I got my sounds again.

marginalism2009-07-24

わたしは三つの言葉で書く
その言葉はなにを語るのか
わたしは何を表現しようというのか
一つの楽譜である
ピアノなどの楽器ならそれは演奏できるかもしれない
わたしはいつもこの楽譜を聴いている
だがわたしには演奏できない
だから詩やエッセイを書く
それ以上のものを求めて


この楽譜のほかに価値あるものはない
それに代わるものを探してもむだである


楽譜に代わるものはない
だが それを暗唱することはできる


わたしはこの楽譜を何度も心に思い浮かべる
それは英語にもフランス語にもロシア語にも翻訳できない
それをわたしは香りの言語 手触りの言語に翻訳する
本当は逆なのだ
これまでのわたしの人生すべてがこの楽譜に翻訳されている
だが言葉は人生に忠実ではない
何に忠実なのだろう わたしの絶望にか 喜びにか
一つの楽譜にはわたしのすべての気分が込められている
これに勝るものはない
その楽譜がもう一つの楽器で演奏されてしまえば別だが
(ヴァレリー・アファナシエフ詩集『乾いた沈黙』より「もう一つの楽器」)

乾いた沈黙―ヴァレリー・アファナシエフ詩集

乾いた沈黙―ヴァレリー・アファナシエフ詩集

僕が楽譜をかかないで済んで、自分の音楽がそのまま何かに接続されて音がでてくれば、僕はもっといい作曲家だよ。いつもそこで失敗しちゃうわけだよ、僕は。
(『武満徹 対談選』P290より)

武満徹対談選―仕事の夢 夢の仕事 (ちくま学芸文庫)

武満徹対談選―仕事の夢 夢の仕事 (ちくま学芸文庫)

今日本にあるコンサートホールで一番好きなのがオペラシティのタケミツメモリアルです。一つの武満徹のこしらえた楽器の中に入って更に音を聴いているという感覚になって拍手の音すら舞台にまとまってシャープに響き注いでいくような構造になっていて、その音が武満の音っぽくて、こうやって武満は生きてるんだな、ってそれだけでいいなと思うし、このホールはここで開催されるコンサートで育てられていくまだまだ新しい楽器だなあと思って、音楽が染みて円熟していくのが楽しみだなあとも思う。それが木で構成されているのも木の楽器に育ててもらった私には大変落ちつく要素だ。木に触れていると音楽に触れている気分になる。甦る。

ヴァレリー・アファナシエフ ピアノリサイタル

[出演]
ヴァレリー・アファナシエフ(Pf/台本/演出/演技)

[曲目]
ドビュッシー:《前奏曲集 第1集》〜〈雪の上の足跡〉
プロコフィエフ:《風刺》〜〈間のびしたアレグロ
ショスタコーヴィチ24の前奏曲 〜 第14曲 変ホ短調
プロコフィエフ:《風刺》〜〈嵐のように〉
ドビュッシー:《前奏曲集 第1集》〜〈沈める寺〉
ムソルグスキー:音楽劇《展覧会の絵

最初のドビュッシードビュッシーにしては音に軽やかさが足りない、けど、彼のドビュッシーだなあと思ったし、2曲目のプロコフィエフプロコフィエフにしては鋭さが足りない、でも彼のプロコフィエフとしては成立していると思った。3曲目のショスタコーヴィチは全くショスタコーヴィチで、4曲目、5曲目には1曲目、2曲目に感じた作曲者と演奏者の間への違和感はなくそのまま聴けてしまった。噛み合った。それで、私は自分の音を思い出した。永遠にもう出せはしない自分の音が完成していった方向性はここで今生み出されてるものだったって。1曲目と2曲目に感じた違和感はそのまんま過去の私への違和感だった。でも、そういう音の持ち主だって弾いていいんだと思った。そして高校生の時、なんであんなに私一人だけ音が違うんだろう?全然プロコフィエフっぽくない…どうしたらいいんだろう?と悩み抜いた問題の理由は至って簡単で一人だけ摩擦係数というか抵抗とか反発が強くなる厚いリード使ってたからっていう話。他の奏者と同じ薄いリードに変えてなじめばよかったという話。そんなことに気付かずクラリネットのリードで女子高生があえてバンドレンの4使うってそれだけで変わり者だったという話だ*1
なんだろう、アファナシエフの楽器の鳴らし方を見て、自分が使っていたリードの厚みを思い出してハッとした。自分が好んでそういう音を出してたんじゃないかと。ものすごく深くて厚くて空間を満たす音を出すんだけど、その弾き方というかピアノのハンマーの躍動の仕方がすごかった。弾き方が見える席ではなかったのでひたすら飛び跳ねるハンマーを見ていた。限界まで跳躍しているように見えたのに無理がないのがすごかった。トムとジェリーとかでジェリーがピアノのハンマーの下を駆け抜けて行く情景を思い出した。あんまり力んでないんだ。というか、アファナシエフはものすごく力が抜けているんだ、力の逃がし方がとてもうまい、それであれだけ鳴る。もうピアノって打楽器でもあったってことを思い出した。あれだけ鳴るのに音が割れない、あくまでもあたたかく熟成されて丸みがかった音色が大きく鳴り渡る。ホールの音響の良さも相まってその包容力がとんでもなかった。これどうやって鳴らしてるんだろう?と思いつつ、彼のグローブみたいな手から導かれる音の厚さが自分の中からも出てきたみたいで懐かしかった。物理的に手が小さく指も短かったという原因もあって出せなかった幻の自分の音だった。こういう音でドビュッシー弾いてよかったんだな、ってそのことで泣きたくなった。私はいつも自分の音がこんなに好きなドビュッシーに似合わないことでピアノに向かうと惨めになっていたから、その呪縛から解き放たれた。
アファナシエフはロシアン・ピアニズムの系統の人では確かにあるんだけど、やっぱりドイツのブラームスとかシューマンあたりが一番映えそうな音の人で、「お前なんか『トロイメライ』演奏してろ(ピアノでもクラリネットでもなぜか私の音は代わり映えしない私の音だった)」と自分自身の音に悪態ついてた私が、アファナシエフがいるんだから、あの音もいいもんじゃないか、って思えたのってとても大きかったんです。私は私の音を本当に理解して受け入れることができた。この音は楽器を使わないでも自分の中にある音。私の楽譜にかかれている音。ドイツロマン派映えする音を出す人が詩を書く時には「英語、フランス語、ロシア語(←これが母語)」を使う。そのこともまた嬉しかった。そのことで紡ぎ出され生まれるハーモニーってあるよなって。
後半のムソルグスキーの音楽劇は、亡命文学っていうジャンルがあるけど、亡命音楽っていうのはあるんだろうか、など考えながら見聞きしてましたが、西洋音楽は割合簡単に国境を越えることができるから(楽譜の読み方は共通してるから)、というかそもそも日本の小娘がモスクワ出身でベルギーに亡命した男性ピアニストの音に自分の音を見付けて共鳴してるんだから、そういうのはナンセンスだなあと。ただ、私は音楽家にはなれず亡命者が一定のジャンルでくくられるような世界の住人であるしかないので、今英語を勉強しているのは亡命準備なんだろうなとも思います。実際にその行為をするのではなくとも、アファナシエフの友人のように「心の亡命」をするということで、そしていつか日本語、英語、フランス語から生まれるハーモニーを紡ぎ出したいんだと思う。何十年先かわからないけど、でも、言語は時間かけて育てていいジャンルだから。そのことはよかった、パフォーミングアーツ、とくに肉体表現の人に比べると格段に時間はあるから。

