822/erp0808220808002-n1.htm

一方で、こういう見方もあるのです。
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080819/erp0808192227013-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080819/erp0808192227013-n2.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080819/erp0808192227013-n3.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080819/erp0808192227013-n4.htm
http://sankei.jp.msn.com/world/europe/080819/erp0808192227013-n5.htm

プラハの春40年】グルジア紛争と二重写し 漂う「制限主権論」の亡霊
 冷戦期、チェコスロバキア民主化運動「プラハの春」がソ連の戦車に押しつぶされて、20日で40年を迎える。その継承国のロシアがグルジアに軍事侵攻し、現在のチェコの首都プラハでは、“あの日”と重ね合わせてみている。弾圧を後に正当化した「ブレジネフドクトリン」(制限主権論)という亡霊の復活とも受け取られており、チェコのみならず周辺の東欧・旧ソ連諸国をも震撼(しんかん)させている。(プラハ 黒沢潤)
 「最近の若者たちは『20日』のことを、『ドイツの独裁者ヒトラーが自殺した日』などと言う」。チェコ通信の元記者(74)をそう嘆かせてきた状況が、グルジア侵攻で一変した。
 プラハの名門カレル大学のヤン・ソコル教授(72)は「チェコでは、今回のグルジア侵攻を『プラハの春』の弾圧時と同様に考える人が多い。国民は、小国のグルジアに同情的で、ロシア政権には帝国主義的なにおいを感じている」と話す。
 起訴休職外務事務官で作家の佐藤優氏の解説は、より具体的である。
 「チェコスロバキアへの軍事侵攻に際し、ソ連は『社会主義共同体の利益に反する場合、個別国家の主権が制限されることがある』という『ブレジネフドクトリン』を唱えた。今回のロシア軍のグルジア侵攻にあたって、『ネオ・ブレジネフドクトリン』とでもいうべき制限主権論がロシアで頭をもたげている」

 東欧・旧ソ連諸国もそうした感覚をもっている。自国の沿岸にロシアの黒海隊司令部を抱えるウクライナは、艦隊の移動に際しては72時間前に通告することを「義務」として突き付けた。グルジアを訪問したバルト3国の首脳も小国同士の連携を確認した。
 ポーランドが14日、米ミサイル防衛(MD)網の設置で突然、米国と合意に達したのも危機感の表れだろう。チェコのトポラーネク首相も、グルジア侵攻を「プラハの春」と二重写しに見ている。
 「ロシアはグルジアから撤退すべきだ。今はもはや68年ではない」。チェコ国民にとって、ライス米国務長官の言葉は、自分たちの気持ちを代弁しているようにも聞こえる。
 チェコでは最近、“運命の8”をテーマにしたテレビの歴史番組が盛況だ。ナチス・ドイツ保護領となる契機にもなったミュンヘン協定締結の38年▽新生チェコスロバキア誕生の48年▽「プラハの春」の68年−である。グルジア紛争で40年前の記憶を呼び覚まされたチェコ人にとり、2008年も「特別な年」だ。
 「40周年」に合わせて、「プラハの春」の弾圧の舞台となったバーツラフ広場に設置された当時のポスターの写真展では、グルジア紛争を意識してか、ロシアを攻撃する刺激的な写真が多い。「あなた(ソ連軍)は私の家(国)をたたきつぶした。これは友好なのか。占領者よ出ていけ」。ソ連のブレジネフ書記長の暴挙にレーニンが涙する絵の写真は圧巻だ。

