1860-1968-2009

万延元年のフットボール」を先週の火曜深夜というか水曜早朝?7-8の間か、に2年ちょっとかけて読み終えた。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

その後「存在の耐えられない軽さ」を読み始めたら一週間で読み終えた。私としては超ハイペース。
存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

小説を読むって面白いな!文字を手で直に触れられることがよい。私はほんと手でなめ回すように字を触りながら小説を読む癖があると気付いた。いつからあるんだろうこれ。

万延元年のフットボール」がノーベル賞対象作なら「存在の耐えられない軽さ」にもあげられるだろう、というかほんとに今年あたりにあげとかないともう永遠にあげられなくなってしまってノーベル賞選考委員会の人たち後悔しても知らないよ。

もちろん両作品を続けて読み類似点相違点、歴史的な暗喩と直接的な表現、その時代の生々しさを知っているものが読むことの同時代的特権、それを知らないものの純粋小説的特権、なんとなくは知っているけど体験はしていないものとして読む特権、など、いろいろあるけどそういうのは評論屋さんや批評屋さんが言葉にしてアウトプットすればいいので何を書いても結局作文の域を脱することができないと19の秋のゼミ選択時に気付いて評論系を挫折した私はやらなくていい。私は何を書いても単なる作文家でしかないのです。
あ、でもこれだけは言いたい。大江健三郎ミラン・クンデラの共通点はヒロインが女が読んで男の幻想背負った嫌な女じゃないこと。クンデラの言葉を借りると叙情から切り離されて全くフラットに叙事的に語られていること。菜採子もテレザもサビナも変に神格化されることなく読みやすかった。女の描写でたいていの男作家の小説を読めなくなるのでそこらへんすごくよかった。

「存在の耐えられない軽さ」を読んでいて本筋的にひっかかったのは永劫回帰。その意味がよくわからず、それは輪廻転生と何が違うのか?と途中まで思っていたが、永劫回帰って輪廻転生をニーチェが仏教やら東洋思想やらにかぶれて西洋文化に紹介するために噛み砕いて説明した概念なんじゃね?と気付いたのでそのまま放置した。
あと、創世記(旧約聖書、だからユダヤ教キリスト教、頑張ってイスラム教あたりまでだろう)を前提とした文化圏の人が同じ文化を共有する人へ向けてその文化圏内の言葉で書いているものを、その文化圏外の言葉に訳された本でその文化圏外から読んでいる自分という立ち位置に時々混乱した。これは永劫回帰と輪廻転生の関係と一緒だ。輪廻転生をニーチェは哲学的な響きをもつ(そして後にヒトラーのものになる)言葉で解釈しなおしてその言葉の域内の人々にわかるように説明した、そしてその概念を日本語にするとなると「東洋思想にかぶれた人が輪廻転生を西洋に説明するための概念を今度はこっちの言葉に訳すとこうなるよ」というしちめんどくさいことになる。だが、そのしちめんどくささの中で文化というのは成熟するんでしょう。