それにしても、このコンサート、8割方は埋まっていたんだけど、他の客がどこから情報を得てアファナシエフに興味を持ったのかっていうのがわからなかった。私はBS-hiで放送された特集を見て興味をもったんだけども、皆が皆そういうわけではないだろうし、派手な宣伝もないし(私これ会場タケミツメモリアルじゃなかったらいかなかったと思う、たまたまもらったチラシで知ってチケットとった)、でもやたら客層が手強そうというか楽器演奏経験者とか音大生みたいな感じの人がほとんどだったように思います。

詩集(これおすすめ)買ってサイン求める列に並んでたら話しかけて下さったご婦人はチェンバロ習ってる方で、バッハとかピリオド奏法の話とかまあテクニック中心の雑談を並んでる間ずっと30分くらいさせていただいたんですけども、私のテクニック話なんて女子供の手習いレベルでしかないから底の浅さに幻滅されないかとヒヤヒヤしながら話してたけど(なんとかごまかせた、でも、自分の手に対するコンプレックスで隠そうとしてグーにする癖を久々に出していた)、周りも皆基本的に技術話してんの。それか楽譜の解釈の仕方とかさ(基本的にメジャー曲で構成されたコンサートだったからそれなりにやってる人は何曲か譜読みしたことあるだろう)。クラシック一見さんみたいなのが全くいない。今年いった現場で客層が一番絞まった会場だったと思う。客と演奏者の関係が一番いい規模と密度だった。こういうコンサートにそれなりに人が入るのはとてもよいことだと思う。でもみんなほんとどっからわいてきたんだろう?web上にほとんど情報も転がってなかったし。浅田彰が推してたくらいだ。浅田彰の文章なんて『東京ガールズブラボー』のあとがき対談ぶりくらいに真剣に読んだ。

詩集に入れてもらったサインの写真のっけてますが、これ、日付を書く時にえらく時間がかかってて、助け舟だそうにも、自分がその日何日かってことがわからなくて、わかった時に、あれ、英語でなんていえばいいの?と思ってたらその間に思い出してくれてた。そしてスパシーバに続く(いってみて、やった!と思った直後に机間違って蹴飛ばしたと言うかつまづいてゆらしてしまって迷惑かけるドジっ子ぷりも遺憾なく発揮)。
日付の入れ方見て、あ、ヨーロッパの人なんだなって思った。英会話教室いくようになって混乱したのが、とりあえずアメリカ人はJun 18 2009 みたいに月、日、年の順番で日付入れるのね。フランスにホームステイしてた時は 18.06.2009 みたいに日、月、年の順番だったから欧米でくくれないんだってこの時感じた。日本人は年月日だから全部違う。

*1:クラ吹きというかリード楽器奏者にとってリードは命です。ちなみにバンドレンは3がちょっと薄目だけどまあ標準、3 1/2がちょっと厚め、4はバカみたいに厚いから高校吹奏楽レベルでは変人しか使わない、という位置づけだったみたい。クラ吹きとかリード楽器吹きじゃないとわからない話だからいちおう参考:http://www.bbs.bun-chan.net/spt_res.cgi?file=141&ac=comment&res=2446