そこに魂はあるか


http://www.youtube.com/watch?v=b85bd2f_G48
JUMP - 忌野清志郎
(※2015年1月7日にJASRACから歌詞の削除要請きたのでこちらからご覧下さい→http://j-lyric.net/artist/a00075e/l002f45.html

夜中にテレビをつけたら清志郎のライブをやっててこの歌が流れた。で、その番組が終わった。一連の忌野清志郎死去、葬儀報道に対しての違和感はこの曲を聴いてわかった。何もわかっちゃいねえやつが自分たちの都合のいいように形作って報道してるうちに清志郎のスピリットがこぼれおちてしまったんだと。そんなに口当たりのいい人だったか?50過ぎてあんな格好してそれが馴染んでるあまりもはや気付きにくかったけど、あれおかしな格好だったよ。こんなにお行儀のよい送られ方がハマる人ではないだろう?なんて感受性のにぶい奴らなんだ。NHKがこの曲を最後に流して追悼番組っぽいのを終わらせたのは(私はこの曲しか見られなかったから番組の全容を知らない)皮肉なのか、自戒なのか、何にも考えちゃいないのか。お前らが放送禁止・発売禁止にした曲だって沢山作った人だろう。お前らにとって都合が悪いことを沢山伝えた人だろう。そういうこと忘れてものわかりのいい追悼報道ばかりでうんざりだった。そんなの違うだろう、彼にふさわしい送り方をもしかしたら現場ではしていたのかもしれない、でも、それにふさわしい報道はなされていない。自分たちのスタイルにあわせて清志郎を無視している。マスメディアはこういう「わかりにくい部分」がわからないと「なかったこと」にしてしまう。フィギュアスケートの国別対抗、あれの報道の生き生きとしていたこと。それを思い出した。フィギュアスケートという競技自体がもっている「わかりにくい部分」をできるだけおさえてスポーツとして「わかりやすい部分」を作った大会、その報道がまさに各紙『水を得た魚』だった。自分たちが今まで培った文法におさまるんだもの。

私は「わかりにくい部分」を愛する。「わかりにくい部分」を身を以て感じるために現場に行く。テレビサイズなんかからはみだしてしまっているものを愛する。「わかりにくい部分」こそ、そのパフォーマー達が必死に伝え守ろうとしているものだ。そんな部分を持たないものには興味がない。
って現在日本政界一わかりにくい男、小沢一郎が代表辞任表明て!私の小沢愛によりこれからの予定キャンセルして午後5時からの中継を注視します!