大人がやること

最近、自分の問題は結局「芸術」と「フェミニズム」に収斂されていくと気付いてもうシンプルに何がどうやってもそこに行き着くと気付いて少し気楽になった。なので気楽に書く。

浅田真央の新フリー「鐘」、初めてその選曲を知って振付師うんぬんを考えた時、不安というか動悸息切れブラックアウトを起こす*1という事態を引き起こしたくらい覚悟したものだが、その割りにはよいものだったなあって思った。曲発表されてからしばらくして彼女のためにコンサートで生録音してその音源使うと聞いた時に、そこにあるお金の臭いは感づかないわけにはいかないくらいどぎついものだったけども、お金なんかどうでもよくて、そのことにちょっとホっとして、あのタラソワさんの妙ちきりんなモダンオーケストラアレンジにはとりあえずならなそうだ、『鐘』以外の曲のつぎはぎもなさそうだ、と、まがりなりにもコンサート企画をやって演奏披露するくらいならまっとうに『鐘』の編曲で生オケなんだろうってそれだけでホっとして。
で、真央ちゃんにああいう表情を教育するのってどれくらい仕込んだんだろうタラソワさん。ああこの人は本当に大人だ、バンクーバー五輪のことを考えてるんじゃなくて、浅田真央フィギュアスケーターとしてのキャリアを考えてあげてるんだって、バンクーバーがゴールなんじゃなくて浅田真央にとってはただの通過点なんだって教えてもらって(多分キム・ヨナ陣営の考えも同様なんだと思う)、自分の底の浅さに赤面の至りです。
もっと個人的なことだと、いつも胃もたれするタラソワさんのこってり味付けが真央ちゃん特有の軽さで中和されて、なぜかこのコンビに限っては「ターニャおばさんのハイカロリー食堂」じゃなくなって通常のテンションで見られるんだよなあ、貴重なんです私にとってこれ。
もうこれ滑り込んでモノにした浅田真央が楽しみでならなくて、彼女はまだ一度も五輪に出てないのに金メダルとか煽られて、でも五輪に一度も出てないノーマークのダークホースがノンプレッシャーで楽しんできます、って立場にもいられなくて、考えてみれば可哀相だと思ってたんだけど(キム・ヨナについてもこれは同様)、可哀相っていっても出られない方がもっと可哀相だし可哀相ってそもそもそんな上から目線でいうことでもないし、彼女はまだ守りに入る段階じゃないし守りの戦い方もわからないだろうし、だったら思いっきり攻め構成で挑んだ方が気持ちは持って行きやすいんだろう、やりたいだけやればいい、跳びたいだけ跳べばいい、と思ったし、そう先生方も判断したんだろうなと想像したし、タラソワさんはいつまで教えていられるかわからないから今自分が教えてあげられる全てを彼女に注ぎ込んでいるんだなあと思った。あの子はあれでいいんだ、五輪で決めてみせればいいんだからいちいち試合ごとに騒ぐこともないよなあって思った。大きい試合で決まればいいんだよな、と、4年前の浅田真央荒川静香のことを思い出してみたりもした。

そして、『鐘』を滑る浅田真央を見て一番強く感じたのが、私達は「その後の花本はぐみ」を目撃できるということだ。『ハチミツとクローバー』のお話はあそこで終わって、私達は、はぐちゃんがリハビリを終えて創作活動に復帰した時、どんな作品を生み出すのかということはもう見ることはできない。でも、それと似たようなことを今季の浅田真央で見ることができるんじゃないかって思った。直感的にだけど。羽海野チカ先生がハチクロではもうそれ以上つっこんで描けなかった、だから主人公を男性に変えざるを得なくて*2、そして『3月のライオン』で取り組んでいることを、主人公が女性のまま実在の人物で見られるというのは相当すごいことなんじゃないかと身震いがしました。

ジャパンオープンの放送みた後の夜中のBS-hiのウィークエンドシアター枠がピナ・バウシュの『オルフェウスとエウリディケ』、『カフェ・ミュラー』その後にモーツァルトの『レクイエム』だったんです。最後の枠にモツレクを入れてくれたスタッフの思いっていうものにもグッときたのだけど、ピナの作品って語れないというか語りたくないけどわかる、女は子宮でものを考えるとバカにしていう人々もいますが、悔しかったら子宮もってみろ、と、子宮万歳、というか、ピナの胎内を視覚化された気分になって、その胎内に共鳴したというか、地面からわき上がるような共感というか子宮を持っているとされる性として生まれ育ったことをものすごく意識した。特に『カフェ・ミュラー』で。
うちの家系が父方も母方もみんな婦人科系弱くて、現在子宮を保有している女性、そして腹に傷がない女性の最年長が私だということもあり、そういう環境で育つと子宮の存在については何かの比喩とかではなく単に考えることが多く、ほとんどは「おばさんの子宮筋腫の摘出手術の時、お見舞いにいって『こみや』って読んで笑われたのっていくつの時だっけ?」とかそんくらいの程度のことなんだけど、まあでも体の中に空洞があるっていう性だからこそ生み出せる作品というのがあると思うのです。そして、ピナは、自分の体の空洞を意識して舞台を作ってた人だったんじゃないかなあって思ったんです。ただの直感ですけど。
その空洞も取り除かれる日が中年になったら来る、その決断を下す日が来る、と小さな頃からずっと思って生きてきたのだけど、なぜか私が抱えた体の問題は卵巣であり、親戚中から「え、そっち?」と珍獣扱いされてる現在です。「うん、子宮は定期検診受けてるけどこの年齢で特に問題ないと言われ続けている」、と答えると家系的に奇跡扱いされる、そんな環境です。
子宮に響く感覚って、でも、大事だと思う。子宮跡地だったり外気に晒された子宮に響く感覚っていうのは、もっと大事かもしれないなとも思う。腹かっさばいた人達に囲まれて育って、気付いたら年下の従妹までかっさばいてて、そういうことをなんだか思う。文化以前に響き渡る本能のことを私は言ってるんだと思う。本能から生み出された芸術なんじゃないかって、あの放送みて思った。
非常に厳しい舞台の上で生き延びるためには最終的には本能と嗅覚しか頼れるものはないだろう。演者のその本能を剥き出しにするために演出家はあらゆる苦難を浴びせかける。その厳しさに耐えられない演者はそこを去るのみだ。
そしてまた浅田真央のことを思う。あの構成にしないと剥き出しの浅田真央は見られない。そしてその剥き出しになった浅田真央のことを私は知りたい。世間体をとりつくろうペルソナがはげ落ちた浅田真央を見たい。成績なんかどうでもいい、笑顔なんかどうでもいい。何より私は剥き出しの浅田真央と出会える可能性にドキドキしているのだった。

*1:実話

*2:ダ・ビンチかなんかのインタビューでそのようなことおっしゃってました