好きで悔しい

ギエムのボレロを見てからずっと悔しくて、その気持ちがおさまるどころか強くなるばかりで、なんで私はフィギュアスケートが好きなんだろうって。安藤美姫が40過ぎて円熟の極みに至った時のボレロが見たいよ、でも今のフィギュアスケートだと無理だよって悔しくて泣けてきて。ギエムが最初っから今のボレロを踊れていたわけじゃないじゃん、ずっと色んな歴史があってあそこに辿り着いたわけじゃん。その時間をどうしてフィギュアスケートは用意できないんだろうって。
ブレハッチ英雄ポロネーズを3年ぶりくらいに聴いてやっぱり悔しくて。3年前の彼の演奏だって素晴らしかったけど、明らかにあれはスポーツだったじゃん。スポーツやりきった上でのガラだったじゃん。でも今は芸術じゃん。プロになるってそういうことじゃん。バレエでいうローザンヌやピアノ(というかクラシック演奏家)でいうショパコンやチャイコンってオリンピックじゃん。アマチュアの祭典。でも、そこに出てくる人たちはもっと上を目指すことができるし、その舞台は当然のようにあるじゃない。
フィギュアスケートは違う。その先がない。そのことが悔しい。普通『プロ』になるってローザンヌに出た子がどっかのカンパニーに所属するなりショパコンやチャイコンの入賞者が単独で演奏活動ができるようになったりとかそういうことじゃん。だいたいどの世界でもそういうことじゃん。
でもフィギュアスケートは違う。フィギュアスケートのプロっていうのは有り体に言えばプロ野球リタイアした名球会の人達がモルツ球団やってるようなもんじゃんか。間がないじゃんか、高校野球からいきなりモルツ球団じゃんか。なんかもうそれが悔しくて悔しくて。一番油がのるべき時期を見せる舞台を作ってないのが悔しくて。オリンピックなんかほんと甲子園の決勝とかローザンヌとかショパンコンクールでいいんだよ、それはそれで充分面白いし見応えあるし心動かされるし、そこにしか宿らないものだってあるし。でもさ、その次の戦うべき場所があってほしいんだよ。というかあるべきなんだよ。次のステージがあるからこそ、そこに宿るものが更に輝くんじゃないか。
バレエにしろ音楽にしろ、プロになるにはコンクールで勝ち抜かなきゃならない。まあ他の道もあるけどそれが王道でしょう。そしてそのコンクールに勝ち抜くためにやることはスポーツで勝ち抜くために取るべき手段と何ら変わりないと私は思う。少なくとも私の見たり聞いたりやってきたことはスポーツと何ら変わりはなかった。体育会の人がビビるほど厳しいトレーニングを積んでライバルと競争していたのは結局は勝つためだった。そんで今私が抱えている体の問題の幾つかは「まあ一種のスポーツ障害ですよ」と言われてしまったりもする。
ブレハッチが彼の本来の持ち味ではないアクロバティックなことをコンクールで要求されていたこと、そして今は芸術家として本当はこういうのを弾きたかったんだけどコンクール向きじゃなかったから避けてたんだろうな、と明らかにわかるシマノフスキを存分に演奏できたりしているのを見て聴くと、スポーツから解放されて更に険しい芸術家という山を歩き始めている若者に対して素直な好感を抱く自分がいて、フィギュアスケートではどうしてこれができないんだって泣けて泣けてしょうがなくって。なんでフィギュアスケートの『プロ』の世界は『アマチュア』より弛緩してるんだって悔しくて。
フィギュアスケートで『プロ』になるって体が緩むじゃん、だいたいの人が。それってでも『プロ』じゃないじゃん。肉体で語る人達がスポーツの肉体から芸術の肉体に作り替えるんじゃなくて、ただ引退して緩んでいってるだけじゃん、『プロ意識』は捨てちゃってるじゃん、20代半ばくらいでそうじゃん。そんなのフィギュアスケートだけじゃん。20代半ばからやっと本当の体を手に出来るはずじゃん、作っていくべきじゃん、できるはずじゃん、フィギュアスケート用語における『プロ』の意味が悔しいし変えるべきだと思って憤って。
フィギュアスケートの芸術としてのポテンシャルをどうして育てないんだろうって。そもそも私がフィギュアスケートを好んだのは、バレエの白鳥とフィギュアスケートの白鳥をほぼ同時期にテレビで見て幼心に「こっちの方が自然に白鳥っぽい」ってフィギュアスケートの動きを見て思ったからだし。物心つくかつかないかの頃から冬になると日曜日に近場の白鳥の飛来地に連れていかれてパンの耳持たされてそれに群がってくる白鳥の汚い鳴き声に怯えて固まって一刻も速くこれを投げ捨てようと必死になっていた私ですけども、群がってこない時、白鳥が湖をスーっと泳ぐ動きはやっぱり綺麗だとも思っていて(幼稚園の時に絵本の『白鳥の湖』を買ってもらったことは覚えてるんだけど、その絵本を読む以前から既に本物の白鳥はそこらへんでよく見てた記憶もあって、だいたいそんなもんだと思ってずっと過ごしていて、それが割とレアな体験みたいだと知ったのはつい最近)、それで絵本の『白鳥の湖』のイメージをどっちがうまく再現できてるかって考えた時に私が出した答えはフィギュアスケートだった。誰の見たんだかわかんないけど、小学校低学年くらいの時には既にそう思ってた。だから私にとって高校生くらいまでバレエは芸術としてもフィギュアスケートより下にあるものだった。高校の時に『ニュース23』で男だけでボレロに合わせて踊っているバレエを見た時に、何これ、バレエってこんなこともできるの?と衝撃を受けて、その時にモーリス・ベジャールという名前を覚えて、あれ93年なのかな。その時に初めてバレエはバレエと認識できて。
なんつうかさ、私のその認識のお粗末さはみんな嘲笑すればいいだけなんだけどさ、フィギュアスケートがその中に内包している芸術としての可能性を『プロ』として本気で追求しないお粗末さは真剣に考えたり捉え直したり憂いたりすべきだと思う。オリンピックまではスポーツでいいんだよ、全然。でも、もっと可能性も奥行きもあるものなんだよ。『プロ』があがりなんじゃなくて始まりなんだっていうごく普通の世界のようになればいいってそう思う。今そうじゃないことがたまらなく悔しい。