ほとんどの人には関係ないがかなり困ったこと。主人公トマーシュが最初から最後までずっとヴェルネルで脳内変換されてしまったこと。だってチェコのトマーシュなんだもん、そんで私ヴェルネルのお父さん(とお兄さんもだっけ?)医者って知ってんだもん。キャラクター造形がかけ離れてるんだったらいずれそのイメージもとれると思ったら私の思うトマシュ・ヴェルネルと小説内のトマーシュはむしろどんどん重なっていってしまったんだもの。最終的には今季のヴェルネルプロは「ドン・ファン」と「トリスタンとイゾルデ」、ということになっていたいつの間にか。なのでさっきほんとの新プロ情報みたらそうじゃなくて困惑した。もう決まってたんだよ、あの美しいトリスタン和音の出だしでどういうポーズからヴェルネルが滑り出すか確固とした映像が頭の中にあったんだよ、なんだよシルタキとゴッドファーザーって、そんなのねえよ。と思ったけど、私がいつかトマシュ・ヴェルネルにやってほしかったのは「あの陽気な表面の顔の下はものすごい虚無に満ちていて人を笑いながら殺せる人(他人も自分も)」みたいなプログラムだったんで、SP「その男ゾルバ」FS「ゴッドファーザー」は別にその枠から外れていないというかむしろドンピシャなんじゃないかって気付いたんでいいです。ああ、でも、誰かトリスタン和音から始まるぞくぞく鳥肌が立つようなプログラムいつか滑って。ワーグナー映えする人、誰だろ、安藤美姫、デイヴィス&ホワイト、トマシュ・ヴェルネル、高橋大輔、ここらへんか。(トリスタン和音の見事なアレンジである「ゴリウォーグのケークウォーク」*1はジュニア選手が滑ればいいです。こういう曲を「子供の領分」に入れてるのは全く適切だ)
なんか地味にアンソニー・クイン人気じゃね?「道」「アラビアのロレンス」「その男ゾルバ」「ノートルダムのせむし男」、ここらへんくるんでしょ?(出演作適当にwikipediaから抜粋)

それと最近たいへんに心を痛めたニュース。
カロリーナ・コストナー、フランク・キャロルのもとに移籍。
http://web.icenetwork.com/news/article.jsp?ymd=20090706&content_id=5729148&vkey=ice_news
そのこと自体はまあいい。意外だったけどいい。
問題はここ。

This move is partly in response to her panic or nerve attacks on the ice.

コストナーパニック発作(もしくは適応障害か不安神経症からくる発作)をリンクで起こしてたんだ……それはしんどい。
この移籍は転地療法かねてるぽいな、というかアイスドームではもう練習できない状況だったかもしれないな、と一気に理由が見え同病相憐れむ的に切なくなった。もちろんそうじゃないかもしれないけど(憶測で無神経に語ることは危険な案件だ)。でも、もしホームリンクで滑れなくなっていたとしたら、五輪と地元ワールドに出るための練習をする新たな場所を探さなければならない、そして、できるだけ地元からのプレッシャーからは遠ざかった方がよい、ということなんだろう。LAワールドでコストナーにかかっていたものは五輪出場枠だけではなく地元開催のワールドの枠もだったのだと思い至りハッとしました。

どこの国、どの競技と限らず、トップアスリートが背負うもの、五輪競技で五輪メダル候補が背負うものをこの一行で感じて、ただ、何もできないけど余計なことはしない、足を引っ張るようなことはしない、フラットにどの選手のどんな出来も受け止めたいな、と改めて肝に銘じました。そして願わくばその受け止める場所は現場でありたいな、とも思いました。

そのためにこの夏はひきこもります。10年近く起こさなかったパニック発作を昨夏再発させてしまったのでこの時期負担はかけない。パニック障害なり摂食障害なりこういった類の症状に「完治」はないなと身を以て知った。一度そういう症状を起こした人がその後の生涯で同じ症状が出なかったとしてもそれは完治ではなく再発しなかったってだけ。ヱヴァ破もI come with the rainも劇場で見たかったけどかなり慎重にコンディション見極めなきゃだめだなと思った。
アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」公式サイト
http://icome.gyao.jp/
レディオヘッドの音楽とトラン・アン・ユンの映像が組合わさっただけで泣くんだよ私。すごい体の反応いいんだよね、夏バテがひどくなったと思ったその日に梅雨明けしてるし。

*1:この曲が大好きで自分で弾いていた私がトリスタン和音を好きだというのは当たり前というかこの二つの共通点に気付くのがむしろ遅い。「子供の領分」から一曲選ぶ時に「グラドゥス・アド・パルナッスム博士」か「ゴリウォーグのケークウォーク」かで迷った当時の私には全く意識していないのにその選択した両方にパロディの要素が入っていることで既に自分の特性が出ていたと今気付く