 40年前の20日深夜11時、チェコスロバキア国境からなだれ込んだソ連軍の戦車の勢いはすさまじかったという。大学卒業後、チェコ北部リベレツで3週目の新人医師だったプシェミスル・ソボトカ・チェコ上院議長(64)は振り返る。
 「信じられないことに、リベレツには午前3時に戦車300両が集結した。7時20分に一斉に砲撃と射撃が始まり、町は地獄絵と化した。胸や腹を撃たれ、息も絶え絶えとなった人々が病院に担ぎ込まれた。涙も流す余裕もない新人医師の私はプロに徹し執刀した」
 チェコに投入されたのは戦車6300両、兵員30万人。プラハに侵攻した戦車はラジオ局を急襲し、徒手空拳の市民にも襲いかかった。現場にいたプラハ歴史研究所のオルディッチ・トゥマ所長(56)は「恐れ、怒り、悲しみ、失望の4つを一度に味わった」と話す。市内では「イワン(ロシア男性の典型名)よ祖国へ帰れ」の怒号が沸き起こった。
 対ソ・レジスタンスも始まった。女性の元学校教師、ツェリーナ・レビツゾバさん(66)は「道路の標識の方向を変えた」と話した。ソ連軍戦車の走行を撹乱(かくらん)する作戦だった。
 そもそも「プラハの春」はなぜ起きたのか?
 68年1月に党第1書記に就任し、「プラハの春」をもたらしたドゥプチェク氏の元内政顧問、ミハル・ライマン氏(78)は「ソ連からの度重なる脅迫、言論・移動の自由の欠如に辟易(へきえき)していた」と証言した。

68年6月には、ソ連の干渉に武力抵抗するとの挑発的な「二千語宣言」も民間から出され、有力者が署名した。だが、こうした民主化の機運やソ連への抵抗は戦車に粉砕された。
 ドゥプチェク氏が解任され、「プラハの春」が死んだ後の新政権の弾圧は厳しいものだった。ドゥプチェク氏はトルコ大使に降格され、さらに営林庁の1職員にまで落ちた。
 異常なほど苦痛の表情を見せ「心臓にナイフを突き刺して走る男」と呼ばれ、ヘルシンキ五輪(52年)などで金メダル4個を獲得した陸上長距離ランナーのザトペック氏も、「二千語宣言」に署名したために10年の肉体労働を強制された。妻のダナさん(85)は「政権から『罰せられていると外国に漏らすな』と脅迫された」と打ち明けた。
 東京五輪(64年)で金メダルに輝いた女子体操のベラ・チャスラフスカさんも、「プラハの春」弾圧から2カ月後のメキシコ五輪(68年)で世界の同情を一身に集めた。だが、帰国後、共産主義体制への協力を拒み困難な状況に置かれ続けた。
 69年から、独裁体制が終結した89年までの20年間は、皮肉を込めて「正常化体制時代」と呼ばれる。だが、社会の底流にうごめく民主化の動きは圧殺されてはいなかった。「『プラハの春』の後の長い冬に川の表面が氷で覆われても、下の水は流れていた」と、元駐日チェコ大使ズデニェク・フルドリチカ氏の妻ビエナさん(84)は語る。

77年に突然、劇作家ハベル氏らが人権擁護の「憲章77」を発表し、89年には無血の「ビロード革命」を完遂する。「プラハの春」に若者たちが見いだした希望の芽を、無情にも踏みにじったソ連への報復ともいえた。
 グルジア紛争で見え隠れする制限主権論の亡霊は、
ロシアに思わぬ“報復”をもたらすのだろうか。
     ◇
 プラハの春 1968年、チェコスロバキアで起こった民主化運動。60年代後半から、社会主義体制への批判が高まり同年1月、共産党第1書記にドプチェクが就任。「人間の顔をした社会主義」をスローガンに民主化、経済自由化、連邦制の導入が提唱された。3月に検閲法、言論統制法を改正し、4月には結社・集会の自由も承認。東西冷戦下で高揚した同国の民主化運動が、他の東欧諸国へ波及することを恐れたソ連は8月、ワルシャワ条約機構軍を率い首都プラハに侵攻し、民主化運動は弾圧された。
 ブレジネフ・ドクトリン(制限主権論) 社会主義陣営全体の利益を守るためには、ソ連の勢力圏内にある各国家の主権を制限することが許される−という論理。プラハの春への軍事介入を正当化するために用いられたこの論理は、社会主義と資本主義を区別するものとして長く活用され、1979年のソ連アフガニスタン侵攻のさいにも援用された。89年、ソ連最高会議議長だったゴルバチョフ(元大統領)が欧州会議での演説で正式に放棄を宣言した。