主役はひとつ

大変心苦しいのですがベジャールボレロ厨として恐れながら安藤美姫さんに奏上させていただきたいのですが、岡本知高さんのvo.入りをこれ以上使われるのはどうかと。
単独で聞く分にはしっかりと世界観ができあがっているのでよいのですが(フジのオープニングもかっこいいと思ってます)、あれだけしっかりとした世界観があるものなので、あれは『岡本知高ボレロ』としてしっかり成立しているからこそ『安藤美姫ボレロ』と対立しちゃって、というか、混線してしまって、なんか音入ってるとうまく見れなくなっちゃってテレビをミュートにしてしまうんですよ。

主役がどっちか、というのがどっちも譲らないから見ている方が混乱してしまう。スケートで使う場合は主役がスケーターだとはっきりしていて、そのスケーターに合わせて隙なく構成されているものなので、もう一人の主役はノイズとしてしか存在しなくなってしまうのです。

『愛と哀しみのボレロ』のああいったコラボレーションはもともとコラボ予定でバランス考えてあって(だから多分あれ歌手の人のキーに合わせて調をハ長調からずらしてる)一つの世界として成立してるんですけど、岡本知高ボレロvs.安藤美姫ボレロっていうのがどっちが悪いわけじゃなくただただ食い合わせがたまたま悪くて結果イスラエルパレスチナ並に衝突しちゃっててなんかもう非常にしんどい(ベジャールボレロ厨だから安藤ボレロを見て耳に入ってくる時のみ岡本知高さんの声がロケット砲のように世界観をぶち壊してるように感じてしまう)(ここは国連ビルに隠れようと思ってもおかまいなく撃たれてる感じで)(これは私の問題だしそう感じることに罪悪感を覚えるし、でもどうしようもない)。

ゴダールの映画が吃音的表現とかいう話題の時にベルトルッチゴダールに憧れているのに流暢な映画言語をもってしまっているのでなんかうまいこといかんねえみたいなことを誰かが言ってたことをふと思い出したりもしました。安藤ボレロは吃音的だけど岡本ボレロは流暢なんですよ、だから変な感じになっちゃうの。文明の衝突……とか全く関係ないようなこと言いたくなっちゃうの。
というかなり無理なつなぎで動画紹介。NHKがオンデマンドで売ってくれないからニコニコ動画で見つけた。
オルハン・パムク×大江健三郎

http://www.nicovideo.jp/watch/sm4112427

ここ最近の共産党関連のニュース(『蟹工船』が売れてるだとか党員急増とかそういうの)を見るにつけ妙な違和感があり、資本主義が限界を超えてしまったというのはもちろんあるのだけど、共産主義の限界だって80年代後半から90年代初頭にベルリンの壁が崩壊したりソ連が崩壊したことで象徴されるようにわかりきっているんですが、資本主義が破綻してその受け皿が破綻していることがわかりきっている共産主義に行くという事象よりも小泉純一郎に乗せられて郵政解散とかいうのがあって郵政選挙とかいうのがあって、そんで自民党地滑り的大勝利の時に多分小泉純一郎ブームを支えていた人々が今共産党に助けを求めるという事態が嫌になってるんだと思いました。そこを利用した人々も利用された人々も嫌だ。だって結局今回も『利用された人々』を共産党が『利用している』。でもこれはきっとある程度『エリートで知識人』である人間の感傷にしか過ぎないだろうし、そう批判されたら受け入れるしかない。
それやこれやがあって、共産主義の可能性(人の顔が見える共産主義だか社会主義だか忘れたけどそういう趣旨のこと)を追い求めようとした『プラハの春』に人々が希望を見出したことの重みとそれを潰したソ連の野蛮な力に対する怒りや嫌悪や絶望の意味がやっとわかってきたというか、あの時代をリアルタイムで生きた左翼知識人の挫折って本当に大きなものだったのだろうなと思ったし、今でもそれが実現できていた世界を思い描くのはわかるし、『九条の会』と自分の間の隔たりの理由もわかった(ミッシングリンクが埋まった、だがやっぱり彼らと同じヴィジョンは持ち得ないなとも思った)(共産主義はもう1968年に死んでいたのだった。正確に言えば自殺していたのだ。だから私が生まれた時にあったそういう国々からは死臭が漂っていたのだ)(私は『生きた共産主義国家』を知らない。だから『九条の会』の人々がかつて見ていたものそれ自体を知ることは永遠にできない)。

この前読売新聞かな、一面にオルハン・パムクインタビューがあって、現在のテロとかそういうのを『文明の衝突』にしてはならない、というようなことを言ってらしたんですけど、やっぱりそういうのを読むとサイードを思い出して、なんだろうなあ、サイードの不在、パレスチナ側のエリート知識人メガネ男子ってもう全く思い浮かばなくて、イスラエルユダヤ)側のそういう人材なんて枚挙に暇がないくらい有り余ってるのにパレスチナにはそういう人がもういない、少なくとも極東の島国でそういうものを専門にしていない人間にまでわかる人間はいない、その現実が重くのしかかって、もう今やっぱりボロ泣きしそうだ。ボロ泣きしてもどうしようもないんだけど、自己満足だけのために泣いたってよかろうよ。今年のウィーンフィルニューイヤーコンサートバレンボイムだったから、年明けからずっと折りにつけサイードのことは考えざるを得なかった。

なんかその読売の記事はネット上にないみたいなんだけど、引用してるブログがいくつかあったのでリンクはっておく。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/ac98d13a86f8149b19b387f6bf72f199
http://umejii.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/post-a82a.html
読売の書評欄にあったオルハン・パムク関連の記事
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20061017bk04.htm