路傍の石とリバーズ・エッジ

marginalism2009-11-16

善光寺お参りしようと参道の敷石の上歩いてたらちっちゃい石ころをけとばしちゃって、でもこんな石ころにも意味があるんだよなあ、とその前日に見たプログラムと結びつけてその時考えていて、私がその元になった映画のハイライトになるシーンを長いことカラーフィルムでピストルが出てくると勘違いしていた理由は『俺たちに明日はない』のハイライトになるシーンとごっちゃになっていたようだ、と気付き、この二つの映画をモチーフにフィギュアスケートのプログラムを振付けているカメレンゴさんの原風景にきっとああいう背の高い雑草の生い茂った荒涼とした乾いた風が吹いてそうな川辺ってあるんだろうなあ、って思って、あの『道』のプログラムって『道』の映画に沿っているっていうより、カメレンゴさんの原風景を焼き付けたプログラムなような気がして、『道』の映画みたら、あのプログラムのラストの終わり方、ちょっとしっくりこないなあと思ってたんだけど、カメレンゴさんの原風景を紡ぎ出したものと映画の世界観をミックスしたんだとしたらあれでいいんだろうなあ、と納得したというか、実際、SlStでこっち側に迫ってきた時に(ショートサイド席でした)、私のあやふやな耳と音感で起こすとラ♭ソーファソラ♭ソーってところ、わかりやすくいうとジャージャージャジャジャージャーンってところで両手広げて三段階で上げていくじゃないですか、テレビで見てるのと違ってあれに全く違和感ないというか説得力なのかなあ、力技でねじこまれたのかなあ、よくわかんないけどその動きに引き込まれて気付いたら終わってて彼も私も立ってた。

日本のとりわけ年中温暖で潤っていて過ごしやすい気候の中で育ったであろう人が、いともたやすくその作った人の原風景まで焼き付けて具現化しているのが不思議だなあって思いながら今度はジャポネスクなプログラム目の前で滑ってるの見てたら視界から消えて、この人が何かやらかして視界から消えるのはもう慣れたんだけど、もう転んでも素に戻らないんだなあ、って、直後のレイバックスピンが月見草みたいで、そんで今度はSlStで遠ざかってくんだけど、滑り大きくなったなあ、と見とれてるうちにSlStでリンク半分くらいまでいっちゃってて、そのあたりから涙ボロボロ出てきて困った。なんだろうね、あれ。

わからないなりに考えてみたんだけど、これ練習大変だろうな、っていうのが透けて見えたというか肌で感じたんだと思うんだよね、こういう曲練習してて難しくて難しくて一音でもはみ出したら世界観壊しちゃうからプレッシャーものすごかったっていうことを思い出して、転んでも世界観壊さなかったことに逆に脅威や感嘆を覚えたのかもしれないなあ、などと個人的な思い出と結びついた涙なのかなあと、いやでもよくわかんないけど。

実際にその時思い出した曲と楽譜を見られる動画を探してきました。
Debussy - Arabesque No. 1

http://www.youtube.com/watch?v=Yh36PaE-Pf0

見てもらえばわかると思いますけど、シンプルでよどみなくずっと流れ続ける美しい楽譜で、簡単そうに見えるし実際に子供でも弾けるし、弾くだけならそんなに難しくないんだけど、聴かせるように、作者が意図したように弾くのは私の技術ではすごく難しい曲でした。すごく好きな曲でこの曲弾きたいって自分から楽譜持ってったのに、弾きたいように弾けなくて何度も悔しくて泣いた。作者の意図はわかるのにそれを伝えられない自分の技術の拙さに泣けた。手首や顎を痛めたのもあるけど、それ以上に音楽は私の表現手段じゃないんだろうなあ、と自覚して、それでも自分なりに区切りつけるまではやめられなくて、そういう苦しさとかも思い出したのかな。才能もないのに意地になって続けて行くつらさっていうのがあって、才能がある人を目の当たりにした時のつらさっていうのもあって、逆に才能があるつらさっていうのもあって、才能がない人から受ける視線のつらさっていうのもあって、あのSlSt中盤からラストまで泣き通したのは、そういうの全部体験した感覚が甦ったからかもしれないとも思った。そしてそういうことを思い出した上で、ああ一人じゃない、この人もそういうこと知ってる人だ、と感じたからかもしれない。