敗北者であり続ける勇気、もしくはヴァージニア・ウルフを原書で読む(予定)

『ダロウェイ夫人(Mrs.Dalloway)』と『波(The Waves)』の洋書Amazonでたった今注文してやった。

Mrs Dalloway Virginia Woolf (Wordsworth Classics) (Wordsworth Collection)

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The Waves (Wordsworth Classics)

The Waves (Wordsworth Classics)

結局、本だ。私の世界を広げる原動力、原初的欲求は本だ。
めぐりあう時間たち』を見て、ヴァージニア・ウルフの著作に興味を持ったのだけれど、どうも他人の翻訳で読む気がしなくて、これはちょっと原書にアタックしてみたいと思った。
めぐりあう時間たち [DVD]

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翻訳というのは負け試合だ、でも、私も自力でその負け試合の海に漕ぎ出してみたいと思った。

そもそも物書きというのは負けることが宿命づけられているものであり、芸術というのは「言葉にできない想い」を「言葉じゃない方法」で表現することだと思うのですが、物書きに限っては「言葉にできない想い」を言葉にしなければならない人種であり、それはもう惨めな負け試合をやり続けなければならない、ということを受け入れなければならないのです。負けることを受け入れられないと物書きにはなれない。私は物書きなので負けることは織り込み済みです。負けるんだけど、ごくごく稀に言葉にできない想いをなんとか行間につなぎ止めることができる力を持つ人、それが詩人なんだと思うんですが、日本語の枠の中でそういう先例を突き詰めても遅かれ早かれ煮詰まるのは目に見えているので、そろそろ英語の大海に挑もうと思った。世界中の負け戦に触れてみたいと思った。

洋書コーナーは今までとても薄気味悪い場所で嫌いだった。なぜならそこに書かれている言語を私が理解できなかったからです。理解できないものに囲まれるのは怖い。大変に怖い。その理解できないという恐怖をとことん見つめなおして英語を理解したいと痛感しました(水村美苗の『私小説』読んだ直後だったと思う)。それでほんの少しだけ英語の文学に触れることができるようになったら、これは子供の頃、ほんとに文字を覚えたての子供の頃、物心つく前だろう、私が物心ついた時には既に絵本を手放さない子供だったから、とにかく文字を覚えたてで本に触れて心が踊ってここにあるもの全て読みたい!だからはやく文字覚えるんだ!という非常に隠された原体験としてあった前向きな気持ちが甦ってきて、私、初めて本屋いった時ってこんな気持ちだったんだね、物心つく前だから覚えてなかったけどそういう感覚って眠っててもふとしたきっかけで浮かび上がってくるもんだね。

ヲタというのも常に負けることが決定づけられている人種じゃないですか。その負けを認めない人がストーカーになってしまう、だから負けを認めないと犯罪者になってしまう。もし、対象の視界に入りたいのなら、それは限られた手段(握手会とか?あとファンレターとか?)でどうにか気を引いてそういうわずかな隙間から自分の恋心を投げ込んで、それに対象が反応してくれてアプローチしてくるのを待つしかないんですよ。ずっととにかく待つことが宿命づけられてるんですよ。もしその対象の心に気にかかるものがアピールできたなら、向こうさんがどうにかしてアプローチしてくれるでしょうよ、それがないならそこまでして気にかかる対象ではなかったってことですよ。ヲタとその対象の限られた触れ合いの時間や手段以外で手を出しちゃいかんですよ。少なくともこっちからは絶対に手を出しちゃいかんのですよ。出していいのはあちらさんだけ。あちらさんがこちらに興味をもってガラスの靴の持ち主を探すのを待つしかないんですよ。ヲタはね、絶望的な確率のシンデレラストーリーに希望を持ち続けるしかないんですよ。私は一生物書きだろうしなんらかのヲタだろうし、だから一生シンデレラストーリーをかすかに夢見つつ、毎日負けながら楽しく生きて行くしかないんですよ。負けることが人生を豊かにすると思うんですよ。私は豊かで勇敢な敗北者でいたい、ずっと。負け方にもいろいろありますが、その負け方を語られるような敗北者でありたいです。そして、ガラスの靴をもって探しにきてくれるという夢を決してあきらめないでその瞬間まで生きていたいです。けっこうね、気さくというかあっけなくそういう出会いってあるもんな気もするんですよ、今まで自分で蹴って転がして生きてきた人生振り返って思ったけど。