喪明けの証明

こちらのスペースをお借りして少々コラムというかエッセイというかそういうものを書かせていただきました。

季刊TRASH-UP!! vol.3(DVD付)

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出来上がったものをいただいて読んでみたら総力特集のダリオ・アルジェントと大韓トラッシュ両方とも総力すぎて困った。こんな本気汁にみちみちているところになんかすまし汁みたいなもんだしちゃってすいませんと。

10年前にあったフィッシュマンズ佐藤伸治氏のお葬式について書きました。丁度10年目の命日のあたりに書きました。10年経ってやっと区切りがつけられました。

色んな物事の喪に服していた10年、いや15年でした。私が自分が喪に服さなければならないことを告げられたのは18歳になったばかりの晩秋(1994年10月か11月のある日)で、自分の喪が明けたことを悟ったのは32歳の立春過ぎ(2009年2月9日)です。『葬儀の日』というタイトルの小説を読み終えた瞬間、主人公が葬儀に向かうラストシーンから私のそれは始まり、振付家を追悼するために企画された公演で繰り広げられた儀式に立ち会ったことで野辺送りまでをやり終えたのだと思います。長かったです。私が何の喪に服して何の喪が明けたのかは未だによくわからず、でもただその事実だけは確かに信じることができ、あれだけ墓地が好きで墓地めぐりをして墓地の近くを通ると背中を押されて頑張るための勇気やパワーをもらっていた私が普通に墓地を気持ち悪がることができるようになりましたし、そのことによってずっと死者の方に目がいきがち心もよりそいがちだったのが生きている人々の方へ少しずつ近寄れるようになりましたし、なんというかなあ、いつもどこかちょっとはみ出ていた自分の魂をきちんと自分の身体の中にやっとおさめることができたというようなそんな感覚です。

喪に服し始めた直後に一つの街のカタストロフをテレビで見ました。その二ヵ月後、自分の夢や憧れを物心ついた時から託していた街にもカタストロフが訪れ、それからずっとその中を生きてきました。そういった誰もが知っていることから自分の心の中に閉じ込めているものまで多種多彩な喪失がありました。この喪失の部屋の片付けをやっと今年の2月から始めることができ、その一環としてフィッシュマンズの佐藤くんのお葬式については書かせていただきました。
とにかく今、私は葬式を終わらせなければならないのです。葬式を終わらせることにも15年かかるのでしょうか、でもそれは葬式をし続けることよりもポジティブな15年になると思います。
この15年の間、沢山の死には出会いましたが、肉親の死に出会うことはありませんでした。曾祖母が亡くなったのが高校2年の時でそれ以来いろんな死には出会いましたが肉親のそれは不思議とありませんでした。でも、これからの15年ではきっと出会うことになるでしょう。私の存命中の祖父は89歳で祖母は83歳です。祖父が104歳まで生きてくれたらそれはそれで素晴らしいですし、そのことも願いますけど、やはり準備もしなければならない、と思った時に「この15年の葬式は本当の葬式に立ち会うための準備だったのかな」とも思いました。曾祖母が亡くなったのは92歳か93歳で天寿を全うしたと言えるでしょうし大往生とも言えるのでしょうが、そのことで私の中から明治が消えてしまいました。伝え聞く曾祖母の人生は「明治の女」だなあとその一言です。幾多の苦難にもしっかり立ち向かい強く凛と歩き続け生き続けた明治の女です。祖父母は大正生まれで青春時代を戦争に奪われた(そして祖父は右耳の聴力も奪われた)世代です。彼らがこの世から去ったら私の中から戦争がなくなってしまいます。戦争のことを語れないのか語らないのかわからないのですけど、あまり教えてくれたことはありません。でも、9.11の時に祖父が「戦はいやだ」と呟いた一言に全てがこめられているように思うのです。祖父母の末娘(すなわち私の叔母)一家がその街に住んでるのです。遠い街で起こったことだとはきっと祖父母は思っていなかった。漠然と遠い街として捉えていたならあんなにあの一言に重みは加わらなかったと思うのです。
曾祖母から感じた「明治」や祖父母の「戦争」、きっと私の世代のそれに当たるものは三つの街のカタストロフです。溜まりに溜まった喪失を片付ける作業の中でこの三つは片付くのか一生背負うものなのかはわからないのですが、とにかくしかるべきときにしかるべき形で語らなければならないものです。今の私はその作業にとりかかるために必要なことをきちんと準備している最中です。準備が終わったらきっと何らかのイベントが教えてくれるから、ただ今は準備に専念しています。