灰とダイヤモンド

ちょっと前に、ああ!ヴォロノフは『バナナフィッシュ』のアッシュとイメージがかぶるのか!と気付いて、ヴォロノフとウルマノフのキスクラを見る度によぎっていた何かはアッシュと英二のあれか!と気付いて、じゃあディノはミーシン先生だな、見た目あんなんだったよな、と見た目だけで割り振った瞬間にそれが生々し過ぎて想像したくなくなりました*1。なんとなく思いつきで配役しなきゃよかったです…ミーシン先生の圧倒的なリアリティに脱帽です。『バナナフィッシュ』って読んでる時は面白いんですけど、後から思い出そうとしてもあんまり思い出せないんですよね。最終回どんなんでしたっけ?3回くらいは読んでるのにその度に忘れては人に訊いて呆れられてます。そのくせ番外編はシンが好きだ、という理由でしっかり読んでたという。そしてシンがでかくなってて、なんかしょんぼりしたっていう*2。そうだ、私、シン(パトリック・チャン)とかユエルンとかなんかしらんけどチャイニーズ系のキャラクターがアッシュ(セルゲイ・ヴォロノフ)より好きでしたね、思い出した。あの世代はヴォロノフ&小塚推しですけどね。ヴォロノフがアッシュとかぶるのも、もうそんなに長くないでしょうけどね、ただ生きながらえたアッシュがどうなるかっていうのが見れると思うと嬉しいですよね。

ミレイ展は特に感想ないですけど、キチガイの絵の温度が丁度いい感じに薄まってるのは本人が何もない人だからだろうなあって思った。ミレイは名インタビュアーの資質がある人です。だからよい似顔絵描きとしてステータスを得たというか、息子死んでしょぼくれてるはずの時期の絵ですらあんまり本人のエモーショナルなものが絵に出てこない人です。文化村の学芸員あたりがつけたキャッチコピーがあまりにもダサかったので*3『よいキチガイしてるからね』とキャッチコピーをつけなおしてくれた友人作の『よいキチガイ』は『オフィーリア』を指しているのかなんかわからんすけど、お、これはちょっと魂入ってるじゃん、って思えたのはキチガイモデル絵ばかりでしたね、夢遊病でふらついてたり神経質な義妹だったり男だけど中性的でなんか聖人の絵のモデルやってる暗い人だったりの。さすがにキチガイは発するメッセージの強さが違う、が、キチガイが自分で描いた絵自体はもうみてらんない、オルセーでゴッホの自画像とガチで向かい合った時の気持ち悪さは本当生々しく覚えてる、思い出したくなくとも忘れられない体験です、あれ。ゴッホとか絶対関わりたくない禍々しさがキャンバスに宿ってるもの。私、他でも何度か経験してわかったんだけど、アウトサイダーアートみるとそこにある病気のコアな部分を受信するというかもらってしまって大変気持ち悪くなるので、そういう点ではミレイって全くキチガイじゃなくてうまく整理して料理してるんですわ、キチガイに関しては。キチガイなのに割とサラっと見れる。ちょっと暗かったね、くらいで済む。何にもない人がキチガイ描くと中和されてリア充が受け入れやすい温度になるんだなあって思いました。『オフィーリア』は思ったよりキチガイじゃなかったのは、モデルがその時点でキチガイじゃなかったからだと思います。ただの風流な土左衛門でした、漱石の言葉借りると。ただ、漱石と同じものを見ている感でテンションは高まりました。あと、『ハートは切り札』の右の人が私に似てると思った(新しいメガネが合わなくてところどころ裸眼で鑑賞、右0.1あるかないか左0.05くらい)。

でもきっとこの絵描きさんは本人が権威になっていく過程で『転向だ!』とかなんとか突き上げられた人だね。初期は描写にちょっと過剰さが見受けられたけど、年とって過剰なものがなくなってただの挿し絵描き似顔絵描きになってくのと同時にグレートブリテンでのステータスがあがっていくわけでさ。政治力行使しまくってる感じもしない、少なくとも絵からは滲み出てないから、ただ請われるままに描いてたらステータスあがってって、なんかそんで過剰な友人たちに突き上げくらったんじゃねえの?みたいなそういうドラマを想像してやりすごしました。アクのなさって才能だなーって思いました!

*1:BL耐性なしの腐女子フォビア

*2:プラトニックなショタ

*3:参照→http://www.bunkamura.co.jp/museum/lineup/08_jemillais/index.html